歴史文化遺産をどう考えるか―「見えるもの」と「見えないもの」
堀内 そうだと思います。池田家の門は左右両方に番屋があって、破風のきれいな格式の高いものですけど、実は加賀藩の表門は片方にしか番屋がなくて、格式をわざとひとつ落としていました。これもいろいろな研究の中でわかったのですが、幕府から「もう少し簡素な門にしろ」と言われたなかで、加賀藩は従ったんですけど、鳥取藩は従っていないようですね。実は赤門は、本当に赤に塗らなきゃいけなかったのかも良くわかりませんし、加賀藩の赤門の裏側は赤に塗らないで、費用を少し安くあげたという記録も残っています。しかし、そうしたことが大名家の裁量でできたのかどうかについてもよくわかっていません。
私は40年間、学内の発掘調査をしており、東大キャンパスと言えば赤門と考える方が多いのですが、赤門は加賀藩邸の構成要素のひとつで、三四郎池(育徳園)もたいへん重要です。こうしたものを全体として評価する必要があると思っています。それぞれに機能がありその性格によって構造がまったく違ってくる。ですので、シンボリックな赤門をフォーカスすることは問題ないのですが、将来に何を残すのかと考えたとき、大学の歴史文化遺産に対する考え方が表れると思っています。
残っているものへの評価は、「見える」・「見えない」ということは関係ない。赤門は見えるから残っている、溝の境遺構は土の中に埋まっているから、見えない。しかし後者が残っていないのかというと、実はきれいに残っている。それらが有機的につながりながら、ひとつの屋敷として構成されていたわけです。そういった歴史を考えながら保存する視点、全体として評価する視野が必要だと思います。

図10 三四郎池
三四郎池と大名庭園
髙岸 次に庭園に目を移したいと思いますが、三四郎池の特色を教えてください。
堀内 今、学内に残っている三四郎池は、“池”がフォーカスされていますけれど、もともとは庭園の構成要素のひとつです。茶屋もそのひとつで、唐傘御亭(からかさおちん)と文書には記されていますが、学内でも知っている人がいないような、池の南側の見晴らしの良い場所に茶屋などもあって、泉水、橋、築山など回遊式大名庭園の構成要素がすべて具備されていました。弥生門前の工学部3号館の発掘調査をした際にわかったのですが、三四郎池から流れ出してくる川が、今の弥生門のところから水戸藩の敷地の中に一回入って、不忍池のほうに流れ出しているんです。元禄時代の5代藩主・前田綱紀(つなのり)(1643~1724)ころの埋まった層から砂がウワーッと出てくるんですね。おそらく洲浜が作られていたようで“育徳園”という名前が綱紀によってつけられたのもそのころです。何回かに分けて段階的に手が加えられ、名園という評価を得るにいたったのだと思います。

図11 江戸御上屋敷絵図 金沢市立玉川図書館(清水文庫)所蔵
そういう意味からすれば、加賀藩邸が近代になって大学に転換し、庭園を整備しない状態が、今に続いている。そんな場所だなと思っていますが、松田さん、いかがですか。
松田 今の三四郎池は、かつて名園の一部であったことがあまりにも感じられない状態になっていると私は思っています。東京大学は2027年に150周年を迎えますので、記念事業として三四郎池周辺の整備を行い、本郷キャンパスの真ん中に名園として蘇らせるのはいかがでしょうかと、大学に働きかけをしてみたことがあります。そうしたときに、育徳園の在り方検討ワーキンググループの報告書が出たのですが、この報告書を読み、育徳園の歴史性をもっと重視すべきだという考えと同時に、今日の三四郎池周辺の自然環境を大切にすべきだという意見があったことに気付かされました。できるだけ手を入れない方が現在の生態系を守るという考え方に納得すると同時に、日本庭園としての価値が損なわれたままで良いのかについては、私の中でもいまだ答えが出ていません。目黒にある国立科学博物館附属自然教育園も江戸時代の大名藩邸の庭園をルーツにしていますが、できるだけ人の手を入れないという方針で長らく臨んできたところ、今では自然遷移が観察できる都心部では稀有な場所になっています。その意味では、三四郎池も、かつての名園が忘れられて寂れていく様、また庭園に替わって自然環境が保持され、また遷移していく様を観察できる場として位置づけるのも手なのかもしれません。本郷キャンパスにあるもうひとつの日本庭園、懐徳館庭園がしっかりと手をいれて管理されていることとのコントラストを活かすという考え方ですね。とは言え、夏の三四郎池は、蚊の大群に襲われるためほとんど誰も行かない、楽しめないという現況で良いのかと問われると、やはり迷います。
鈴木 たしかモースの回想で、あんまり荒れ果てているから、あそこを自費で手を入れたいと大学当局に申し出たというのが明治10年代ですかね、ありましたけど、明治の末ごろには、一応、歩けるようにはある程度整備されていようです。
松田 三四郎池の現況が大学として望ましいものなのか、また、意図的にあまり手を入れないから今の状態になっているのか、それとも明確な方針がないからあの状態になっているのか、しばしば考えます。
芳賀 庭園としてベストな状態に保とうと思ったら、もう絶え間なく手を入れ続けなければいけなくて、それがとうていできないのであれば、ということに今は落ち着いているんでしょうね。
髙岸 大名庭園としての姿を復元していくのか、赤門脇の遺構をどう見せるのか、いずれも今後の課題ですが、江戸時代の加賀藩邸の痕跡が想像以上に残されていることに驚きました。続く第二部では、東大のキャンパスとなったあと、明治・大正・昭和の激動の時代を考えてみたいと思います。
東京大学埋蔵文化財調査室
https://www.aru.u-tokyo.ac.jp/index.html