加賀藩邸の発掘品からわかる大名の江戸生活
髙岸 加賀藩の江戸藩邸から発掘された陶磁器と、国元の金沢城址やKKRホテル金沢改築に伴う出土品とは、何か違いはあるのでしょうか。
堀内 江戸には各大名の藩邸がありまして、彼らがどこでお金を使っているのかを見ると、概ね半分以上は江戸で使っているんですね、国元ではありません。その要因は、江戸で行われたさまざまな大名の活動、例えば将軍家に対する奉公ですとか、大名家同士の付き合いとか、そういったものにお金をたくさん使っているんです。これは私の印象ですが、江戸藩邸で持っているモノのグレードというのは、領国で持っているものよりもいいものが多い、という感じです。
髙岸 加賀といえば、“九谷焼”が思い浮かぶのですが、北陸エリアのやきものが江戸藩邸から出てくるということもあるんでしょうか。
堀内 本郷キャンパス内の医学部附属病院地点、特に天和2年(1682年)の八百屋お七の火事によって廃棄されたとされる地下室から“古九谷”と考えられる陶片が出土しています。実は“古九谷”は佐賀の有田の窯でつくられたのか、加賀大聖寺領内の窯でつくられたのかという「生産地問題」は、デリケートな部分を含んでいますが、それはそれとして、ざっくり言うと、磁器は茶道具を除いて今で言う消耗品です。九谷焼は、今は美術的に非常に高く評価されていますけど、有田焼の大皿や大鉢なども含めて、当時の大名にとっては食膳具であり、家臣との共食や他の大名家との接待の中で使う儀礼道具でした。加賀藩の使っているこうした道具は食膳具としては上質なものですが、現在のような価値基準ではなかった、というのが私の印象ですね。とはいえ、そういった付き合いの中で、国元で十全な質のものが十全な量で生産できれば、多く使われ、出土品もそれに伴ってあるはずなのですが、残念ながら現在のところ、たくさん出てきている状況ではないですね。

図4 武家儀礼の道具(御殿下記念館地点)
髙岸 陶磁器以外の出土品はいかがでしょうか。
堀内 最も多いのは、瓦ですね。もちろん石製品、金属、ガラス、木製品なども出土しています。当時の生活財の中で、地中に残りやすいものと残りにくいものがありますが、何が残りやすいかというと、腐らないもの、変質しないもの、なくなりにくいものになります。焼き物や石、あるいはある金属の一部などが残りやすいということになります。
なぜ赤門は建てられたのか?

図5 赤門正面
髙岸 赤門は東大のシンボルとして広く親しまれています。将軍家から溶姫が前田家に輿入れするに際して建てられたということですが、大名家にとっては経済的に負担が大きいですし、いろいろ気もつかったように思いますが?
堀内 文政10年(1827年)に嫁入りする溶姫(1813~1868)は11代将軍・徳川家斉(1773~1841)の第21女ですが、家斉は実に多くの子どもをつくっているので、加賀藩はいずれ前田家にも子女がまわってくるだろうと危機感を覚えていて、逃げていたんですね(笑)。溶姫が嫁ぐことになる前田斉泰(1811~1884)が生まれるとほどなく、許嫁を決めてしまうんです。ところがその許嫁が亡くなってしまい、溶姫との婚儀は仕方なくという感じもします。
髙岸 光栄だけれども、できれば避けたい。しかし、家の格から考えて仕方がないと。
堀内 前の藩主たちも徳川の血縁者をもらっているので、しようがない、と思ったのかなという気はします。加賀藩にとっては大きな出費が強いられることになるので、そういった危惧もあったのだろうと思います。
髙岸 現在の東京大学正門の南のほうに赤門は位置していますが、藩邸の全体構造からして何か理由があるんですか。
堀内 それ以前、5代将軍・徳川綱吉(1646~1709)は子どもがなかったので尾張徳川家から松姫という養女をもらっています。その松姫は6代当主・前田吉徳(1690~1745)へ嫁ぎ、本郷邸に来るのですね。溶姫と同じ場所に御守殿が建てられています。加賀藩は、それを最初から想定していたわけではないでしょうけど、現在の三四郎池と表御殿があった南側の間に、ずっと空閑地がありました。松姫が亡くなった後、御守殿はとり壊されますが、その後も、あまり有効活用されていない場所となっていました。
髙岸 綱吉の時代の先例を踏襲したということと、空き地があったという、両方なんですかね。
堀内 徳川から来たお姫様の御守殿の場合は、必ず屋敷の外にアクセスできる門をつくらなければいけないんです。
髙岸 なるほど。
堀内 他家から輿入れした場合は、そもそもの加賀藩邸の表門があるので、そこから入って一番奥にある奥御殿に居住するわけですけど、徳川から来たお姫様には、中山道―現在の本郷通り―に面したところに門を作っています。ある意味、独立した御殿として認識できるような性格を持っていました。加賀藩の御殿ではなくて、加賀藩邸の中にありますが徳川のお姫様の御殿。今で言えば、住所も世帯主も違うという、そういうイメージですね。
赤門の近くで新たに遺構を発見
髙岸 赤門の守衛所の付近で最近、発掘が行われましたね。

図6 赤門脇の境溝の位置
芳賀 鈴木さんのほうが詳しいんですけども、全学的なプロジェクトで赤門脇にトイレを建設する計画がありまして 、埋蔵文化財調査室でそれに伴う発掘調査を行ったんです。
鈴木 “誰でもトイレ”みたいなものを赤門北側につくろうというプロジェクトが前総長の終わりのころにあって、「(仮称)赤門脇トイレ」デザインコンペティションを実施しました。締め切りを2021年1月として全ての学生・研究員を対象に行い、全学からかなりいい応募作がたくさんあって、激戦の末、選ばれたんです。それで、いよいよあそこにつくろうということになって、掘ってみたら遺構に当たった。

図7 芳賀京子教授
芳賀 東大キャンパスは本郷台遺跡群の一角にあって、弥生時代の遺跡もありますけれども、江戸時代にこの地にあった加賀藩本郷邸の上にあるので、何か新しい構造物を建てるときには、必ず発掘をして調査するというプロセスが必要になります。トイレをつくろうと思っている場所を掘ったら、赤門から続いている石組の溝が見つかってしまったわけです。一時は、そのままつくるかという話もチラリとはあったんですけれども、それはやめてほしいと。たとえ保存のために遺跡を埋めたとしても、傷む可能性がかなり高いと考えられますので、トイレは少し場所をずらしてつくっていただくことになりました。遺跡の方は、できれば展示保存したいということで、いま 「ひらけ!赤門プロジェクト」というものを進めています。2027年を目指して、赤門の修復と耐震工事を進めているのですけれども、その横の遺跡も一緒に保存展示するような形にできればと思っています。これは赤門周りの環境も含めた再整備計画なのですが、残念ながら予算が十分ではなく、寄附金を募っているところです。まずは赤門の保存、それから赤門周りの整備。目標額が達成できなければ、遺跡は展示せず、埋め戻したままということに。
髙岸 掘って出てきた石組というのは溝みたいなものなんですか。
堀内 屋敷境ですね。先ほどお話しした溶姫御殿の屋敷境ですね。発掘調査をしてみると非常に堅牢な構造で、丁寧に造り込まれているということがわかったのですが、こうしたものは前例がありませんでした。石組の溝という構造は、他の藩の屋敷でも認められますが、その上をきれいに漆喰で溝底を固めていて、溝の幅も1.2mもあり、広くて非常に気をつかって作っているな、というのがそのときの正直な感想でしたね。

図8 赤門脇境溝
髙岸 将来、整備が実現できれば赤門と一緒に見ることができると。
芳賀 そうですね。今の赤門の位置自体も、もともとは西に15mほどずれていて、明治36年に現在の位置に移されたので、江戸時代の屋敷境を示しているのはこの溝ということになります。
鈴木 あの溝はつくられた時には門の外側だったわけですね?
堀内 そうです、屋敷の外境です。
芳賀 お城で言うところの堀みたいな感じですか。
堀内 そんな感じですね。防御性はありませんが・・・。
鈴木 外からよく見えるものだった。
髙岸 確かに、現在のキャンパスでは、赤門だけが江戸時代の建物としてポツンと孤立していますが、周囲との関係を含めて加賀藩邸の雰囲気がわかるようになるとよいですね。
鈴木 加賀藩邸時代の 表門はどこにあったんですか。
堀内 本郷通の赤門の南側、クランクになっている、昔、学士会分館のビアガーデンがあった前。
鈴木 新聞屋さんなんかがある?
堀内 はいはい。あそこの前に理学部2号館がありますね。あれが表門の遺構を壊しています(笑)。
鈴木 ああ、そうなんだ、なくなっちゃっている。
堀内 なくなっていますね、完全に真下ですね。
鈴木 表門があって赤門があるというのがわかると、屋敷の今おっしゃっていた構造を示すにはいいんだけど、じゃ、残念ながらということですか。
堀内 イメージ的には東京国立博物館に残っている鳥取藩の表門、ああいう形のものがあったはずですけど。
髙岸 鳥取池田家の門は唐破風が印象的ですね。あのような立派な門と、かわいらしい赤門が並立していたわけですね。

図9 旧因州池田屋敷表門(黒門)東京国立博物館デジタルコンテンツC0059451