髙岸 今回、NHKの番組「ブラタモリ」で東京大学のキャンパスが取り上げられることになりました。2回の放送のうち、1回目の「加賀百万石と東大」では、近世遺跡や大名藩邸、近世陶磁史、歴史考古学を専門にされている堀内秀樹さんが出演されました。2回目の「東京大学の宝」では、古いものごとになんでも関心があるという、文化資源学の松田陽さんが案内人を務めています。本日は、お二人に加えて、埋蔵文化財調査室室長で古代ギリシア・ローマの美術史が専門の芳賀京子さん、そしてキャンパス計画室を長らく兼任されている日本近代史の鈴木淳さんに参加いただきました。私は文学部の広報委員長を務めております髙岸輝です。専門は日本美術史で、最近、大名家の美術コレクションにも関心をもっています。


図1 対談参加者 髙岸輝、芳賀京子、松田陽、堀内秀樹、鈴木淳(左から順)

この本郷キャンパスのある場所は、江戸時代に加賀藩・前田家の上屋敷だったというのはよく知られていると思います。明治時代、加賀藩邸が東京大学のキャンパスに転換された背景には、どういう事情があったのでしょうか。

鈴木 大学としては「上野の山が欲しい」と言ってみたりします。東京大学は設立当初から多くのお雇い外国人(教師)を招いており、そのお雇い外国人が「大学は“高燥の地”につくらなくてはいけない」ってうるさかったようです。しかし、上野は競争が厳しくて、本郷になったわけです。

髙岸 東京大学には病院もありますから、衛生的にも高燥な場所がいいと。では、加賀藩邸があった、近世の本郷の風景はどんな感じだったのですか。

東京大学本郷キャンパスを掘ってみると

堀内 中心はもちろん江戸城ということなのですけど、日本橋から五街道が伸びていって、今の本郷通りが中山道に当たる部分なのですが、その本郷三丁目の角に“兼康(かねやす)”という店(歯磨き粉「乳香散」)があって、川柳にも「兼康までは江戸のうち」と詠まれています。湯島や本郷などの町家が多い場所だったんですが、そこから北のほうは加賀藩、さらに北は水戸藩の藩邸になっていて、通りの西側も飛び飛びですけど大名屋敷があったりして、繁華なところというよりは武家屋敷が立ち並ぶ静かなところ、という景観だったと思いますね。


図2 小石川谷中本郷絵図 東京都立図書館


図3 堀内秀樹教授

髙岸 前田家は加賀百万石と言われ、大名家としては最大の石高を有していましたね。

堀内 前田家と徳川家って、実は血縁的には非常に近い関係になっていきますが、そもそも豊臣秀吉の死後、一時期、覇権を争うような状況がありました。徳川家が最終的に覇権を握ったあとも非常に気をつかう相手でもありましたし、臣下として取り込む必要もあった。そうしたことから、代々の前田家をみてみると、徳川の血縁者や親近者と婚礼を行っています。

そうしたことを含めて、私は1984年からキャンパス内の発掘調査・研究に従事していますが、やればやるほど、「こういうのが大名屋敷の象徴的というか、典型的なあり方なんだな」と思うようになっていきましたね。

髙岸 発掘品でいちばん古いものというと、江戸時代初期、17世紀くらいのものでしょうか。

堀内 前田家関係ということであれば、14世紀くらいの中国の青磁類や朝鮮、東南アジア、ヨーロッパ、西アジアなど、それほど量は多くないですけど、古い陶磁器がでています。お茶道具や調度品を藩の御用品として保管・使用されていたものです。

東大構内の発掘と近世考古学のはじまり

髙岸 発掘される陶磁器は、基本的には廃棄されたもの、つまり割れたりして埋められたものですか。それとも火災で建物が焼けて、そのまま埋まったという感じなのでしょうか。

堀内 私どもは「遺跡化する」と呼んでいますが、地面の中で遺跡や考古学の資料として埋蔵される状況に至る経緯はさまざまですね。要らないから捨てる、壊れたから捨てる、使えなくなったら捨てる、あとは例えば飽きたから捨てるなど、さまざまな要因で廃棄というのは行われてきています。そういった人間の活動を発掘調査によって出土した資料から窺い、何とか解き明かそうというのが私たちの仕事になります。

鈴木 江戸の考古学というのは本格的にこの調査で始まった、ということでしたね。

芳賀 文献資料がある時代でも考古学からわかることもたくさんあるのだと。

鈴木 大学だからこそ掘れた、という面はあるんですか。

堀内 ありますね。今も同じですが、当時、埋蔵文化財の範囲は中世までは発掘調査を行うことになっていましたが、近世は入っていませんでした。東京大学の創立100周年事業の一環として計画された御殿下記念館、山上会館の試掘調査で、たまたま江戸時代の屋敷の石垣とか金箔瓦が出てきたので、「大学さんだから、掘ってみてよ」という話から始まっているんですね。

芳賀 大学だからこそ、という部分がかなり大きかったんですね。

髙岸 われわれは考古学というと、文字が残っていない時代の石器や土器というイメージが強いのですが、ギリシア・ローマでもそうですか。

芳賀 実は、西洋世界では考古学というのは、文字がある歴史時代の研究から始まったんですね 。ギリシア・ローマ時代は日本で言うと弥生時代あたりですけれど。

堀内 日本の場合は、最初、大森貝塚からスタートしたというのが大きいとは思いますね。エジプトでも、インダスでも、中国でも文字がありますから。

芳賀 そうですね。日本では先史までというイメージが強くて、それが現在も続いていますが、東京大学は近世・近代考古学の牽引役となったということですね。

堀内 積極的に踏み出せたのは、やっぱり大学ならでは、と思いますね。もちろん歴史時代の考古学をやっていなかったわけではないですけど、江戸時代まで踏み込むというのはなかなか……。

鈴木 ちゃんと掘り始めたのはここからですよね、やっぱり。

堀内 これまでもいくつかはありましたが、あの規模で調査を始めたのはそうですね。あと、時代もよろしい時代だったので。

鈴木 それはどういう意味で“よろしい”時代だったんですか。

堀内 お金がたくさん、今とは違ってあって(笑)、100周年事業では一回の声かけで100億以上のお金が集まってですね。当時、7%くらい利率があって1年で7億の利子が……。

髙岸 なるほど。100周年というと1970年代、ちょうど50年前ということですね。

鈴木 大学だからというだけではなくて100周年だったから、というのもあったんでしょうね。

堀内 当時の大学がどう考えていたかわかりませんが、そういったことにも寄与しようと判断されたんだと思います。