安田講堂にのこされた歴史の痕跡

髙岸 松田さんは安田講堂の塔のてっぺんまでのぼられましたが、あそこは学生運動の拠点でもありました。中に何か痕跡はありましたか。

図5 便殿の落書き
図5 便殿の落書き

松田 いわゆる東大紛争で立てこもった学生たちが安田講堂内の至るところに落書きをしました。それらは東大にとって決して誇らしい歴史ではないからか、改修の際にほとんどは消されてしまうのですが、おもしろいことに意図的に残された落書きが一つあります。しかも便殿(びんでん)の中です。2013~14年の改修工事を担当された先生にお話を聞いたのですが、「残すことが東大にとって望ましいかどうかは不明だったし、実際にいろいろな意見があったが、この落書きも東大の歴史の一部であることには間違いないから、残すことにした」とおっしゃっていました。一時的な損得判断に委ねるのではなく、長期的に物事を捉えようとする歴史学的な展望を感じさせる英断だと思いました。

 あと、安田講堂の1階と2階には、今は本部事務のいろいろ部署が入っていますが、そこの壁紙の下にもまだ落書きがびっしり残っていると聞きました。見えずとも残っているというのは面白いですね。

髙岸 東大の戦後史ですね。

松田 本郷キャンパスの紹介という点では、『東京大学本郷キャンパス案内』と『東京大学本郷キャンパス: 140年の歴史をたどる』という優れた本が二冊出ています。これらを読むとわかりますが、本郷キャンパス内の文化財、さらにはいまだ文化財として認知されていないような文化資源についても、すでにかなり細かい調査がなされています。しかしせっかくであれば、私自身はまだ誰も気づいていないような歴史の痕跡を読み取っていきたいと思っています。実際に、そうした目で見ると、「これはなんだろう?」と思う不思議なものがキャンパス内にはまだまだ残っているんですね。そうなると次に考えるのが、「なぜこれが残っているのだろう?」という問題です。意図的に残されているものもあれば、なんとなく残っているもの、みんな忘れたから残っているものもあって、これまた非常に面白い。

 その関連でいうと、安田講堂の正面に車寄せのポーチがありますが、その表面には黒ずみが見られます。この黒ずみは、東大紛争のときに火炎瓶が燃えてできたものだと言われています。実際にそのあたりで火炎瓶が燃えましたので、そう思ってしまいたくなります。黒ずみに大学紛争の痕跡が読み取れる、というストーリーは魅力的ですよね。

 ただ、実は正確なところはわかりません。大学紛争前のポーチの写真を見てもけっこう黒ずんでいるんですよね(笑)。このあたりの表現をどうすべきか、「ブラタモリ」のディレクターとは何度かやりとりをしました。その結果、「火炎瓶で焼けたのではないかと言われています」という表現に落ち着きました。「言われている」のは事実ですので。

 この黒ずみが付いているのは砂岩のブロックです。一般的に砂岩は脆いのですが、安田講堂に使われた砂岩ブロックは茨城県の四倉でとれた「日の出石」という、砂岩の中では耐久性の強いものだったため、今でも比較的良く残っています。ただ、自然風化に加えて大学紛争時代に物理的損傷を受けたためか、ポーチ部分の砂岩はかなり劣化が進んでいます。2013-14年の改修時には、このポーチを補修しないのかという議論もありましたが、いかんせん安田講堂正面の象徴的な場所であるため、現状維持が選択されたと聞きました。将来さらに劣化が進んだら、そのときにまた改めてどうするか考えましょうという結論になったということでしたが、これもまた、短期的な判断に委ねず、長期的に物事を考えようとする良い判断だったと私は思います。​

図6 安田講堂
図6 安田講堂

髙岸 おもしろい話ですね。

鈴木 戦後、1952年2月に警察官の構内への立ち入りをめぐり東大ポポロ事件が起こり、当時は東大事件と呼ばれていました。その2か月後、4月20日に第二東大事件といって、学生たちが構内をパトロールしていたお巡りさんを安田講堂の中で監禁する事件が起こります。その時、お巡りさんが天井に向けてピストルを撃って助けを求めたと新聞報道されていて、どこかの天井に穴が開いているんじゃないかという期待があるんですけど、どうでしたか。

松田 2013~14年の安田講堂改修工事については、工事の際になされた大きな判断の一つひとつがどういったプロセスを経たものであるのかを詳述した優れた報告書が出ていますが、弾丸の跡が残っているとは書かれていなかったと思います。

鈴木 書かれてないですか……。

松田 結局はどうなったのか、ちょっとわからないですね。

 安田講堂で言いますと、時計台のてっぺんまで上がりましたが、たしかここは一時大学史史料室が入っていたところだったな、と階段を上りながら思い出しておりました。史料保管や大学史編纂作業を行うのに適した場所とはとても感じられませんでしたが、逆に言えば、キャンパス内でのスペース確保が至難である状況下で、史料室はなんとかあの場所を確保できたのだろうなとも思いました。史料室はその後、大学文書館としてちゃんと組織化されて良かったです。

鈴木 確かに雨漏りがして問題がありました。今、文書館の収蔵スペースは主に柏キャンパスに確保されています。編纂室は大学から追い出されて、壱岐坂上にあるので、私は文学部と歩いて往復するのがちょっとつらいんですけど(笑)。

赤門は東京大空襲からいかに守られたのか?

堀内 先ほど空襲被害という話がありましたが、当時の新聞記事「赤門かくて焼けず」のなかに赤門の周辺が焼けたときに、学生たちがバケツリレーをして消火したと。その記事は知っていたので、番組の中で言ってしまいましたが、詳しくご存じですか。

松田 3月10日の東京大空襲の際に赤門が燃えないようにバケツリレーで消したと報じた大学新聞の記事は、公文書ではなく、しかも明らかに美談風に書かれていますので、たしかに信憑性がちょっと気になるところです。建築の学生だった森君と滝君という二人の名前を挙げていますので、彼ら二人が他の人たちと一緒に消火活動をしたというあたりまでは信頼できるような気はしますが。

芳賀 学生の活躍というのは、関東大震災のときも図書館が炎上して、それで学生たちが頑張ったという話を鈴木さんからお聞きしたことがあります。

鈴木 あれは、実は本を運び出しただけで、燃えるのは見ていたし……。やっぱり赤門にバケツで水をかけて火を消すの、難しいと思いますよ(笑)。

堀内 どこから水を汲んできて、どこに運んでいたのかなって。

鈴木 水を汲むのは、たぶん私設の水道消火栓があって、関東大震災のときは上水道がダウンしていたから大変だったんですけど、空襲のときは水道が生きていましたから、消火栓を開けて水を出したはずです。それで出した水をバケツリレーして持っていったのかな~。そんなら消防ホースを使えばいいのにって、思いますけどね。梯子をかけて上に登ればいいんだけど、そういう話?

芳賀 人数が相当要りますよね。

髙岸 江戸の火消しみたいな(笑)。

松田 バケツリレーではなくて手押しポンプだったと明記されている文章もありますね。

鈴木 私は、その記事を見ていないのでわからないんですけど、水はたぶん水道か防火用水槽から。それに防護団の手押しポンプがあったはずなんです。放水するのはポンプだけど、ポンプに水を汲み込むのにバケツリレーするというやり方があって、それをやってくれていたほうが話としては合理的です。そうじゃないと、バケツリレーで守れると思われちゃうと、今後の防火設備を考えるのに、まずいですね。

関東大震災で灰になった旧図書館の蔵書

図7 焼失した旧図書館の焼土・灰層
図7 焼失した旧図書館の焼土・灰層

堀内 江戸の火消しで思い出したのですが、図書館前の発掘調査を行っていたときですが、関東大震災で焼けた旧図書館の基礎が確認されまして、こんな強固なレンガ積みの基礎をつくっていたんだと思う反面、最大10cmくらいの焼土層がきれいに出てきた上に、灰が一面に検出されました。江戸時代は火災が多く、加賀藩邸も何回も焼けましたが、灰層になって検出されたことは一回も見たことないんです。

芳賀 土が焼けているあとだけで。

堀内 壁土、屋根土が焼けて焼土になっていくんですけど。

芳賀 灰というのは本ですか。

堀内 本だと思います。書庫の部分に白い灰が一面に出てきて、灰層ってできるんだ、って、そのとき思いましたね。

髙岸 層になるほどの蔵書というのはすごいことですね。

鈴木 すごいです。だって、そのあとも風が吹いて飛ばされたりさんざんしたであろうものが、まだ埋まっているというのですから。

堀内 そこまで焼土が形成されたので、おそらく火災で崩れた建物によって熾(お)き状態になって、そのまま、放置されたのだと思うんですね。そのときにそこの下にあった本がですね……。

鈴木 きれいに灰になって、そのまま上を焼土が覆っちゃったと。

堀内 屋根が火災によってそのまま落ちたので、下がパックされて、温度が上がったのだと思います。

鈴木 そのまま掃除されないで埋まっている状態になっている。そんなものが残っているんですね……。

堀内 今の時代にはそういったことは起きないですね。水などをかけない状態で長い間熾き状態になるというのは、シチュエーションとしてはないので。