髙岸 松田さんは「ブラタモリ」でタモリさんと安田講堂の塔(時計台)にのぼられたそうですね。
鈴木 それはうらやましい。
髙岸 学内の関係者でものぼったことがある人はほとんどいないと思います。
松田 安田講堂の案内をしながらも、私は建築の専門家ではないのに良いのかなという思いがありましたが。
髙岸 さて、前半は主に堀内さんに加賀藩前田家の藩邸と埋蔵物についてお聞きしました。後半は大学キャンパスとしての建築物や構内のレイアウトについて伺いたいと思っています。安田講堂は大正10年(1921年)に起工し、大正12年の関東大震災を経て、大正14年(1925年)に竣工しました。ちょうど今から100年前ですね。松田さん、関東大震災前後のキャンパスの状況を解説していただけますか。
100年前の本郷キャンパス

図1 濱尾 新 像
松田 今の本郷キャンパスには14体の銅像が屋外に置かれていますが、そのうちで最も大きいものが濱尾新(はまおあらた)先生の像です。濱尾先生は1893年から1897年、そして1905年から1912年と、計約11年の長期間にわたって大学総長を務めた方です。その濱尾先生が、今日で言うところの本郷キャンパス計画の源流をつくったと言っても差し支えないでしょう。「キャンパスがどうあるべきか」をいろいろと考えられたようですが、最もわかりやすいのは、今の正門と安田講堂の間の軸線を定められたことでしょう。

図2 安田講堂と銀杏並木
今日、この軸線沿いにはイチョウ並木があり、12月初旬頃にはこのイチョウが黄葉して、東京大学の風物詩と言える情景になります。濱尾先生は「正門から入ったら万人自ら襟を正すような厳粛な雰囲気にしたい」との考えから、正門から真っ直ぐ伸びる道が長く確保できる場所を定め、1906年頃になってそこにイチョウの木を移植させました。イチョウ並木が生まれた当時、道の両側にはジョサイア・コンドル先生の設計による壮麗なヴィクトリアン・ゴシック様式の建物がたっていましたので、濱尾先生は軸線沿いに「厳粛な雰囲気」を醸成させることに成功したと言えるかもしれません。
濱尾先生は、正門から伸びる道の東端に大講堂を設けたいという考えを当初から持っておられたようです。安田財閥の安田善次郎は、キャンパス内に天皇や皇族の休憩所たる便殿(びんでん)がないという話を聞いて、便殿を備えた大講堂建設のための寄附をしてくれます。その資金をつかって安田講堂の建設工事が始まるのですが、途中の1923年に関東大震災が起こります。建設中の安田講堂はそこまで被害を受けなかったのですが、イチョウ並木の両側にあった建物はすべて火災を受けて大きく損壊します。
これらの建物を撤去した後、その跡地に何を建てるのかという問題が浮上します。ここで活躍したのが、後に総長にもなる建築学の内田祥三(うちだよしかず)先生です。内田先生はキャンパス復興計画をつくり、正門から安田講堂へ伸びるイチョウ並木の両側に特徴ある内田ゴシックの建物が並ぶ情景ができあがります。
したがって、関東大震災が起こったことによって、濱尾先生が描かれた元のキャンパス計画の上に、内田先生が復興のために新たに構想したキャンパス計画が重なったとも言えるでしょう。両者の間にはもちろん差もありますが、内田先生は大学ゴシック、すなわちカレッジ・ゴシック様式を基調とした建築スタイルで揃えようとしましたので、ゴシックという意味では関東大震災前後の連続性も認められるし、正門から安田講堂に伸びる道が東大を代表するアベニューであるという思想も継承されましたので、やはり震災前のキャンパス計画をある程度は引き継ごうと考えていたのだろうなという気がします。
髙岸 大学ゴシック様式のお手本になったような海外の例はありますか?
松田 当時、大学ゴシックは北米で流行っていましたので、内田祥三先生はこれらを参考にされたようです。「内田祥三関連資料」を見ると、内田先生が参考にしたと思われる具体例のスケッチや写真が出てきますが、どこか一つの建物をお手本にしたというよりは、たくさんの実例を複合的に見ながら内田ゴシックへと昇華させていったという印象を受けます。
髙岸 ハーバード大学は平地に建物が密集している感じですが、東大に似ているかというと、それほど似ていないですね。
松田 そうですね。ハーバード大学にもカレッジ・ゴシック様式の建物はありますがごく一部で、全体としては、異なる時代を反映した異なる建築様式がより幅広く見られます。
関東大震災後の本郷キャンパスに関して言えば、鉄筋コンクリート造りの建物が主流となった点も見逃せません。なぜ鉄筋コンクリートになったかというと、内田先生の設計で震災発生時にほぼ完成していた工学部2号館が鉄筋コンクリート造りだったのですが、これが震災被害をほとんど受けなかった。このこともあって、耐震性のためには鉄筋コンクリート造りだという方針が定まったのだと思います。もちろん内田先生お一人の考えというよりも、建築構造学の佐野利器(さのとしかた)先生らのご意見があったと思いますが。
髙岸 鈴木さんはキャンパス計画室で構内にある建物の改築・新築・修繕にかかわっておられます。現在のキャンパスは基本的に関東大震災後のレイアウトを踏襲しているのでしょうか?

図3 安田講堂の前には教室が存在していた。
The disaster of September 1st, 1923 as it affected 31 東京大学総合図書館所蔵
鈴木 そうですね。内田先生の大きなプランである軸線を大事に、今でも引き継いでいます。安田講堂がなぜあの場所にあるか、というと、確かに奥行きをとるということもあるのですが、今のこの法文の建物と安田講堂の間の法文学部側にも文学部側にも教室があったんです。今でもあの辺の土の上にレンガのカケラや何かがあって、もしや、これは、と思わされます。だから非常に建てにくいところだと物理的には思うんですけど、2階まで下に入っちゃうような形の安田講堂を建て始めた。あれは寄附金がなければできなくて、あの寄附金を持ち込んだのは、たしか文学部の村上専精(むらかみせんしょう)先生ですよね。だから、そこは威張ってもいいんですけど(笑)。
松田 インド哲学の先生ですね。
鈴木 インド哲学ってあなどりがたいものがある(笑)。

図4 東京帝国大学大講堂新築記念
大正十四年七月〔記念絵葉書〕
東京大学文書館所蔵
松田 今、鈴木さんがおっしゃったことで思い出したことがあります。NHK「ブラタモリ」のディレクターの方から「安田講堂の正面全体が写っている竣工当時の写真がないか」と尋ねられて、写真を探してみたのですが、まったくないんですね。竣工記念アルバムにも講堂正面の全体像を写した写真は一枚も含まれておらず、あるのは、正面の中央部だけを縦長でおさめた写真と、斜め方向からできるだけ正面がたくさん入るように撮影している写真だけ。普通に考えたら、出来たての安田講堂に正対して、正面全体を横長で撮りますよね。その写真が最も映えますから。非常に不思議に思いました。
そしてその理由を考えてみてわかったのですが、鈴木さんがおっしゃったように、大講堂正面のすぐ前には建物がたっていたため、引いて全体像を写真におさめることができなかったのでしょう。今日、安田講堂前には大きなクスノキが二本ありますが、このあたりには、震災発生時には法学部と経済学部の建物が二棟たっていました。いずれも地震で損壊します。損壊するんですけども、震災後のキャンパス内では教室スペースを確保する必要がありましたので、基礎や壁が残っていた建物については、簡単な補修をした上で教室バラックとして暫定的に使用しつづけました。安田講堂のすぐ前の建物は、まさにこのようなバラックとして2~3年ほど残っていたのです。
安田講堂の竣工時、講堂正面を愛でるという意味では、このバラックはいわば「目障り」な存在だったと言っても良いでしょう。引いて安田講堂の正面全体を写真に収めようとすると、バラックが必ず映り込んでしまいますので。そのような理由で、安田講堂竣工記念アルバムには、講堂の正面全体が写る写真は入っていないのでしょう。
鈴木 それがあれば、復興の中で立ち上がってきたという、かえっていい写真だったかもしれないですね。
本郷キャンパスは空襲目標から外されたのか?
髙岸 本郷キャンパスは太平洋戦争末期の東京大空襲でも被害を受けたのではないかと思うのですが。
松田 「戦争末期、米軍は敗戦後の日本のどこに占領軍本部を置くべきかを想定しており、その候補の一つが東大であった。だから本郷キャンパスは爆撃を免れた」というような話を聞くことがあります。たしかに東京の戦災被害地図を見ると、本郷キャンパスは爆撃被害をきれいに免れているという印象を受けそうになるのですが、実際は本郷キャンパス内でも空襲被害を受けている場所があります。その代表例は、前田家が明治期になってから建てた懐徳館で、これは1945年3月10日の東京大空襲で壊滅的な被害を受けます。ところが興味深いことに、東大の公式記録たる『東京大学一覧』には、この空襲被害が書かれていないのですね。『東京大学一覧』には、何年何月何日に何があったかという大学にとって重要なイベントが時系列で記録されています。新たに建物を建てたときや、敷地を拡張したといった施設関係の記録も、日付とともに必ず書いてあるのですが、昭和20年3月10日には何も書かれていません。
他方、大学内の空襲被害を記録した写真帳が総合研究博物館に残っているのですが、それを見ると、懐徳館、農学部の数棟、医学部附属病院の龍岡門西側あたりの建物が焼失してしまったことがわかります。「本郷キャンパスは空襲被害を受けていない」と言われがちなんですけど、実際には何カ所かで大きな被害を受けています。
鈴木 まあ、「ここはわざと残したんだ」という伝説が各地にあるんですね。東京でも、例えば板橋の陸軍火薬製造所とか、あるいは市ヶ谷台の陸軍士官学校とか、あるいは麻布のほうの歩兵第1連隊とか第3連隊とか、実は重要軍事施設、ほとんど全部残っているんですよね(笑)。それは、残して使おうというよりは、鉄筋コンクリートである程度周りと距離がある建物は、米軍のあの空襲のやり方だと自然に焼け残って、それで市街地に近い部分だけ被害を受けたという共通の傾向があって、わざとじゃないだろうと思っています。