学問と社会の現在とこれからを考える vol.1
「学問の自由」とは何か―なぜ意見が割れているのか
藤原聖子(宗教学宗教史学研究室)


学術会議会員任命拒否問題をめぐって、これが「学問の自由」に関係があるのかないのかについて学者の中でも意見が分かれている。しかも「ある」という人も「ない」という人も自信をもって断言している。なぜこのようなことになっているのか。ここでは論争の構図を整理し、社会の中での学問の立ち位置について考えてみたい。

二種類の「学問の自由」

現在の論争で用いられている「学問の自由」という語は大きく二つの意味を担わされているように見える。一つは「自分の好きなように研究をする自由」(「学問の自由A」)。もう一つは「学問が権力による干渉を受けないこと」(「学問の自由B」)という意味である。今回の問題は「学問の自由」とは関係ない、なぜなら学術会議の会員にならなくても研究は自由にできるからだ、という人たちはこの言葉をAの意味でとらえている。それに対して、いや、問題は学問の自由に大いに関係があるという人たちは、特定の政権の意向に沿うだけなら学術会議は御用学者集団になってしまうとBの視点から危惧している。

学術会議においてAとBの食い違いが鮮明になったのは、最近では2016~17年にかけての、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)、いわゆる「軍事研究」の是非をめぐる議論だった。学術会議は「軍事目的のための科学研究を行わない」とした過去の声明を継承するという声明を発出したが、この時、学術会議内部にも、それは「学問の自由」の侵害であると反対した会員がいた。学術会議は軍事研究をやりたい学者を邪魔しているという、Aの理解によるものだった。

しかし、Bの理解からすると、この考えはそもそも「学問の自由」ではない。というのもそこで自由を訴えている主語は学問というより学者=「自分」だからである。自分が研究資金を、その出どころは何であれ、十分に獲得して好きなことを研究したいという願望を表しているに過ぎない、となる。それに対して、政府が軍事研究に多額の研究予算を付け、そこに学者を誘導し、またその分基礎研究や文系への資金を削るならば、学問の布置そのものが、政治による干渉を受けていることになる。これがBからの見え方である。

今回の任命拒否については、理由が首相からは明示されておらず、マスコミ等では6名の研究者が過去に政権の特定の法案に反対したことによるのだろうと推測されている。したがってこれは政治的行動の問題であり、6名それぞれの学問の内容が問題化されたわけではないというAの理解による意見の一方で、これからは政権が望むような歴史観や政治観に合った研究でなければ科研費が獲得できなくなり、就職も難しくなると心配する声が上がっている。これはまさに、学問が権力による干渉を受けていることに対する、Bの理解からの反応である。

この対比をまとめ直せば、Aの「学問の自由」は、個人やグループがある特定の研究を「行う」自由であり、Bのそれは学問が学問として成立するために必要な「状況」としての自由であると言える。

「神々の闘争」―諸価値の緊張関係の中の学問

Aの意味にせよBの意味にせよ「学問の自由」と緊張関係に陥る可能性があるものは、政治権力だけではない。経済界からの要求、宗教界からの要求、場合によっては社会常識や社会規範、学者に内面化された倫理規範。知の探究はそれらと衝突することがある。何とどう対立するかは時代とその時々の社会情勢により変化する。

たとえば学術会議は国際リニアコライダーという物理学の実験装置を日本に設置するかどうか、その必要性について審議依頼を受けた。素粒子の謎を解明したい物理学者はそれを要望したが、学術会議はその学術的な意義を認めつつも多額の予算投入に見合うだけの結果が期待できないという結論を出した。これは「学問の自由A」に対して経済コストという制約により、学問の側の学術会議が自らブレーキをかけた例である。ヒト胚にゲノム編集技術を適用することも「学問の自由A」に属するが、学術会議はこれに対しては社会規範等に照らして一定の制御を求める提言を発出している。車のエンジンとブレーキのように、「学問の自由A」は、絶えずその制限とのセットで追求される。

その一方で、政治、経済、宗教、社会等のそれぞれの要求と学問が衝突する時、本来は「干渉されない」という消極的な原理であるはずの「学問の自由B」が学問の重要な成立基盤として浮かび上がる場合もある。今回の任命拒否への異議申し立てや「軍事研究」に関する学術会議の声明は「学問の自由B」の最大限の尊重を訴えるものであり、そこでは学術コミュニティ全体が政治権力によって一方向に動かされることにより、選択肢の多様性や探究の可能性が制限されることが問題視されている。

この両者の関係を一つのシステムとして考えてみれば、「学問の自由A」と「学問の自由B」は後者が前者を下支えする形で二層構造をなしていると言える。上述のように「学問の自由A」が無制限ではありえないことは確かだが、そこでの学問の探究が自らの「論理性」や「反省能力」「創造性」という強みを生かすためには、前提条件として「学問の自由B」という状況が必要である。

「立てこもり作戦」を超えて

Bの必要性を訴える声が社会に伝わりにくくなっている現状を、学者は「社会」の保守化や右傾化が原因だと言いがちである。しかし、いま一度自分たちをふり返ってみるならば、伝わらないのも無理はない。というのも、ここしばらく、文系不要論に対して、文系の学問も「社会」に役立っている、実利的に役立っていなくても「社会」に貢献していると私たちは訴えてきた。その中身の吟味を疎かにして、ポストや研究費を削られたくないという動機だけから「学問の自由」という錦の御旗を掲げて「社会」からの干渉を拒否するのでは、私たちがダブル・スタンダードを使っているように見えてしまう。

よって、今回の任命拒否問題が「学問の自由」と大いに関係があるとしても、この言葉だけに寄りかかるならば社会からは下手な自己弁護を図っているとしか見えない可能性がある。Aについては、自らの倫理規範を問い、学術コミュニティとしてのルールを議論し、社会との対話をいっそう進めることが重要であることは言うまでもないが、Bについては、それが確保されることが学問と社会、そして一人ひとりの生活にとってどのような意味をもつのかを言語化することが必要であろう。特に、学術会議の中・外を問わず、学術的根拠に基づき政権を批判する意見を述べることがあるとしたら、それは反社会的なのではなく多様な視点と選択肢を社会にもたらす行為であること、それは政権がどの政党によるものであろうと、首相が誰であろうと首尾一貫しているということを具体的に説明し、社会に広く理解を求めることが不可欠であろう。ある政策に、学術的見地からはいくつもの盲点があり、社会の特定の集団が一方的に不利益を被るような場合には、これを率直に指摘していく。反対に積極的な提案もする。それが知の探究としての学問の社会的役割の一つであり、「学問の自由」を成立させる実践でもある。

(2020年10月31日)