近代浄土真宗の社会思想史的研究 ―1910-30年代における「社会」的領域の創出と宗教意識―

佐々木 政文

 本研究は、1910―30年代日本の国内社会において浄土真宗(ここでは浄土真宗本願寺派および真宗大谷派の2教団を指す)がいかなる歴史的役割を果たしたのかを、社会思想史の視点から検討したものである。

 思想史学の領域では、1920年前後に日本の知識人の間で国家権力に対する知的関心や信頼が低下し、代わって「社会」そのものによる自律的な秩序形成が重視されるようになったことを、「社会の発見」と呼ぶ。本研究では、「社会の発見」が国内社会全体に対してどのような影響を与えたのか、また、そこで国家による政策と民間人による運動とがどのような関係を結んでいたのかを、具体的事例によって明らかにすることを主な研究課題とした。そのための分析素材として、独自の教義体系をもった国内最大規模の宗教教団であるとともに、豊富な人的・経済的資源を有する巨大な民間団体でもあった浄土真宗に注目し、同教団の社会的活動に込められた思想的意味を検討することにより、前述の問題関心に接近することを試みた。

 本研究では、近代の浄土真宗が独占的に関わることができた社会問題領域として、部落問題と「思想問題」の2つを取り上げた。これら2領域は、それぞれ地域面と思想面において、国内社会に生じた深刻な亀裂を埋めることが求められた重要な政治的領域でもあった。よって、これら2領域に対する教団の関与を明らかにすることで、宗教が国民統合に対して果たした役割を具体的に明らかにすることができると考えた。本論は3部構成をとり、第1部と第2部において部落問題を、第3部において「思想問題」を取り上げた。

 

 まず本論第1部「一九一〇年代の部落改善/融和政策と浄土真宗」では、1910年代における部落問題への関心の高まりとともに、教団の伝統的な組織体質が批判の対象とされ、教団が社会政策・社会事業への関与を余儀なくされていく過程を明らかにした。

 第1章「奈良県における民衆教化政策と被差別部落」では、奈良県の被差別部落において民衆教化政策がいかにして展開されたかを検討した。県や各郡は部落改善政策の一環として被差別部落の信仰を統制しようとする政策を行ったが、その過程で、浄土真宗は被差別部落民を国家意識や経済的自立から遠ざけるものと見なされ、改革の対象とされたこと、しかしそれは僧侶が部落改善政策に参加することに対する政治的期待と表裏一体の動きであったことなどを明らかにした。

 第2章「宗教活用論の成立」では、米騒動後の内務省の融和政策において、宗教を部落差別解消のための手段として位置づける議論(宗教活用論)がいかにして成立したのか、そこで教団の正統教義としての真俗二諦説がいかなる意味をもたされたのかを検討した。米騒動後の浄土真宗教団には、被差別部落がもっているとされる精神的な歪みや偏りを取り除く役割が政治的に期待されており、その期待に教団も積極的に応えようとしたことを明らかにした。

 第3章「全国水平社の創立と貯蓄/浄財観」では、奈良県南葛城郡下の部落改善運動における貯蓄観と、宗教系日刊新聞『中外日報』における浄財観とを対比させることにより、全国水平社創立(1922年3月)の思想史的意義を論じた。全国水平社創立者となった南葛城郡掖上村の被差別部落青年らは、部落改善運動の方針を引き継ぎ所有の増大による経済的地位の向上を目指していたのに対して、『中外日報』は所有の放棄にもとづく浄財の純潔化と宗教的権力の多元化を主張していた。このような思想的差異のため、『中外日報』社員であった本願寺派僧侶・三浦参玄洞の言動は全国水平社創立に限定的な影響しか与えず、むしろ佐野学のマルクス主義思想が決定的な影響を与えたことを明らかにした。

 以上の検討から、1910年代においては、教団は政府・府県からの政治的要請を受けて既存の国家体制のなかに被差別部落民を取り込もうとしており、依然として「社会の発見」の本格的影響の外にあった、と指摘した。

 

 続く本論第2部「一九二〇年代における社会事業の成立と浄土真宗」では、1920年代に教団が社会事業の活性化に向けた体勢を整えていく過程を明らかにした。

 第4章「民衆の主体化と仏教教団」では、米騒動後の数年間に顕著となった民衆の政治的・社会的主体化に対して教団がどのように対応したのかを、真宗大谷派における融和運動の推進者であった武内了温の言論活動を通して論じた。マルクス主義を信奉する歴史社会学者であった佐野学は、インテリゲンチャとしての立場から民衆を指導することで階級闘争を組織し、社会主義革命を実現しようとしていた。これに対して、武内は、カント倫理学における人格主義の理念に依拠して民衆との対等な連帯を目指し、民衆の主体的行動に対しても積極的な承認を与えた。その結果、1920年代前半に成立した教団社会事業は、左派社会運動から一定の距離をとりつつ国内社会の平等性を追求する独自の思想的・社会的活動として発展していった。本章では以上の過程を思想史的手法によって詳細に明らかにするとともに、1930年代前半には教団は元マルクス主義者に対して浄土真宗への転向を強制するようになったことを指摘し、第3部への展望を示した。

 第5章「一如会の成立と関東大震災」では、本願寺派教団が関東大震災(1923年9月)以後の救援・復興事業への関与を通して、社会事業に関与する組織として生まれ変わろうとし、その動きが融和団体・本派本願寺一如会の設立に結実していった過程を明らかにした。また、教団の融和運動において被差別部落出身の僧侶が主導的な役割を果たしたことを指摘し、地域の視点から教団の組織が再編成されていく過程を描いた。

 以上の検討から、1920年代の教団は、民衆との対等な連帯にもとづいて社会的平等を追求する組織へと生まれ変わろうとしていたこと、また、それは同時に支配者と被支配者との間で利害の調整を行う団体としても機能していたことを指摘した。

 

 最後に本論第3部「一九三〇年代の治安維持法運用と浄土真宗」では、刑務所内外での思想犯教化のあり方やそれに対する思想犯の反応を具体的に検討することにより、1930年代の元マルクス主義者が浄土真宗信仰に接近した過程を提示した。

 第6章「司法省の転向誘発政策と知的情報統制」では、昭和初期の司法省が行った思想犯の「読み」・「書き」行為に対する統制を、彼らの転向を誘発する意図をもってなされた一連の情報統制過程として捉えた。そのなかで、浄土真宗僧侶たる教誨師は、思想犯が宗教書を自ら手にとって読むように仕向けることで「自発」的な転向を作り出したこと、そして彼らに転向体験記を執筆させ、それを雑誌記事や書籍として刊行することで転向を再生産しようとしたことを明らかにした。

 第7章「転向者の浄土真宗信仰」では、1930年代半ばに本願寺派教団の関与によって成立した思想犯保護団体として、同友会(大阪市)と白光会(京都市)の2つを取り上げ、そこに集まった転向者らの動向を検討した。この時期の転向者の間には、浄土真宗信仰を取り入れることで自己の存在を政治的に正当化しようとする意識が生じていたが、思想犯保護観察法の施行(1936年11月)や日中戦争の勃発(1937年7月)などを経て、彼らの活動から次第に宗教性が失われていったことを明らかにした。

 以上の検討から、1930年代には教団は刑務所内外での教化を通して元マルクス主義者を自らの陣営に引き入れることに成功したこと、その過程で指導者意識の否定を含む他力信仰が重要な思想的意味をもったことを指摘した。

 

 本論第1部~第3部での検討を踏まえて、終章では、1920―30年代の浄土真宗は社会政策と社会運動との中間に位置し、両者間の直接的衝突を回避させる思想的緩衝材としての役割を果たしていたことを指摘し、これを「社会の発見」に対する教団の思想的対応として位置づけた。すなわち、官僚層が「社会の発見」にもとづいて国家・社会の再編を進めた1920年代には、部落問題という領域において、教団が政策・運動双方の主張を吸収してそれらを相互に代弁することにより、両者の利害の調整がなされた。また、刑務所内外での思想犯教化が政治的課題となった1930年代には、元マルクス主義者らが、民衆との対等な連帯を志向する社会思想としての浄土真宗を受容したことにより、政策と運動との間に不安的ながら妥協関係が成立した。このように、浄土真宗という緩衝材の存在によって、社会政策と社会運動は、相互をライバル視しながらも、共通の社会問題を解決しようとする取り組みとして一つの社会のなかに辛うじて同居することができていた、と結論した。

 そして、先行研究では、近代日本の宗教政策においてはいわゆる国家神道が圧倒的な影響力をもっていたとされているが、実際には、仏教信仰が神祇信仰を補完することで辛うじて国民統合が成り立っていたことを指摘し、今後の研究に向けた展望を示した。

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