本論文は、18世紀後半から19世紀初頭の近代ロシア国家形成期に見られた、ロシア独自の文化の育成を目指す社会的な動きを明らかにする作業の一環として、啓蒙主義者О.П.コゾダヴレフ(Осип Петрович Козодавлев, 1754-1819)の文筆活動に注目し、そこに見られる彼の啓蒙思想とそれを実現する方法、則ち「啓蒙の方法」を考察したものである。さらに、彼の活動を同時代の環境や人々との関わりの中で捉えることによって、ロシア啓蒙主義において彼が果たした役割を明らかにすることを試みている。

 

 啓蒙専制君主として様々な制度改革と事業を推進したエカチェリーナ2世の時代に、女帝の事業の主たる担い手である知的エリート達の精神的支柱となったのは啓蒙思想であった。彼らは個別には相互に対立や衝突も見せたが、等しくその関心と目的はロシア独自の文化の確立に向けられており、彼らの切なる願いはしばしばその啓蒙思想の中に映し出された。

 ロシア啓蒙主義を代表する知識人として知られ、コゾダヴレフの同時代人であった人物としては、Н. М. カラムジンやА.Н.ラジーシチェフが挙げられるであろう。彼らは18世紀末の新たな段階に入ったロシア啓蒙主義の担い手として注目され、議論の俎上に載せられてきた。それに対して、コゾダヴレフが研究の対象となることは日本では無論のこと、ロシアでも稀であったと言わねばならない。しかし、コゾダヴレフはエカチェリーナ2世亡き後もパーヴェル1世を経てアレクサンドル1世まで、18世紀後半から19世紀初頭にかけての3代の皇帝のもとで政府の要職に就き、様々な事業に立ち会い、啓蒙の理念を新しい世代に伝えた啓蒙主義者であり、ロシア啓蒙主義のみならず、ロシアの近代化のプロセスにおいて重要な役割を果たした。コゾダヴレフの存在と活動について喚起することは、ロシアの近代化のプロセスの一端を明らかにする意味を持ち、将来的にこのプロセスの全体像を理解する上で一定の貢献をなすものと考える。

 

 本論文で、カラムジンやラジーシチェフ等、ロシア啓蒙主義の時代を代表する著名な作家、思想家ではなく、敢えてコゾダヴレフを取り上げるに至った主な理由は2つある。まず、本論文の関心は「感情」に注目するようになった新たな段階の啓蒙主義、則ち「後期啓蒙主義」がロシアで形成され、普及する初期の事情を明らかにすることにあった。これはエカチェリーナ2世の治世(1762-96)のほぼ半ばの1780年頃のことで、丁度コゾダヴレフが文学活動に乗り出した時期に当たる。後期啓蒙主義の代表的作家カラムジンはまだ本格的な活動を開始しておらず、1780年代前半の啓蒙主義の動向については、彼の活動を追うことによっては明らかにならない。1780年代前半はロシア啓蒙主義の形成と変容を明らかにする上で重要な時期のひとつであり、その時期に活動を開始したコゾダヴレフの仕事を考察することが課題となった。

 コゾダヴレフを研究対象として取り上げるもうひとつの理由は、彼がドイツに学ぶことによってロシアの近代化を推進しようとした点にある。ただし彼の場合、盲目的なドイツ崇拝者だったのではなく、ロシア近代化の方向を模索する中でドイツの思想と文化を意識的に、そしてある程度は戦略的に取り入れたのである。ロシアではピョートル1世の時代には既にドイツに対する崇敬と信頼が一定の役割を果たしていたが、18世紀後半のロシア啓蒙主義はフランスの強い影響のもとにあり、ラジーシチェフに代表されるように、エカチェリーナ時代のロシアの多くの知的エリートもまたフランスの言語と文化の影響下にあった。本論文はロシア啓蒙主義に対して、「フランスの影響」というこれまで馴染んできた切り口によってではなく、「ドイツ文化が果たした役割」という視点からアプローチを試み、この目的の下に、生涯一貫してドイツ的な啓蒙の方法を主張してきたコゾダヴレフを取り上げるに至った。

 

 本論文は序論、6つの章、結論、参考文献一覧、年譜、作品翻訳及び原文資料から構成されている。行った考察とその結果の概要を示しておくと、まず最初にコゾダヴレフの生涯と活動を通観し、<啓蒙思想の礎を築いた出来事としてのドイツ文学・文化体験>という視点から彼のライプツィヒ留学に注目した(第1章)。コゾダヴレフが留学から帰国して後に本格的に着手した最初の文学的な仕事であるゲーテ『クラヴィーゴ』の翻訳の考察からは、彼が特にこの作品がもつヨーロッパ異文化間の問題に関心を示したことが明らかになり(第2章)、また、「疾風怒濤」時代のゲーテの文学世界をロシア語に移し換える作業の中に「感受性と美徳の結びつきの中で感情描写を試みる」というコゾダヴレフの表現上の傾向が明らかになった(第3章)。本論文では、その後のコゾダヴレフの注目すべき仕事として、『ロシア語愛好者の友』誌に掲載された彼の3つの作品を取り上げ、掲載誌の性格と作品の分析を行った。この分析から、彼が感受性を人間の資質として高く評価し、<時として感受性が齎す苦しみを乗り越えることで、人間は内的な成長を遂げ、美徳の人となる>という教育プロセスを理想としていたことが明らかになった(第4章)。エカチェリーナ女帝時代に実務上の経験を積んだコゾダヴレフの後半生の仕事としては、『北方郵便』紙の記事編集がある。本論文は、繰り返し掲載された『子供博物館』の紹介記事を中心に彼の教育啓蒙を考察し、彼がライプツィヒ留学以来40年近く経ったロシアの現状に「ロシア独自の文化の確立」へ向けての大きな進展を認め、評価したことを指摘した(第5章)。本論文ではこれらの考察を踏まえた上で、再び彼の活動の出発点となったエカチェリーナ2世の時代の仕事に戻り、彼が自身のヨーロッパ文化理解を自身の言葉で示した論文「ヨーロッパの国民教育に関する考察」とロシアの教育啓蒙政策を反映させた『ロシアの大学設立計画』を考察した。これらの文章の考察から、彼が支配者と被支配者等、多様な層と立場に益する形で教育啓蒙を構想していたこと、ロシア語の成熟を目指し、ロシア語を通して教育啓蒙を実施することの重要性を主要したこと、教育啓蒙の方法をドイツがフランス語とフランス文化の支配から脱したプロセスに学ぶよう提案したことが明らかになった。(第6章)

 考察を通して、コゾダヴレフの啓蒙思想には2つの相が見られることがわかった。1つは「人間の内的成長」を実現する構想であり、もう1つは「社会全体としての文化的向上」によってロシア独自の文化の確立を実現する構想である。2つの相は不可分であるが、彼の個々の仕事においてはいずれかが際立っている。論文ではコゾダヴレフの文筆活動を、主要な仕事ごとに取り上げた結果、2章、5章、6章では「社会全体としての文化的向上」が、3章、4章では「人間の内的成長」が議論の中心となった。むろん、両者はコゾダヴレフという同じ1人の啓蒙思想家の中で不可分なものとして在り、どの活動にも認められる。

 

 コゾダヴレフは自身の仕事の中で、ロシア社会の文化レベルを向上させるための最良の方法はロシア語を用いて教育を行うことであると主張している。彼はこの最も身近な例として、18世紀にドイツ文化がフランス語支配から脱却してドイツ語による表現を発展させ、ドイツ語による教育を普及させたことを示し、そのプロセスにロシアが学ぶことを提唱した。18世紀後半にフランス語とフランスの言語文化の影響が強まった時期があり、コゾダヴレフはこのフランス崇拝の風潮の中で、再びドイツに学ぶことの主張を打ち出したのである。

 さらに他方で、コゾダヴレフは人間の成長において感情が果たす役割の重要性にも注目し、特に恋の情熱が生み出す苦しさを取り上げた。彼にとって感受性は人間を苦しめる点で否定的な側面をもっているが、その苦しさを乗り越えることで人間は成長し、美徳を備えた人格を獲得することができると考えた。この意味で彼は啓蒙にとって感受性は不可欠であり、その役割は肯定されるべきであるとした。

 

 以上が社会と個人、2つの面からコゾダヴレフが主張した「啓蒙の方法」である。彼の思想は他の啓蒙主義者との間に共通する点もあったが、特に「社会全体としての文化の向上」については、自らの思想を提唱するやり方に彼の独自性が見られる。まず、彼は常に複数の立場から課題を捉えて解決しようとした。彼の『大学設立計画』には、学生だけでなく、教師、大学、国家等、様々な立場に益する方法が示されている。次に、彼はロシアの文化的独立の理想を掲げることだけでなく、その文化的成長と成果を積極的に評価した。とりわけ、19世紀初頭に政府の任命を受けて編集発行に従事していた『北方郵便』紙では評価し、鼓舞する姿勢が明確に押し出されている。批判し、叱責することによってではなく、認め、賞賛することによって文化的な発展を促そうとしたのである。自らの啓蒙思想を実現する際のこのような現実に即した柔軟なやり方は、絶対君主制のロシアにおいて、コゾダヴレフが世紀を跨いで継続的に政府の啓蒙教育事業に携わることを可能にした背景にはあったと考えられる。