戦国期京都の都市社会と法華宗

長﨑 健吾

 本論文は、戦国期京都における都市民の社会的結合のひとつとして、法華宗(日蓮宗)信仰を紐帯とする宗教的結合を取り上げ、その特色と変遷を追究したものである。こうした考察を通じて、中世から近世への移行過程において日本社会に起こった転換を、京都という都市社会をフィールドとし、法華宗という断面によって切り取ることを目指す。

 序章では日本中世都市にかんする研究史を整理し、法華宗という主題が研究の現状において持つ意義を明らかにする。敗戦後の自由都市論は日本における近代市民社会の確立という問題意識にもとづき、西欧中世都市との比較を通じて日本中世都市の特質を明らかにした。1970年代の自由都市論批判を経て1990年代以降の研究では、戦国期京都における地縁的な町共同体の形成過程が中世都市史の中核的な課題となった。法華宗は中世後期京都の都市民に深く浸透した宗派であり、町共同体の形成過程を明らかにするためには、法華宗信仰にもとづく都市民の宗教的結合と、戦国期に新たに形成される地縁的結合との関係を考察する必要がある。従来の法華宗研究は天文初期の法華一揆をめぐる議論に局限されており、法華宗教団の長期的な動向を踏まえて宗教的結合の変遷を分析する視角に乏しいという根本的な欠陥があった。以上を踏まえた上で現状において法華宗を取り上げることにより、都市における共同体の形成という、中世社会と近世社会を画する問題の研究を、大きく進展させることができると予想される。

 第一部「法華宗の勢力拡大過程」では、鎌倉後期に東国から京都に進出した法華宗が都市社会に浸透していく過程を考察する。

 第一章「室町戦国期京都における法華宗諸門流の動向」においては、南北朝期から公武権力と結びついて社会的地位を向上させていった日像門流系寺院と、都市民に対する布教活動によって勢力を拡大した後発門流系寺院というふたつの類型によって、京都進出以降の法華宗の動向を整理した。これによって、顕密体制論の方法論的影響を強く受けた近年の仏教史研究が、室町期以前と戦国期を統一的に捉える上で方法論的な難点を有していること、中世の法華宗については多数の門流の分立競合状況を踏まえて考察すべきであることを指摘した。

 第二章「室町戦国期京都における談義の展開」では、法華宗の主要な布教活動として「談義」と呼ばれる説法に着目した。談義は天台律・禅・浄土系など多様な僧侶によって行われ、15世紀初頭から京都において流行した。法華宗は法華経談義を活発に行い、強硬な他宗批判を展開することによって、都市民のあいだで多数の信徒を獲得した。多様な宗派が競合する都市社会において信徒を獲得するためには、みずからの教義の正当性を俗人にとって合理的に納得できる形で提示する必要があり、談義はその手段となっていた。多くの都市民がこうした談義を聴聞してみずからの判断力で宗派を選択する経験を積んでいたことは、戦国期におけるキリスト教受容のありかたをも規定したと見られる。

 補論①「戦国期京都の法華宗信仰―近衛家の事例から―」では、房嗣・政家・尚通の三代にわたって法華宗に帰依していた近衛家の事例を取り上げることで、戦国期における法華宗信仰の特質を考察した。その結果、信徒と寺院の結びつきを世代を超えて維持する上で追善仏事が重要な役割を果たしたこと、女性信徒が家に法華宗が浸透する媒介となっていたことを指摘した。

 第二部「戦国期宗教勢力としての法華宗」では、戦国期の法華宗が都市民を基盤として宗教勢力化していく過程を取り上げる。

 第三章「戦国期京都の酒屋・土倉と法華宗」では、富裕な高利貸し業者であり中世京都の有力都市民である酒屋・土倉のあいだに、応仁の乱前後から多数の法華宗信徒が現われていることを指摘した。中世京都の酒屋・土倉に対しては、山門延暦寺が祭礼役徴収にもとづいて強い支配力を有していた。それゆえ酒屋・土倉に法華宗が浸透することによって、法華宗と山門のあいだには潜在的な対抗関係が生じたと見られる。15世紀末には室町幕府財政を管理する公方御倉に法華宗系の俗人土倉が就任していることが確認できるが、天文5(1536)年の天文法華の乱後には山門系の正実坊が公方御倉に返り咲いている。このことは、酒屋・土倉をめぐる法華宗と山門との対抗関係が、両者が全面衝突する天文法華の乱の前提になっていたことを示している。

 第四章「天文初期の畿内情勢と法華一揆の活動」では、天文初期(1532~1536)における法華一揆の活動と、同時期における法華宗教団・信徒の変容の過程を考察した。法華一揆は天文元年に将軍足利義晴と細川晴元が一向一揆勢力に対抗するため、京都の法華宗寺院に軍事動員を行なったことを契機として成立する。法華一揆成立当初の軍事行動は一向一揆に対する自衛という性格が強かったが、天文元年末以降は義晴・晴元の上洛戦への協力によって、教団として積極的な利益を追求するようになった。本章では当該期における法華宗と義晴・晴元との結びつきを重視することにより、法華一揆の様々な活動を都市民による京都市政権の掌握・自治の実現として評価してきた先行研究の構図に対し、根本的な批判を加えた。また、軍事行動の経験を通じて寺院や門流の枠を超えた「法華宗」としての結束が醸成されること、これにともなって信徒同士の結合も変質していくことを指摘した。先行研究は法華宗信仰を紐帯とすることで都市民の大規模な動員が可能になったと考えてきたが、むしろ天文期の軍事動員を通じて法華宗としてのまとまりが形成された面があったのである。天文法華の乱については、山門が幕府(義晴・晴元政権)黙認のもとで法華宗を弾圧したという今谷明の理解を批判し、乱の背景に義晴・晴元と結びついた法華宗の権益と山門の権益との対立が存在したこと、乱の最終局面では六角定頼の意向が決定的な意義を持ったことを指摘した。

 第三部「都市民の社会的結合と法華宗」では、天文法華の乱後に復興を遂げた法華宗教団の特質と、信徒の社会的結合の実態を考察した。

 第五章「天正四年洛中勧進に見る法華宗教団と信徒」では、天正4(1576)年に法華宗教団が実施した洛中勧進にかんする史料(勧進史料)に対して基礎的な分析を加えた。勧進史料に見られる微細な書き込みを分析することにより、洛中勧進においては出資の可否や出資額の決定が最終的には信徒側の自発性に委ねられていたことが明らかになる。法華宗教団は勧進によって集まった資金を織田信長政権への献金に充てることで、教団・信徒としての積極的な利益を追求していた。それゆえ多くの法華宗信徒は自己の利益追求のためにも、勧進に出資する動機を有していたのである。法華宗が教団(諸本山が結成した「会合」と呼ばれる合議組織)として勧進を実施し、多数の信徒が門流の枠を超えて出資に応じるという事態は、天文期における軍事行動および復興に向けた協力の経験を前提として初めて可能になった。武家権力と結びつくことで教団・信徒全体として門閥化を志向することが、天文期以降の法華宗の一貫した戦略だったといえる。

 第六章「戦国期京都における都市民の社会的結合と「家」」では、多様な社会的結合の結節点としての「家」に着目し、法華宗信徒における宗教的結合の実態と、戦国期における新たな地縁的結合の形成過程を考察した。まず勧進史料における「家」という用語の内実を分析することによって、家と一族の関係、勧進史料における女性信徒の位置付け等を明らかにした。これを踏まえて上京の小川地域に着目し、同地域が武家政権周辺の需要に応じる一種の工房街となっていたこと、地域住民は婚姻によって密接な結びつきを形成しており、地域全体において職縁的結合から地縁的結合への転換が観察されることなどを指摘した。さらに、織物業者である大舎人座衆に着目し、西陣地域における社会的結合の実態を分析した。その結果、同地域は大舎人座衆が大宮今出川の辻周辺に定着したことで経済的に発展し、こうした辻周辺の町が中核となって新たな地縁的結合が形成されたことが明らかになった。

 補論②「天正期京都における法華宗信徒の分布状況」では勧進史料に含まれる法華宗信徒約1400名のデータに統計的な分析を加え、信徒の分布状況と地域寺院との関係を考察した。その結果、早い時期に成立した寺院には洛中全域に檀那を有する分散型が多いのに対し、遅れて成立した寺院は地域密着戦略によって周辺に多数の檀那を確保し、集中型の信徒分布を形成したことが明らかになった。また、天文法華の乱後には新たな社会階層の人々が法華宗信徒となり、教団としての基盤はむしろ強化された部分があると考えた。

 終章では、論文全体の成果を概観するとともに、これらの成果を踏まえたとき今後の研究において可能となる展望を提示した。第一に、本論文は室町期以前と戦国期の仏教を統一的・動態的に把握する方法を京都の法華宗という主題に即して提示したものであり、現在の中世後期仏教史研究が直面している課題にひとつの解答を与え得る。第二に、本論文は法華宗信徒の事例を通じて都市民の社会的結合の実態を考察することで、都市に特有の共同体形成過程の解明が中世都市研究の重要な課題であることを明らかにした。現時点における展望としては、戦国期における新たな地縁的共同体の形成過程を考察するためには、多様で緊密な社会的結合を有する有力都市民の存在を重視する必要があると考えた。こうした有力住民は早い段階で永続的な家を形成し、居住地や家屋保有を安定させたことで、地縁的結合の核となることができたと見られる。流動性が高く、とうてい共同性を形成し得ないように見える都市社会において、どのような条件のもとで共同体が形成されたのか。こうした問いが、現代の戦国期都市研究において改めて問われるべきである。

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