存在と知―前期ハイデガーの解釈学的現象学―

田村 未希

 本研究は、「存在」と「知」を巡る問題にハイデガーが「解釈学的現象学」という方法でいかに切り込んでいったかを明らかにすることを目指すものである。ハイデガーが「存在の意味への問い」ないし「存在論」への関心を持つ最初のきっかけとなったのは、ハイデガー自身の言葉によればフランツ・ブレンターノの学位論文『アリストテレスによる存在者の多様な意義について』を読んだことであった。アリストテレスは哲学すなわち「知を愛すること(フィロソフィアφιλοσοφία)」の伝統の一つの源流であるが、そもそも「知(ソフィアσοφία)」とは、様々な物事の原因ないし原理(アルケー ἀρχή)を対象とするものである。つまり、単に様々な事物が「そうあること」を把握するのみではなく、「それは何故そうあるのか」という原因ないし原理(アルケー)を把握していることが「知」と見なされる。アリストテレスが「第一哲学」つまり形而上学の課題として掲げるのは、「存在するもの」をまさに「存在するもの」たらしめている原理の探求、つまり「存在」の探求である。ハイデガーは『存在と時間』の冒頭で、哲学がこのような原理的な探求を古代ギリシャにおけるプラトン、アリストテレスの探求以来ずっと行ってこなかったという事態(「存在忘却(Seinsvergessenheit)」と呼ばれる事態)に警鐘を鳴らした。「存在」への問いが立てられていないということは、裏を返せば、「知(ソフィア)」への探求が――すなわち知の原理への探求が――なされていないということを意味しうる。すなわち現状「知ること」とされている営みが「存在するもの」といかなる関係にあるのか問われずにいるということに他ならない。我々が普段それほど問題を感じずに何かを「知った」と言明できていることは、その「知り方」が、本当に当の事柄に関係し、根拠づけられているのかを、何ら保証するものではない。人々が「知る」ということを自然に行えている(と思っている)中で「本当に知っている/知らない」の区別を問題にすることは、まさに古代ギリシャにおいてソフィストたちが「種々の徳について知っている」と思って疑わなかったことに対して、「徳とは何か」と改めて問い、それをまさにそういうものであらしめている原理を追求した哲学者の姿勢と類比的に理解することができる。

 ハイデガーは『存在と時間』の中で、「存在論は現象学としてのみ可能である」と断言する。「現象学」と呼ばれる哲学の方法は、ハイデガーがその師であるフッサールから継承したものであるが、徹底的に師の姿勢を継承しているにもかかわらず、ハイデガーの問題設定や使用する概念群はフッサールのものとはかけ離れている。この差異は、「歴史」ないしは「解釈学的状況」とハイデガーが呼ぶ問題圏に彼が踏み込んだことに起因している。「事実はなく、あるのは解釈のみである」とはニーチェの言葉であるが、ハイデガーの提示する「解釈学的状況」という人間の理解の構造に備わる本質的構造を考慮するならば、「あらゆる認識は解釈のバリエーションである」とも言い得る。ハイデガーは存在と知を巡る問題を、「解釈」そして「歴史」という本質的条件のもとで新たに定式化しようとしている。

 本研究は、ハイデガーの「存在の意味への問い」の意義と射程を、それが知の原理への問いであるという観点から再解釈することを試みる。そしてその際、ハイデガーが自らの探求の出発点に「解釈学的状況」を据えたことに力点を置く。あらゆる認識、あらゆる理解の本質的な歴史拘束性、すなわち「知の歴史性」という決定的な問題を、ハイデガーは存在と知の問題の系譜へと投げかけていく。「知の歴史性」という問題を正面から受け止めたならば、その時には知のあり方にはどのような変容がもたらされるのか。本研究は、ハイデガーが解釈学的現象学というプログラムにおいて提示した知の原理的探求の意義と射程を包括的に明らかにすることを目指す。

 第1章では、前期ハイデガーの哲学を特徴付ける「解釈学的現象学」とは何なのか、すなわちその方法がいかなる問題設定に基づき、何を目指して構築されているのか、その概観を獲得することを目指す。ハイデガーは哲学と諸学問の探求の違いを、「原理を使った探求」と「原理そのものへの探求」という点で際立たせる。或る学問に枠組みを与える原理(学問の対象である存在者の「存在」)は、学問的探求に先んじて存立しているなんらかの日常的経験から獲得されているのであり、学問的探求が実際に行われる以前に、その探求の方向性を既に決定している。その点に「歴史性」という問題が生じてくる。

 第2章では、そのような解釈学的現象学の方法論が取り組もうとしている問題である「歴史性」ないし「歴史的なもの」とは何を意味するのかを明らかにした。簡潔に述べれば、「歴史的なもの」とは、我々の後ろに形成される過去のようなものではなく、常に先行して我々の考え方や物の見方を制約している伝統的な諸々の概念や枠組みを指している。ハイデガーは、無時間的な認識を無条件に理想とする「理論的態度」とその態度の相関者である「理念的に構築された世界」という領域それ自体が「歴史的なもの」なのだとする。〈歴史的なもの―超時間的なもの〉、〈実在的なもの―理念的なもの〉という二項対立図式は強固な枠組みとして機能し続けているが、ハイデガーはその対立構造そのものの根拠を明らかにし、新しい地平において歴史性の意味をとらえなおそうと試みた。

 第3章では、知的な営為におけるそのような伝統の問題・歴史的拘束性の問題を考慮した際に、「真理」はどのように捉え返されるのか、という問題を検討する。哲学の伝統において「真理」は判断のうちにあるとされ、その本質は「知性と物との合致」であるとされてきた。ハイデガーはそのような判断の真理を基礎とした真理論に対して、そこには検討されざる存在論的な前提が持ち込まれていると指摘する。それは前章でも分析した〈実在的なもの―理念的なもの〉といった二項対立図式である。これらが分裂してしまう以前の統一的現象としてハイデガーは、判断作用、そして判断を確証する直観作用を現存在の存在様式として分析するという視点を提示する。その結果、判断を確証する直観そのものも歴史的文脈のうちに位置付けられるのであり、その中に含まれる歴史性、被解釈性の問題を指摘しうることが明らかになった。判断の真理に定位して真理の問題を考える限り、直観そのものに潜む歴史性の問題は看過され続けるのであり、ハイデガーが判断の真理ではなく、「開示性」を根源的な真理概念と呼んだことにはその問題を指摘する意図があった。

 第4章では、いわば「知の本来性」とでも呼ぶべき問題に踏み込んでいく。『存在と時間』第1部第2篇で論じられる「本来性」を知の問題に関わる概念として解釈する可能性を示す。「原理そのものを問う」という課題を遂行するにあたり、常に既にそのつど探求を不可能にするような隠蔽構造が日常性にはある。世人の被解釈性と、それに基づく日常性の連関との循環関係によって、常に既に「解釈済み」の了解が再生産されていく構造が生じる。先行的な「全体」が、部分が「いかに現れるか」を規定しているという解釈学的な循環構造は、現存在が何かを理解し解釈する働きそのものに属している。しかしながらこの循環構造を全体として導く「世人の自己」という自己解釈を解体することができれば、それを基軸としていた現存在の存在可能性の連関もろとも解体しうる可能性がある。その可能性を追求するために「死への先駆」という概念装置が持ち出された。そしてこのような「根源的な開示性」を具体的に理解しうる場面として、ハイデガーがカール・ヤスパースに対して企てた「現象学的批判」の試みを分析した。

 そして最終章(結論)では、以上の議論をまとめて、ハイデガーの解釈学的現象学のプログラム全体がどのような哲学的意義を有しているのか改めて考察する。その上で、例えばハイデガー哲学が新たに注目を浴びているケア理論の分野などにおいて、ハイデガーの哲学がどのように寄与しうるかを考察した。

 結論を述べるならば、「知の歴史性」とは、知そのものが「循環」という構造を有しているということを意味する。ハイデガーの言う「歴史性」とは、一言で言えば「循環という構造」そのものである。だから、例えば通常は「歴史」とは無縁と思われている物理学も、なんらかの自然概念・物体概念・時間概念を探求の開始以前に前提し、その上で探求がなされるため、探求以前に探求の方向性が制約されている、という意味で、「循環」の構造を持っている。この「循環」さえも考慮に入れた上で知のあり方を考えるとすれば、その時には、一言で言えば「存在」に触れている「知」と、「存在」に触れることのない「知」が区別されるようになる、と表現しうる。

 ハイデガーの解釈学的現象学は、直接には意識に与えられない知の「原理」を探求する方法であり、それは「知の歴史性」という循環の構造を見えるようにし、「知」がまさに「知」であるために、本来の意味で「存在」に根拠をもつ「知」を探求する方法なのであった、というのが本研究の提示した解釈である。死への先駆、決意性、本来性、解釈学的循環といったハイデガー固有の諸概念は、この問題圏の中で、新たな光のもとで見えるようになる。(3868字)

 

 

一覧へ戻る