本論文では、明治期の大学や博物館に雇用された「画工」を対象とし、植物学・動物学・人類学の分野において、画工による学術標本の図示が役立てられたことを論じた。

 文章による説明を補う図は、視覚的な記録や伝達上の有効な手段となる。明治期の学校教育や産業分野では、説明文が添えられた写生図をはじめ、図版や挿図を伴った書籍や刷り物などが数多く作り出されてきた。大学や博物館では諸分野で扱われる学術標本が、画工や学者の手によって、写生図や図解として緻密に描き出されている。

 学術分野において生み出された図の中でも博物図譜については、東京国立博物館や国立科学博物館等の研究者を中心に調査研究が進められてきた。また、博物図譜の制作者に関しては、美術史研究において一部の画工/絵師の生涯や作例が詳しく論じられてきた経緯がある。加えて科学史や植物学史等においても専門的見地から図の分析がなされるなど、文理にわたる各分野での先行研究に蓄積がみられる。しかし、博物図譜に関する研究の進展にくらべると、明治10年前後からそれ以降の画工や図に関しては、個別の資料紹介の中で補足的に言及されるに留まる傾向にあり、画工の画業を中心に据えた研究はあまりみられない。大学史や博物館史においては、組織の変遷や主要人物の動向に関する記述は充実するものの、組織の一構成員である画工の雇用実態への言及はわずかに留まり、画工が雇われた背景や業務内容には不明な点がいまだ多く残されている。

 本論文は、描き手である画工の側から、明治以降の学術分野で生み出された図を捉えることにより、教育制度の成立や殖産興業の過程にあって、大学や博物館に身を置いた画工が学問の視覚的な記録と伝達に欠かせない重要な担い手であった可能性を指摘するものである。一種の技術者として各組織や施設に所属した人物の存在を掘り起こすことにより、従来埋もれてきた画工の活動に光を当てることを目指した。

 序章では、本論文で用いる「画工」という語の意味と範囲を定めるとともに、博物図譜や植物画に関する先行研究を振り返り、本論文の立場を示した。明治期において「画工」の語は、広義には絵描き全般を指す用語であった。辞書や小説には「絵師」や「画家」の同義語として「画工」の使用が認められた。しかし、より狭義の意味において「画工」は、東京大学理学部内での職名としての意味合いを内包していた。明治10年代の東京大学理学部に関する文書には「理学部画工」や「画工」の語が散見される。明治期の東京大学には複数の絵描きが継続的に雇用され、理学部の研究に必要な図の制作に携わっていた。こうした状況を踏まえ、本研究では狭義の意味、すなわち明治期の理系分野で学術標本を専従的に描いていた者という意味において「画工」の語を用いることとした。

 本論文は3部により構成され、第1部は3章からなる。第1部「官庁・博物館・大学に勤めた画工」では、幕末の開成所出仕者に遡りながら、明治期の官公庁・大学・博物館に出仕した画工を概観した。

 第1章「画工の官庁出仕」においては、『第二回内国絵画共進会出品人略譜』(1884年)の記述を頼りに、明治10年代における官庁への画工の出仕状況を示した。略譜の分析からは、官庁出仕者には狩野派出身者が比較的多くみられ、ほかに大和絵や中国絵画の流派の出身者も官庁に出仕していたことが指摘できる。画工のおもな出仕先には大蔵省、工部省、内務省、兵部省、海軍省、文部省、農商務省がみられ、出仕者は各機関で工芸品の図案、地図の作製、図解『教草』の制作、社寺宝物の模写等に従事していたことを示した。

 第2章「博物館の画工」においては、博物局への画工の出仕および動植物写生図の制作について検討した。明治期前半における博物局天産部門の活動を概観した上で、博物局内で長年にわたり動植物写生図が収集・制作されていたことを、動物剥製との関わりを中心に論じるとともに、それらの図の制作に携わった画工の略歴を示した。とくに本章では、博物館の陳列品であった剥製を製造する工程において図が使用されていた点を検討し、動物の姿かたちを写生することが剥製法の工程の一つにあったことを指摘した。

 第3章「東京大学の画工」においては、1877(明治10)年に創立した東京大学での画工の勤務状況について、大学文書や年史類の記述を抜き出しながら、その輪郭を辿った。明治10年代の理学部に勤めた画工は、外国人教師に描画の能力を認められ、大学紀要『理科会粋』に載せるための図版の原画制作に従事していた。なかでも植物学教室や動物学教室では、洋画や石版印刷の描法に通じた者が画工に採用される傾向がみられた。

 第2部「植物学における図の制作と画工」は2章からなる。第2部では、明治期の自然科学分野で盛んに動植物が描写されていた点に着目し、東大植物学教室を中心とした明治期前半の植物学における図の制作状況を論じた。

 第4章「明治20年代の植物学における図版制作」においては、明治20年に創刊した『植物学雑誌』に載る図版を分析し、創刊当初の『植物学雑誌』では植物学者自身による図の作成が重視されていたことや、顕微鏡を用いてつくられた図が多くみられる傾向を指摘した。植物学において図は記載文に付随する重要な論拠とみなされ、初期の『植物学雑誌』には植物学者が原画を描いた図版が掲載されている。また、植物学者が画工に図を描かせる場合、画工には、植物学者の学説と合致した図の制作が要求された事例についても考察した。

 第5章「小石川植物園の画工・渡部鍬太郎の足跡」においては、明治10年代半ばから明治20年代前半の小石川植物園に勤務した渡部鍬太郎の詳細な活動について検討した。渡部が長年にわたり草木写生図の制作に従事するとともに、植物学者・矢田部良吉の論文の図版制作に画工として寄与したことを論じた。

 第3部「学問の普及啓蒙を支えた画工」は3章からなる。第3部では、画工によってつくられた図が、学術的な成果を社会に広める際の視覚的資料として活用される場合があったことに着目した。画工が大学や博物館における図の制作経験をいかしつつ、みずからの創意工夫を交えながら学術上の知識や標本を図示した事例を取り上げた。

 第6章「植物知識の普及—西野猪久馬の植物画制作」においては、東大植物学教室に勤務した画工・西野猪久馬の活動について検討した。明治大正期における植物画制作の背景には、明治30年代に始まる植物生態学の本格的な導入とその普及があった。雑誌『少年世界』に掲載された動植物の口絵、「櫻花写生図」、「救荒植物図譜」等の西野による植物画制作を事例に、明治後半から大正期の植物画にみられる傾向を考察した上で、生態や効用を強調した植物画のもつ目新しさやわかりやすさが、植物学的な知識の普及を後押ししたことを論じた。

 第7章「大野雲外の画業—人類学教室での活動と『模様集』」においては、東大人類学教室の画工・大野雲外の画業を中心に、明治期後半における考古資料の視覚的な表現について検討した。大野は人類学教室で考古資料や民族資料を描くかたわら、考古学者として日本各地の遺跡調査や遺物の研究に携わった。主な作例には、日本の先住民族と考えられていた「コロボックル」をあらわした想像図、考古図譜、土器の文様を図案化した模様集などを挙げることができる。大野による模様集制作を手がかりに、画工が人類学者の依頼に応じて学術標本を描くだけでなく、描画対象への関心をしだいに深め、学術上の使用に留まらない応用的な図の制作に取り組んだ様子を考察した。

 第8章「明治40年の太古遺物陳列場とコロボックル想像図」においては、1907(明治40)年に開催された東京勧業博覧会を舞台とした日本石器時代の視覚的な表現について検討した。東京勧業博覧会には「太古遺物陳列場」と名付けられた考古陳列施設が設けられており、その陳列場とは別の場所に水彩画《コロポッグルの村》(東京国立博物館蔵)が出品された。人類学者である坪井正五郎、制作者である大野雲外や織田東禹の関心が重なり合ったところで、遠い過去の人びとのイメージが創り出されていく様子を考察した。

 以上により、明治期の学問形成の過程において、画工が図の制作を通して学問の視覚的な説明者としての役割を担い、学問の普及啓蒙に一定の貢献を果たしたことを指摘した。学術や教育上の使用を目的とした図を専門に描く画工は、東京大学や博物局等の機関に雇用されて、各専門分野で必要とされる学術標本の描写に携わっていた。植物学の分野では、画工が植物学者の意向に忠実に従いながら、植物画の制作に従事する傾向が見られた。画工が専門性の高い描写を継続する中で描画対象への理解を深め、得意とする描画対象を定めていく様子も見えてきた。画工は学者の意向や研究動向に応じるという点においては従属的な立場にはあったが、学術標本を専門に描く高度な描画術を身に付けた技術者であり、学問の視覚的な表現者であったと結論づけた。

以上