現代日本における外国文学の受容と機能 1970年代のアメリカ文学の翻訳に即して

邵 丹

 本論文は、村上春樹に大きな影響を及ぼしたリチャード・ブローティガンとカート・ヴォネガットの受容史を検討し、この二人の作品群を日本の文学的風土に移植することで七〇年代の翻訳文化自体が大きく変貌したことを論証した。

 まず、リチャード・ブローティガンは、多くの意味で小劇場運動という六〇年代の対抗文化(カウンターカルチャー)の延長線上で日本に受容された。発見者の津野海太郎は、早大劇研の時代から小劇場運動にコミットし、ブローティガンを発見した当時、晶文社に勤めるかたわら、劇団黒テントの旅公演に関与していた。『アメリカの鱒釣り』を「新しい翻訳で新しい形で出したい」と願った津野は、素人の可能性に期待をかけてブローティガンの翻訳を演劇仲間の藤本和子に任せた。かつて早大劇研の看板女優だった藤本は、当時、機関誌の責任編集をグッドマンとともに引き受けることで「演劇センター68/69」が掲げた活動計画のうちの出版を担当していた。加えて、出版文化の側面からみれば、独立系の中小規模の出版社に数えられる晶文社自体は、六〇年代に、ある知的風土を築いた一群の出版物を出したために、一種のカウンターカルチャー的な存在だった。つまり、版元や担当編集者(発見者)、ならびに翻訳者(紹介者)の側面から見れば、『アメリカの鱒釣り』(晶文社、一九七五年)は、まさに「演劇」を鍵語とする対抗文化の土壌から育った文化的産物だったのである。

 ところで、『アメリカの鱒釣り』の藤本訳は、津野が見込んだとおり、「新しい翻訳」になっただけでなく、柴田元幸が評するように、「翻訳史上の革命的事件」となった。藤本は、ブローティガンの直截的な英語を受け入れ、口語体という日本語の現代文体を創り出した。それに比べて、当時、多くの翻訳者たちは、戦後の国語改革を経て西欧語をモデルとする態度が構文の上でも支配的になったために原文のセンテンスにならって日本語の文を表現しようとしていた。このような状況を踏まえて、「文章が生きている」『アメリカの鱒釣り』の藤本訳は、翻訳文学に新風を吹き込んだのである。さらに、『アメリカの鱒釣り』の翻訳の現場で藤本は、原作に思想や哲学を求めるという内容重視の流行の(trendy)翻訳規範にかわって、テクストにひそむユーモア、声、リズム、音楽に耳を傾けるという形式重視の革新的(progressive)翻訳規範を創出した。

 なぜ、デビュー当時、素人同然な藤本和子は、七〇年代に、伝統のしがらみを解き放ち、文学翻訳の現場に革新的な規範を導入できたのか。理由は二つある。ひとつは、藤本は、「エクソフォニー」体験の系譜に連ねる女性翻訳家のひとりだったからだ。アメリカ人と同じような生活環境の中で長く暮らした藤本は、アメリカ英語のリズムとテンポを体得していた。加えて、『アメリカの鱒釣り』の翻訳を手がけていたとき、何度もブローティガン本人に話を伺うことができた。つまり、海外渡航が一般化する前に、文学翻訳者にとって原作者が遠い世界に住む想像上の人物であったのに対し、藤本にとって、ブローティガンは、肉声を聞くことのできる等身大の存在だったのである。そして、もうひとつの理由は、小劇場運動へのコミットメントで培われた藤本の反抗的な姿勢にある。六〇年代に、藤本は、既にアンダーグラウンド(地下)演劇と九州のサークル村の女たちによる自己表現運動という二つの「地下」の流れに惹かれていた。他者に開示できないという弱点を抱えるアングラ演劇が自らを狭い範囲に限定してしまったのに比べ、演劇の運動を「視野の広さ」と捉えた藤本は、七〇年代の後半に『チャイナタウンの女武者』から始まる一連の先駆的仕事を通して、少数民族の女性というアメリカ社会で二重に疎外される他者に熱い眼差しを向けていた。さらに、藤本は、「聞書」という言文一致の表現形式に注目し、『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性』などの草分け的な仕事を通して黒人女性の「声」の復元につとめた。八〇年代の初頭に、藤本が編集と翻訳の両方を引き受けた「北米黒人女性作家選」の刊行は、七〇年代の半ばから動き始めた翻訳受容における「新しい波」を一挙に推し進めただけでなく、共通経験の強調という八〇年代以降の黒人女性作家の受容の様式をも確立させた。藤本が翻訳家として歩んできた道は、七〇年代以降のカウンターカルチャーがポリティカル・コレクトネス(政治的適正)へ向かうことを体現しているように見える。藤本和子という女性翻訳家の活躍で、従来のアメリカ文学の翻訳にまつわる「白い」や「マッチョ」などのステレオタイプもまた改められたのである。

 次に、『プレイヤー・ピアノ』で否応なしにSFのレッテルを貼られたカート・ヴォネガットは、ペーパーバックが生んだ最初の大作家だった。キャリアの最初の二十年間でヴォネガットは、スリック雑誌やペーパーバック市場を作品の発表の場にしていたために、実質的に無名でありつづけた。しかし、文壇から無視されたものの、「通俗的」な発表媒体は、かえってヴォネガットに文体実験を行うほどの創作上の「自由」を与えた。例えば、一九六一年に出た三作目の長編小説『母なる夜』において、ヴォネガットは、一人称という語りの形式や短い句を活かした場面描写、ならびに非常に細かい章の区分けを意識的に作品に取り入れた。『猫のゆりかご』が出た頃には、絶版になった旧作をふくめ、ヴォネガットの作品群は、アメリカの大学生の間で一種のアンダーグラウンド・クラシックとして回覧されるようになった。

 特筆すべきことに、ヴォネガットの旧作がアメリカの大学生の間で読み回しされていたのと時を同じくして、東京で伊藤典夫という日本人大学生は、SFに関する鋭い嗅覚をたよって当時、日本では全く無名だったヴォネガットを発見した。伊藤の紹介で福島正実は、一九六二年の時点で早くも解説文付きのヴォネガットの短編翻訳を《SFマガジン》に載せていた。また、同誌のコラム「SFスキャナー」でヴォネガットが正式的に取り上げられたことで、一九六五年は、「ヴォネガット宣言の年」となったのである。「SFスキャナー」の紹介文でヴォネガットを「異色SF作家」と評した伊藤典夫は、同年のF&SF誌の時評でヴォネガットの分類が不可能だと主張するジュディス・メリルとともに、ヴォネガットのような作家の活躍によってSFというジャンルが拡大されていくことに気づいていた。

 六〇年代という創作上の実験期を経て、ヴォネガットは、集大成となる『スローターハウス5』において虚構と現実の有機的な結合という独自の語りの形式を発明し、かつ確立した。しかし、自ら認めるように、『スローターハウス5』以降、創造的狂気が衰えたため、ヴォネガットは、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージを見せる者といよりも、むしろ説明者になっていった。

 その一方で、ヴォネガットの発見者である伊藤典夫は、一九六八年に、『猫のゆりかご』を訳す際にヴォネガットの翻訳文体を確立した。七〇年代に入ると、伊藤の発明によるヴォネガットの翻訳文体は、長編小説の専属訳者となった翻訳仲間の浅倉久志によって受け継がれ、安定化していった。忘れてはならないのは、伊藤と浅倉の背後に、六〇年代に形作られたSFファンダムやSF界という集団の力があったことだ。例えば、ジュディス・メリルの提案を機に、伊藤と浅倉が最初の参加者となるSF界の翻訳勉強会は、七〇年代における知的労働の集団化の象徴の一つとして一九七二年に発足した。ところで、七〇年代に、池澤夏樹が『海』の誌上で発表したヴォネガット論は、当時のヴォネガット文学の批評の最高水準を示すものとなった。しかも、一九七九年に発表された池澤のエッセイには、読物だったSFもまた立派な文学になれるという文学界の視点の転換を認めることができる。しかし、皮肉なことに、日本でヴォネガットが次第に主流文学に受け入れられる一方で、ヴォネガットの存在を日本の読者に知らしめたSFの翻訳は、七〇年代の後半に大空白時代を迎えた。状況の改善を目指して、山野浩一は、一種の「世界文学」的な様相を呈するサンリオSF文庫を企画した。その延長線上で、『ヴォネガット―大いに語る』というエッセイ集は、一九八四年に、サンリオSF文庫とは双子的な存在だったサンリオ文庫から刊行された。八〇年代以降、ヴォネガットの作品群の受容は、一般大衆を巻き込んでさらなる展開を見せた。とりわけ、一九八四年の本人の初来日を機にブームが発生し、ヴォネガットは、一躍して人気作家となったのである。

 総じて言えば、日本でブローティガンとヴォネガットの翻訳受容を支えたのは、戦後のベイビーブーマー世代に属する七〇年代当時の、若い読者をはじめ、若手の翻訳者や編集者などに代表される若いエネルギー、ないし若者文化だった。方向性という観点から見れば、六〇年代のカウンターカルチャーがしだいに周縁へ向かったのに対し、七〇年代、とりわけその後半に勃興したサブカルチャーは、文学や演劇などの上位文化の要素を取り入れて著しい地位向上を経験する。その結果、一種の文化対流現象が生じてしまい、従来の、明瞭な境界線が引かれた文化領域にかわって、七〇年代に新興社会層の若者を土台とする文化的第三領域があらわれたのである。

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