小幽隠期におけるイマーム派の教義形成に関する文献学的研究:ゴム学派のハディース集とタフスィールの分析を通じて

平野 貴大

 本稿は、「十二イマーム派」としての教義が確立する直前である小幽隠期(260/874-329/941年)までの「イマーム派」 の教義を「秘教的(esoteric)側面」と「顕教的(exoteric)側面」の両側面から考察することで、初期のイマーム派の実像を解明することを目指す。イマーム派内の初期の思想潮流の中でも、本稿は伝承主義的潮流であるゴム学派の思想を対象とし文献学的研究をおこなう。小幽隠期(874‐941年)は文献上十分に遡って研究できる最古の時代であるため、最初期のイマーム派思想の解明を目指す本稿は、小幽隠期に執筆され現存するイマーム派のハディース集とタフスィールを網羅的に分析する。

 初期のイマーム派の教えが過度な秘教主義であったか否かが、初期イマーム派研究の大きな争点となってきた。ゴム学派の思想に関する一部の先行研究はイマーム派の「秘教的(esoteric)」側面の分析に偏る傾向にある。Amir-Moezzi(1994)に代表される研究者たちはイマーム派の秘教的側面のみに着目し、秘教的教義こそがイマーム派の本来の(original)教義であると主張してきた(Amir-Moezzi 1994, 19)。同派の秘教的側面を過度に強調することによって、彼はイマーム派と極端派を同質な集団と見なした(Amir-Moezzi 1994, 129-130)。それに対して、Takim(2006, 61-62)、Crow(2012)、Abdulsater(2018, 7-9)、加えて筆者(2018a; 2018c)らはAmir-Moezziらの秘教的側面に偏った研究を批判しており、Crowと筆者は「顕教的側面」も含めたイマーム派教義の全体像を捉え直す必要性を主張してきた。しかしながら、反Amir-Moezzi的な潮流に位置する研究者たちはこれまで体系的にイマーム派の顕教的側面と秘教的側面を論じる研究を出していない。そのため、本稿は初期のイマーム派の秘教的側面と顕教的側面の双方を分析することで、小幽隠期のイマーム派の思想の全体像を体系的に示した最初の研究として位置づけられる。

 本研究は序論、第1章から第7章、および結論から成り、第1章は上記の先行研究の分析を行った。以下に第2章から第7章までの議論を要約していく。第2章では、「初期イマーム派」思想を研究する際の「初期」がどの時代に当たるのかを同定した。本章ではイマームの顕在期、小幽隠期、大幽隠期初期それぞれに執筆されたイマーム派文献の特徴を分析することで、小幽隠期が文献上十分に遡れる最古の時代であることを示した。その上で、フラート・クーフィー(10世紀初頭没)、アリー・イブン・イブラーヒーム・クンミー(307/919年没)、ムハンマド・アイヤーシー(320/932年没)の3人のタフスィール、および、アフマド・イブン・ムハンマド・バルキー(274/887年または280/893年没)、サッファール・クンミー(290/902-903年没)、ムハンマド・イブン・ヤアクーブ・クライニー (329/941年没)のハディース集という6つの文献を本稿における主要な資料とした。第2章では、これら6人の学者の文献は後世のイマーム派のものと比較した際に、それぞれ特殊な点を持っていることも明らかにした。

 第3章では小幽隠期の時点でのイマーム派とシーア派諸派との教義上の境界線の一部が曖昧であったことを、イマーム派のタフスィールの分析を通じて明らかにした。先行研究ではイマーム派と極端派との近接性のみが主張される傾向にあったが、当時のイマーム派の思想は極端派とだけ近しいわけではなかったことが判明した。例えば、当時のイマーム派伝承の中にはカイサーン派、ワーキフ派、ザイド派に近い教説を見出すことができ、ザイド派的な伝承の量は無視できないほどに多い。そのため、イマーム派と極端派だけが近接関係にあったわけではなく、教義形成期の小幽隠期においてはイマーム派の教義はまだ完全には確立していなかったということがわかった。

 第4章では、本章は小幽隠期のイマーム派のクルアーン解釈の独自性、およびイマーム派と極端派のクルアーン解釈上の相違点を考察した。本章の分析を通じて以下のことが明らかとなった。イマーム派の顕教的解釈はあくまでもクルアーンの字義の解釈であるため、イマーム派と他派との解釈の相違が生まれにくい。その意味では、イマーム派の独自性が顕著であるのは後者の方である。ただし、このことはバーティンのザーヒルに対する優越性は意味しない。むしろ第3章の分析を通じて、イマーム派文献の中ではザーヒルとバーティンの両方が重要であるとされていることが判明した。また、小幽隠期のイマーム派の秘教的解釈が極端派由来であったという先行研究の主張は証拠不十分であることを第3章では指摘した。イマーム派の秘教的解釈は、顕教の軽視や無視、預言者とイマームの神格化に繋がるようなものではなく、むしろ、同派の秘教的解釈をウスマーン版クルアーンの中にイマームたちの記述を見出すための方法論の1つと考えることができるだろう。その意味で、クルアーン改竄説と秘教的解釈によって、当時のイマーム派学者たちはウスマーン版クルアーンにイマームたち、イマーム派への称賛と、彼らの敵への非難を見出していたと結論付けられる。

 第5章では、小幽隠期の文献の中でも最も極端派的傾向が強いと見なされてきたサッファール・クンミーの著作を中心に分析し、当時のイマーム派による極端派認識を解明した。極端派という呼称は、イマーム派やスンナ派、イスマーイール派などが自派の法・神学的立場から見てイスラームで認められる範囲を逸脱したと見なした集団を指すときの蔑称であった。極端派というレッテルが張られるような集団のメルクマールとなる教義が(1)預言者とイマームの神格化、(2)イマームにおける預言者性の継続、(3)シャリーアの放棄、(4)輪廻であった。この中でも、少なくとも(1)から(3)の教義を小幽隠期のイマーム派の文献の中に見出すことはほとんど不可能であり、最も極端派的傾向の強いと言われるサッファールの著作においてもこれらの教義を否定する伝承ばかりであった。

 そのため、第5章では小幽隠期のゴム学派の中で極端派と未分節な教義が存在していたと考えるならば、それは輪廻思想の一部と「委任」の教義であると結論付けた。ある種の輪廻思想や委任の教義については当時のイマーム派の中でも見解の対立があったようであるが、当時はまだそれらの教義が極端派の教説であるとは必ずしも考えられていなかったようである。このように、ゴム学派の学者たちは確かに輪廻や委任のように一部極端派に近い教義を信奉しながらも、彼ら自身は神格化や預言者性の継続、シャリーアの放棄を否定することで、極端派の教義に近づくことを回避しようとしていたのだと考えられよう。

 第6章の目的は2つある。1つ目は、極端派と小幽隠期のイマーム派の境界線を明確に示すために、当時のイマーム派が法規定を重視し、かつ多様で独自の教義を持っていたことを明らかにすることである。2つ目は顕教的教義もイマーム派の本来かつ独自の教えに組み込まれていることを明らかにすることで、「イマーム派が秘教主義」という先行研究の仮説を修正することである。この2つの目的を達成するために、第6章ではまず小幽隠期のイマーム派文献中における顕教的伝承と秘教的の割合の概算を示した。その結果、顕教的伝承の割合は無視できないほどに大きいということが明らかとなった。伝承の割合を検討した後に、小幽隠期のイマーム派の法規定の独自性を分析した。その結果、イマーム派独自の教説が小幽隠期の時点で現れており、それらが後世にまで引き継がれているということが判明した。小幽隠期のイマーム派が上記のように多種多様な法規定を持っていたということ自体が同派と極端派の相違点を示す。イマーム派の法規定の中にも独自性が見出されるため、イマーム派の本来の教えは秘教主義ではなく、秘教的側面と顕教的側面の両方を持ったものであったことが判明した。

 第7章では、イマーム派とグノーシス主義との関連性を主張する一部の先行研究を批判的に検討した。Amir-Moezziらはイマーム派の特徴がグノーシス主義の影響を受けた二元論的世界観であると主張してきた。Vilozny(2017)は、決定論、決定論によって導かれる二元論的世界観、およびイマーム派と他派という選良思想が初期イマーム派の最も重要な教義であると主張した。それに対して、第7章の目的は上記の研究者の主張が初期イマーム派思想の一面的な理解に過ぎないことを示すことであった。本章ではまず二元論的世界観はクルアーンに明文があることを指摘し、スンナ派、ムウタズィラ派、イマーム派のクルアーン注釈者たちの注釈内容を分析した。その分析を通じて、二元論的世界観はイスラーム諸宗派に共有されているものであり、イマーム派が二元論的世界観を持っていたとしてもそれは同派の特徴にはなり得ないことを示した。また、本章ではイマーム派の二元論的世界観は徹底されたものではなく、少なくとも彼らの現世観は二元論的世界観と矛盾するものであるということも示した。第7章の最後に決定論がイマーム派の特徴になるかを検討し、実際には決定論は初期イマーム派の中にあった1つの学説に過ぎなかったことを示した。上記の分析を通じて、第7章の結論としては、イマーム派を「グノーシス主義的」もしくは「秘教的」と呼ぶことに大きな問題があることを実証的に示した。

 以上の分析によって導き出される本稿の結論は、(1)イマーム派と極端派とだけが近接関係にあったわけではなく、シーア派諸派との間で未分節な教義が存在していたこと、(2)イマーム派と極端派を同質と見なすのは誤りで、一部の教義は明白に極端派のメルクマールとしてイマーム派が認識・排除していたこと、(3)初期のイマーム派は秘教主義ではなく、秘教的側面と顕教的側面を併せ持った宗派であること、という3点にまとめることができる。

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