本論文は、幕末維新期における日本の国家体制、とりわけ権力側から見た統治体制の変化を、軍事を視角として分析しようとしたものである。

 本論文における「軍事」という言葉の含意については、近世の国家体制においては、「軍事」という領域を画定することが困難である点を踏まえ、幕末以降、現実に発動・機能し得る武力の体系が改めて必要となり、西洋の技術や制度が導入されながら改革が進められ、本来戦闘者であった武士の支配体制が変容を迫られる中で、新たに軍事という領域が生まれ、近代を通じて形成されていったと考えた。そして、その軍事の内容については、はじめから明確な形が想定されていたわけではなく、結果的に西洋由来の「陸軍」と「海軍」の二軍並立という体系に収斂していく過程があったと捉えた。

 分析にあたっては、国家の要である中央政権、すなわち江戸幕府および明治政府が、軍事を組織し制度化していく過程を検討し、特に当該期に両政権において形成された、軍事を扱う実務組織に注目した。

 

 第一部では、幕末期における江戸幕府の軍制改革を中心とした組織改革について、先学の成果と課題を踏まえた上で、主として「海軍」組織の形成過程を分析し、それを幕府組織改革全体の中で位置付けることを試みた。

 第一章では、当該期の幕府職制において多用された、「過人」と称される任用方法を切り口として、幕府組織を横断的に分析することにより、幕末の幕府組織の特徴や組織改革に際して生じた状況の一断面を示した。

 「過人」とは、定員外の任用者を特に区別して呼んだものであり、しばしば本来の身分・所属のまま異なる役職等に出向する「出役」という任用方法と組み合わせる形で用いられた。幕府の役職構成は将軍の家臣団編成という側面を有しており、その再生産の方法を容易に変更できないながらも、幕府組織が短期間に大規模な再編を余儀なくされていくなかで、「過人」と「出役」は、急激な変化を極力回避しながら、可能な限り柔軟に人材を登用・配置するための、過渡的な役割を担っていた。

 ただし、幕府組織の改革は一つの役所・組織や分野で完結せず、相互に影響を与えつつ組織全体に波及する性格のものであり、抜本的な処置も必要とされるようになっていった。幕府内の各役所・組織の再編と自立化という道が、その一つの方途であったと推測され、このような状況下で形成されていったのが、西洋由来の「海陸軍」の組織であった。

 第二章では、いわゆる幕府海軍の士官層の任用方法を分析し、「業前」と総称される専門的な技能を理由とした人材登用の到達点と限界を、陸軍やその他の「業前之場所」との連関にも留意しつつ明らかにした。

 海軍士官の任用では、「業前」を名分に、身分・財政の障壁を回避しながら職務に就かせる努力がなされたが、現場の軍艦方=海軍方は、身分を無視した職階・職俸による登用ではなく、身分上昇を伴うそれを要望し続けた。人材登用の壁であり、人材の流出にも繫がったのが、家格や家禄に応じた役職に就く任用のあり方であった。その根幹にあったのが武士の「家」である。また、奥右筆の取調による先例の共有に加え、「業前之場所」の規模拡大・登用の頻繁化により、陸軍等他の「業前之場所」に波及するような例外的な人事は困難となっていった。

 慶応四年(一八六八)正月の人事制度改革は、家格の面では画期的なものであった。しかし、直参当主とそれ以外の間では、引き続き任用方法に差別化が図られた。幕府存命中に、家禄と武士身分、また武家社会内部の身分・格式の問題が、根本的に解決されることはなかったのである。

 第三章では、軍艦方=海軍方において会計等の事務を担った「俗事役」の検討から、幕府の「海軍局」、つまり「海軍」を扱う部局の形成過程を明らかにした。

 軍艦方=海軍方では、奉行層の下に、「業前」が必要な業務を担う軍艦組系統(前章で検討した士官層)と、会計等の「俗事」を担う取調役系統という、職務・任用方法の異なる役職系統が並置され、前者が従来の番方に、後者が従来の役方に対応しつつ、一つの新しい軍事組織を形成した。また、組織的には軍艦操練所という教育研究機関から始まったものが、「海軍」という新しく主要な軍事組織として、「陸軍」とともに幕府機構上に位置付けられていく過程があり、「海軍局」の形成を象徴するのが、「海軍御定金」という年間予算の設定であった。

 幕府では最幕末にかけて、既設・新設の軍事に関わる組織や事業を、新しい「海陸軍」の体系へと組織化する努力がなされたが、身分と会計に関しては、各部局の裁量拡大ではなく、幕府内での集中管理が図られた点に、近世由来の幕府の性格が表れている。

 

 第二部では、明治政府が発足直後から政府機構の中に設けた、軍事を扱う部局そのものに注目することで、先行研究の「二つの建軍構想の対立」(千田稔氏)構図とは異なる視点から、廃藩置県直後までの政府の軍事政策を検討した。

 第一章では、政府の軍事担当部局として設けられた軍務官の、戊辰戦争における役割や性格を明らかにすることで、政府の戦争遂行体制および中央政権としての性格について論じた。

 軍事担当部局の設置は、近世期と異なり、政府が「海陸軍」をはじめとした軍事に関する全般的な事柄を、特定の政府部局を通じて取り扱う体制を目指したことの表れである。ただし、発足当初の軍務官は、官制の規定には拘泥せず、戦争下の現実の要請に規定されながら組織や活動を展開していった。艦船の運用を統括し、兵員や物資の海上輸送を差配する役割を担った兵庫・敦賀の出張所が、それを集中的に表している。

 前線で指揮を執る臨時征討官に対し、全軍に配意した兵站の統括により、政府軍を後方からまとめることが、軍務官の主要な役割となった。このような軍務官の役割とは、十分な人員も物資も資金も直接的には持っていない政府にとって、戦争を遂行しながら実務を通じて中央政府としての正当性を得ていく手段であったと考えられる。また、東北戦争終結頃までの政府は畿内政権としての性格が強く、それはその軍事政策・戦争遂行体制にも反映されていた。

 第二章では、戊辰戦争の終結および政権拠点の京都から東京への移動により、政府の軍事的課題が新たな局面を迎える中で、軍務官(のち兵部省)の組織、特に近畿地方のそれが再編されていく過程を明らかにした。

 この再編は、戊辰戦争期に引き続き、軍務官・兵部省が政府の軍事担当部局として必要とされ、政権の本拠にはその本部を、政策上の要地にはその出張所を置く形で、軍事的課題への対応が図られたことを示す。

 再編で余剰となった人員や艦船の処分に際し、諸藩がその引き取り手になり得たことは、藩士の任用が出身藩の意向に左右されるといった問題を孕むものの、改革の自由度を大きくしたと考えられる。また、民部大蔵省の要請の下、本部と各地の出張所に分散していた兵部省経費の全体像を把握し、その定額を決めるという「兵部省定額金」の問題が、この再編を推進する役割を果たした。

 第三章では、三十万石に決定した兵部省定額に加えて、明治三年(一八七〇)九月の「藩制」により諸藩から徴収された「海軍資」、およびその前史となる「軍資金」について検討し、軍事=海陸二軍の枠組みが形成されていく過程と、それと絡み合う形で見られる政府と諸藩の関係性や相互作用、そして当該期の軍事費が有した意義について論じた。

 「海軍資」徴収決定の過程では、兵部省が海陸軍費の徴収を求めたのに対し、政府は集議院での諸藩の反応を受けて、用途を説明の上で、各藩での建設が困難な海軍のみを対象とし、当初より額も抑えるなど、諸藩の意向に配慮した。政府が軍事政策を進める上で、諸藩の同意と実行は必要不可欠であったが、それ故に政府は諸藩から政策の是非や正当性を問われ続け、諸藩の意向が政策の内容にも影響を与えたのである。

 その結果、兵部省内での議論もあって、海軍費・陸軍費の財源は諸藩からの海軍資と直轄府県からの兵部省定額とに分離した。以後、兵部省では会計面を中心に両軍の組織的な分離が加速し、最終的には兵部省の陸軍省・海軍省への分省にまで至った。

 一方、軍資金から海軍資への流れは、廃藩置県以前において、諸藩に名目の伴わない租税を賦課することが困難であったことを示すとともに、そのような中で結果的に、近世的な軍役と近代的な租税とを中継するような性格を持つことになった。

 

 終章では、以上の軍事を扱う実務組織を通じて、幕末維新期における軍事領域の形成過程を辿りつつ、両政権の性格を対比的に論じた。

 幕府は近世期を通じて形成された巨大家臣団機構によって支えられていた。これは幕府の大きな資産であると同時に弱点でもあり、過渡的な工夫を凝らしながらの漸進的な組織改革を余儀なくされた。一方で、発足当初の明治政府は、幕府のような有形・無形の資産に乏しかった。そのため、自身を支える諸藩の反応や動向には意を用いざるを得ず、統合主体として政権の正当性を得ることに苦慮した。他方で、巨大家臣団を抱えた幕府と比べると、改革は身軽に行なうことができ、政府内での試行錯誤の余地は大きかった。

 当該期の中央政権の軍事政策では、能力主義・機能主義が力を持った。しかし、構成員の存立を社会的・経済的に保障する仕組みとの兼ね合いが発生する場面では、しばしばそれが制約された。両政権ともに、自身を支えている集団の存立に関わる問題を無視できなかったと言える。さらに、財政担当部局が持つ力の大きさも両政権に共通しており、軍事を扱う実務組織あるいは軍事領域の形成に、財政問題と財政担当部局が果たした役割は大きかった。これらは軍事を一定の枠内に収め、その領域を画定する機能を有したと評価できる。