近世後期名目金貸付と江戸幕府

曺 承美

 本論文は、貨幣経済の社会であった近世日本における名目金貸付という金融の特質とその様相を、幕府権力とその政策との関わりのなかで究明することを目的とする。名目金貸付は、近世の有力寺社や諸侯が幕府の許可のもとに行った、その債権が幕府権力によって保護された貸付金融である。

 名目金貸付に関する先行研究は、その債権に対する幕府権力の保護に注目し、名目金貸付を有力諸侯・寺社への幕府の経済的支援を断ち切る代わりに出された財政節減策であると同時に幕府権力の有力諸侯・寺社に対する援護策として規定した。また、こうした債権が保障された特権的金融に利益の安全を期する有力町人などからの投資が引き寄せられ、高利貸資本として成長した名目金貸付が幕藩制社会の矛盾の深化、或はその解体の過程にどのように関わってきたのかということの究明を中心に研究が進展してきた。

 本論文は、幕府が関与していた貸付金融という名目金貸付の特性に注目し、その発端と展開過程を一八世紀の幕府権力との関わりのなかで捉えなおすことを目標とした。本論文で検討する具体的な研究課題として、①名目金貸付の成立過程の再検討による幕府権力と寺社との関わり方、②名目金貸付に対する幕府規制の背景ならびにその意図、③名目金貸付と幕府の公金貸付との関係、④名目金貸付の当該金融市場における役割、以上の四つを課題として設定し、これらの分析を通じて「近世的金融」としての名目金貸付のあり方、また一八世紀後半の幕府の経済政策及び当該期の経済社会の真相に迫ることを試みた。

 第一部「近世名目金貸付の成立」では、一八世紀における名目金貸付の成立過程を当時の幕府権力との関わりの中で考察した。第一章「公儀修復から貸付へ―京都妙法院を例に―」では、京都の門跡寺院である妙法院を取り上げ、宝暦・明和期における妙法院の幕府への諸請願の内容を明らかにし、寺院の募金活動である勧化の実施とその成果、またそれと同時に本格的に貸付が行われるようになった経緯を検討し、当該期における妙法院名目金貸付の成立過程を解明した。第二章「宝暦・明和期名目金貸付の展開」では、一八世紀半ばに全国の寺社から出された寺社奉行への請願とその交渉過程を分析し、当該期名目金貸付の成立における全体的な様相を明らかにした。特に触流許可の代わりに幕府が寺社へ提示した諸条件を分析することによって、幕府は当初から名目金貸付をより低利の金融とすることを求め、またその貸付の全貌を把握することを目論んでいたことを明らかにした。さらに妙法院名目金貸付の支配人の選定過程、また貸付支配人の罷免事例の分析から、名目金貸付というのは、貸付が許された寺院、実際の貸付運用を担当した貸付支配人、またその借金の取立に対する保護をきっかけに貸付に関与することになった幕府、これらの異なる主体によって成立した複層的性格を有する貸付であったこと、そのため名目金貸付はその主体の間に利害によって頻りに葛藤が発生する可能性を秘めていたことを指摘した。

 第二部「名目金貸付に対する幕府の認識」では、名目金貸付の成立期における幕府の認識がどのようなものであったのかという問題について、名目金貸付が当時盛んに行われた貸付事業であることに重点を置き、それを幕府の金融政策の中で位置づけることを目指した。第三章「名目金貸付の掌握の試み」では、まず名目金貸付が許可された後に寺社から幕府へ提出された請願の内容とそれに対する幕府の対応を分析した。ここから取立において幕府の保護を受ける代わりに強いられた諸条件が、実際の貸付を以前より不自由な、時には一層不利なものにするという逆説的な状況を生み出し、そのため寺社が条件の修正を幕府に訴えたこと、しかしその請願は受け入れられなかったことを確認した。また名目金貸付に関する最初の幕府法令である安永四年(1775)の達しをめぐる幕閣内の動向を明らかにした。この法令が京都町奉行の反対で修正を余儀なくされたこと、しかしながら案の修正にも関わらず、幕府への貸付報告が債権保護の大前提として確認され、名目金貸付の活動状況を幕府が把握できる仕組みが作り出されたことは重要である。第四章「名目金貸付における訴訟優先処理権の撤廃」では、大坂における名目金貸付の代表的な特権である訴訟優先処理権の廃止にいたる幕閣の議論を取り上げ、当時大坂における名目金貸付の運用様相とそれに対する幕府権力の対応を考察した。とりわけ、この時も安永四年(1775)の法令と同じく名目金貸付を直接に管理しようとする案が議論されたが、金融市場に生じ得る不安を考慮し、案の実行に至らなかったことは特記すべきことである。このことから当時の幕府は名目金貸付を単に規制するより、その弊害を最小限にし、これを如何に金融市場のなかで存続・共存させるのかを重要視したと考えられる。

 第三部「名目金貸付と公金貸付の諸関係」では、名目金貸付の盛行と同時期に進められていた幕府の代表的な経済政策であった公金貸付を取り上げ、それと名目金貸付との関係について考察した。第五章「幕府公金貸付の動き」では、明和期(1760年代)町奉行から江戸の町年寄に委託された上野宮名目金貸付には、その前年京都で行われた勘定吟味役の調査が背景にあり、その貸付の元金や貸付仕法は、京都町奉行所管轄の名目金貸付の影響を受けたものであると推測した。また、その後に江戸で本格的に始まった幕府の公金貸付である在方手当金貸付は、こうした名目金貸付の実施を踏襲したものであり、名目金貸付はいわば公金貸付の先行例であったと評価できる。第六章「幕府委託の名目金貸付―江戸深川霊運院を例に―」では、幕府に委託された名目金貸付を公金貸付と名目金貸付の中間的な存在として想定し、町奉行に委託された江戸深川の霊運院の貸付金を取り上げ、その貸付をめぐる寺院と幕府との異なる思惑を明らかにした。幕府に委託された名目金貸付は、幕府に貸付を委ねることが自分で運用するより有利であると判断した寺院の要請から始まったものであり、そのため委託された名目金貸付の運用をめぐって葛藤が生じることもあった。霊運院名目金貸付の地域変更の請願は、まさにその委託関係を解消しようとする動きであった。一方で幕府に名目金貸付の委託を続け、むしろ委託金の増額を願い出る寺社も存在した。このように幕府に委託された名目金貸付はその利害関係によってさまざまな様相を呈しており、これを幕府の公金貸付の一部として把握するより、異質な側面を持つ多面的な貸付として理解するべきである。

 最後に第七章「大名金融としての名目金貸付」では、寛政期(1780年代)肥前小城藩が負っていた妙法院名目金貸付を取り上げ、大名金融における名目金貸付のあり様を検討した。幕府は妙法院からの借金取立の要請に応じ、その借主である小城藩に対して妙法院への借金返済を命じながら、それと同時に小城藩が妙法院へ借金返済を期間内にできるように援助した。つまり、幕府によって名目金の貸付とその返済の構造が維持されていたともいえる。名目金貸付が破綻しないようにした幕府の助力は、結果的に名目金貸付の貸し手が積極的に貸付を行う後ろ盾になり、それによって救われた大名領主も存在したと推測できる。この点から見れば、名目金貸付は本来幕府が行うべき大名救済の役割を分担していた点で、広義の公金貸付としての側面も持っていたと評価できる。

 こうして本論文は、一八世紀後期における名目金貸付の成立と展開の様相と幕府権力の関わり方を考察した。以前のように幕府からの拝領金も民衆からの募金も十分に得られず、自力救済のため本格的に貸付に乗り出すことになった状況下、損金にならないよう資金の安全を期する寺社の願望から名目金貸付は始まった。しかしながら取立に与えられた幕府の債権保護は、名目金貸付を予想外の方向へ導いた。そこには名目金貸付を資金の安全な投資先として見いだした金主はもとより、それを自分の利得になるように利用する人々がいた。何より、取立の保護を契機に名目金貸付に関与することになった幕府は、それを単に保護、もしくは規制するより、名目金貸付を幕府が望むように機能するよう手を加えていた。

 本論文の焦点は、主に名目金貸付の成立期の様相と幕府権力との関係究明に置かれたため、考察が一八世紀後半にとどまっているという限界を持っている。それ以降の幕府権力の動態や社会変動など、視野を広げた通時的考察が求められる。更に全国的に展開された名目金貸付には、その地域ごとの状況も念頭に置いた綿密な検討が必要である。とりわけ、名目金貸付を行った貸主の多数は京都に本拠を構えた門跡であり、これらの内部まで立ち入って考察しなければならない。

 また本論文では名目金貸付の大名金融としての可能性を提示する具体例を模索したが、これには更なる論証が求められる。実際に名目金を借りていた各藩の社会経済的状況を踏まえた上での検討が必要である。最後に貸手と借手の間に貸付支配人という仲介者が立てられた名目金貸付のあり様についての考察も今後の重要な課題として挙げておきたい。現時点では本来の貸主ではない、貸付を委託された支配人の町人が借り手と相対して貸付を行うという間接的な仕方が、名目金貸付の盛行の一要因にもなったと推測しているが、こうした「近世的金融」の存在形態が持つ意味合いについて更なる考察が必要であろう。

 

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