志向性の基礎:『論理学研究』におけるフッサールの基礎意味論

葛谷 潤

 本稿の主な目的は、現象学の創始者として知られるE・フッサールの初期の主著『論理学研究』に対するM・ダメットの批判に応答することを通じて、同書の哲学的立場と意義を現代における意味に関する議論の観点から適切に再評価することである。

 ダメットによる『分析哲学の起源』(Michael Dummett, Origins of Analytical Philosophy, Harvard University Press, 1993)は、フレーゲ研究の大家として知られる分析哲学者によってなされた、現象学­——とりわけフッサール現象学­——への大きな歩み寄りであった。同書においてダメットは、両潮流の起源と彼が見なす二人の哲学者、つまりフレーゲとフッサールが、非常に近しい問題意識を共有していたということ、またそれにもかかわらず両者に見出される違いとは何かということを、具体的な解釈を通じて示そうとした。これが歩み寄りだと言えるのは、両者がその問題意識を共有しているということを示すことの目的が、両者を起源とする二つの潮流の間の「馬鹿げた亀裂を閉じる」(ibid., xi)こと、つまり両者の有意義な意思疎通を実現することにあるからである。

 しかし、彼のこの試みは同時に苛烈な挑戦でもあった。ダメットは、フッサールとフレーゲが共に、「我々が世界について考え語るということがいかにして成立しているのか」という問題に取り組んでいると考えている。しかしもちろん、フレーゲとフッサールが、そして分析哲学と現象学が、全く同じアプローチを共有しているということはありそうにないし、またそれはダメットの主張でもない。むしろダメットが述べたいのは、両者は単純に「棲み分け」をしてお茶を濁すような関係にはない、ということである。もし両者が同じ問題意識を共有しており、しかもその結果として最終的に異なるアプローチを採用するに至ったのであれば、どちらの決断が元々の問題意識に対して適切なものであったのかということが評価可能になる。そして同書の前半部分において現代的な意味論に関する見解を背景に、彼は次のような診断を下す。

 

我々は、フレーゲの理論にまともに対抗出来るような理論を、彼[=フッサール]の著作から引き出すことは出来ない。(ibid., 52)

もし我々が言語的意味と言語的指示についての明瞭な理論を求めるならば、我々が参照すべきはフレーゲであって、フッサールではない。(ibid., 56)

 

ここでフッサールは、フレーゲと同様の問題に、しかし全く劣った枠組みのもとで取り組んだ哲学者として提示されている。そして始祖におけるそのような違いが分析哲学と現象学の間のアプローチの違いを形成しているのであれば、同じことが二つの学派全体にも当てはまることになろう。

 もちろんダメットが望んだのは「対話」であり、したがって現象学側からの応答である。彼は同書の序論末尾で次のように述べていた。

 

分析哲学派と現象学派との対立に関して中立的でありうるのは、両者が同様に誤っているとみなすことによってのみだろう。したがって、本書のような本が中立的な立場から書かれることはほとんどありえない。本書は分析哲学を実践する者によって書かれた。今世紀初めにおいて両学派の創始者達の考えがいかに互いに近しいものだったかを示そうと努めてきたが、両派が枝分かれする地点においては分析哲学の側に立って論じることしかできなかった。現象学の立場から同じ問題について書かれた本は、非常に興味深い釣り合いを取るものとなるだろう。だれかがそれを書くことを望む。(ibid., xi)

 

しかし残念ながら、上で指摘した挑戦は未だ十全に応答されてはいないだけでなく、おそらくその意義自体が多くの場合適切に理解されてすらいない。本稿の第一の目的は、ダメットの挑戦の意義を適切に受け止め、現代的な議論を踏まえた上でそれに応答することを通じて、フッサールの初期の主著『論理学研究』を適切に評価し直すことである。

 それでは、本稿のもう少し具体的な方針とその構成を述べておきたい。

 ダメットがフレーゲと比較してフッサールに対して否定的な診断を下した最も主要な根拠は何か。それは、フレーゲの「指示」(Bedeutung, reference)の概念は言語の働きを記述する上で非常に重要な見解に裏打ちされており、そのことは彼の理論に明確にも現れているのに対して、それに当たるものはフッサールには見当たらない、というものである。

 これに対して本稿は次のように応じる。ダメットの言う通り、フッサールの対象概念は、フレーゲの指示概念ほど理論的に洗練されたものではなかったかもしれない。しかし、言語的志向性の成立を問題にする際には、我々は表現がいかなる指示を持つのかに関する理論、いわゆる「意味論」にだけでなく、表現はその指示をいかなる仕方で持ったのかに関する理論、(スタルネイカーの言い方を借りれば)「基礎意味論」にも取り組まなければならない。そして、後者の「基礎意味論」に関して言えば、フレーゲの意義に相当する概念の特徴付けに関しても、またそれに基づいた理論展開に関しても、フッサールはフレーゲに対して大きく差をつけていた。

 こう言っても良い。「もし我々が言語的意味と言語的指示についての明瞭な理論を求めるならば、我々が参照すべきはフレーゲであって、フッサールではない」というダメットの診断に対して、本稿は次のように応答する。「確かに、もし我々が言語的指示についての明瞭な理論(つまり意味論)を求めるならば、我々が参照すべきはフレーゲであって、フッサールではないかもしれない。しかし、もし我々が言語的意味についての明瞭な理論(つまり基礎意味論)を求めるならば、我々が参照すべきはフッサールであって、フレーゲではない」、と。

 この方針には、問題の理論をフッサールの具体的な解釈において実際に取り出せるのかという問題はもちろん、次のような二つの疑念があろう。一つは、意味論においてフレーゲの水準に達していない哲学者は、そもそも何らかまともに基礎意味論を展開しうるのかという問題である。基礎意味論の課題が指示が与えられる仕方を明らかにすることである限り、指示概念に関して不明瞭な哲学者が果たして基礎意味論を適切に展開しうるのかということは大きな問題になる。実際、ダメットはこの点に関して否定的である。それゆえ本稿は、意味論と基礎意味論の間の関係を適切に押さえた上で、フッサールには意義の理論を(少なくとも部分的には)適切に開始できる程度の指示概念を持っていたと論じる必要があろう。

 もう一つの問題は、そもそもフッサールと同等ないしそれ以上の基礎意味論的考察をフレーゲに見出すことはできないのかというものだ。

もしそのようなことが可能なら、「もし我々が言語的意味についての明瞭な理論を求める場合であっても、我々が参照すべきはフレーゲであって、フッサールではない」ということになろう。したがって、本稿の議論が成功したものであるためには、この点に関しても一定の正当化を与えることが望まれよう。

 これを受けて、本稿の構成は次のようなものになる。第1章では、フレーゲの指示概念の背景にダメットが見て取っていた理論的枠組み、つまり「意味論」の目的とその重要性を明らかにする。より具体的には、ダメットが「意味論的値」と呼ぶ理論的概念の眼目とその重要性を一定の仕方で明確化した上で、それがフレーゲになぜ見出されるとダメットが考えたのかを確認することがこの章の課題となる。第2章では、フレーゲの指示概念に相当する概念をフッサールが欠いていたというダメットの主張に関して、フッサール研究の側からこの点に応答しようとした先行研究を参照しつつ、その達成点を明確化する。この作業により、確かにフッサールにはフレーゲほどに洗練された指示概念(に当たるもの)はないが、しかし少なくとも名辞と文に関しては類比的な見解を展開していたということが確認されるとともに、指示と意義の間の関係に関して本稿が解決すべき問題が提示される。第3章では、基礎意味論とはいかなるものであるかを、近年「メタ意味論」と呼ばれる理論的営みのうちに位置付けた上で、識別能力と指示を持つ仕方の間の関係に関するある見解を擁護する。そして第4章において『論理学研究』のフッサールが具体的な基礎意味論的考察を展開していたということを論じる。第5章では、同様の理論がフレーゲには見出せないのか、またそうだとしたらなぜフッサールはそれに着手できたのか、という当然生じる疑問に対して、ダメットのフレーゲ批判を参照軸としながら、フッサールの意味に関する見解を解釈することで答える。この作業を通じて、「意味のスペチエス説」と呼ばれるフッサールの意味概念が、基礎意味論的考察に適切に開かれたものだという点で、フレーゲの意義概念に比べて大きな長所を持つことが確認される。最後の第6章では、『論理学研究』においてフッサールが採用している方法論、いわゆる「現象学」と呼ばれる方法論に関して、その目的との関係をそれまでの議論を踏まえた仕方で整理する。また『論理学研究』の方法論に関して、今後検討すべき論点にどのようなものがあるかも合わせて確認される。

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