戦前の東京における映画館の音楽文化

柴田 康太郎

 

 本論文は、1910~30年代に東京の映画館で行われていた音楽実践・音楽受容を事例として、映画館が音楽史と映画史の相互作用のなかで織りなした音楽文化の諸相を具体的に明らかにする試みである。先行研究によれば、初期映画がともなっていた音楽は各国・各地域で極めて多様であったが、サイレント映画の成熟期になると欧米の映画伴奏の様式や実践が次第に規範化して定着し、トーキー初期には伴奏音楽の洋楽化がいっそう進んだ。確かにこうした洋楽化というべき推移は同時代の様々な文献から確認できるものであるが、こうした指摘だけでは、大正~昭和初期の映画館が日本における洋楽受容においてどのような意味で重要な窓口として機能し、西洋音楽の土着化と大衆化のための文化装置としてどのように機能していたかを捉えることができない。また、改めて検討を進めると、この当時の映画伴奏の実践にはたんなる洋楽化ということでは捉えられない多様性があったことも確認できる。本論文では同時代の文献資料・楽譜資料・音源資料・映像資料などを複合的に考察することで、映画館の音楽実践・音楽受容が映画会社、撮影所、興行者、監督、観客などの様々な力学のなかでいかに展開していたのかを多角的に浮かび上がらせる。

 本論文は3部構成をとる。

 第1部では、サイレント期の東京における洋画専門館に注目し、輸入洋楽曲の管弦楽合奏という西洋的な演奏形態・伴奏形態の定着と土着化の諸相を考察した。洋画専門館は、欧米の映画館の音楽文化から最も影響を受けやすい場であり、また独特のかたちでその大衆化・土着化が進んだ場でもあった。第1章ではまず、映画上映の合間に行われた休憩奏楽と映画上映中の伴奏音楽の関係に光を当て、1920年前後の浅草帝国館、銀座金春館等の映画館プログラムに掲載された観客の投稿文を分析した。これにより、映画観客の間で西洋音楽への関心が高まるなか、映画館が音楽会場ともいえるほどの活発な音楽受容の場になっていたことを示し、また歌詞をもたない器楽曲が映像を通して独特の意味作用をまとって聴取されるなど映画館特有の音楽受容が行われていたことを指摘した。

 第2章では、洋画専門館の音楽伴奏における欧米からの影響を捉えるとともに、音楽伴奏と、日本で特に発達を見せた弁士の語りの文化(映画説明)の関係を考察した。洋画上映館ではキューシートなどを通して欧米の同時代の言説や実践が流入しやすかったため、欧米にはいない弁士の語りと欧米的な映画伴奏の間に摩擦が生じていた。ここでは映画草創期からサイレント黄金期までの映画雑誌を分析することにより、映画伴奏と映画説明の関係が様々な局面で問い直されてきた系譜とその変容過程を示した。

 次いで第2部ではサイレント期の邦画上映館に注目し、邦画上映館において従来からの邦楽的な演出語法と洋楽的な演出語法とがどのように折衷されたのかを分析した。第3章では純映画劇運動の前後に注目し、1920年前後に起きた音楽的多様性の変容を、芝居上演を規範とする多様性から洋画上映を規範とする多様性への再編成として示した。帰山教正らの純映画劇運動やその後の松竹キネマの映画興行を取り上げることで、邦画伴奏に洋楽合奏が導入され、邦画上映館固有の土着化が始まるまでの推移を具体的に考察した。また最後に、1920年代後半に流行した休憩奏楽におけるメドレー曲を取り上げ、第1章で示した休憩奏楽が1920年代後半の邦画上映館で更なる展開を迎えていたことを指摘した。

 第4~6章では、邦画伴奏に洋楽合奏が規範化した際、音楽実践がどのように再編成されたのかを日活の事例を軸に考察した。第4章では、1920年代半ばの日活現代劇における洋楽伴奏の実態を検証すべく、日活が設置した「作曲部」による日活専用伴奏譜の整備、および作曲部長だった松平信博の実践を考察した。これにより、浅草三友館の松平信博による伴奏譜が日活専用楽譜として直営館内で共有されるなど、日活直営館内部では独自の楽譜配給網が作られていたこと、そしてキューシートや選曲譜の発行によって国内での音楽文化の再編成が目指されたことを指摘した。これに対し第5章では、洋楽伴奏が浸透する一方で強固に続いた琵琶弾奏の実践に分析をくわえ、琵琶弾奏と洋楽伴奏の関係に光を当てた。ここでは映画館における琵琶弾奏の実態を捉えるため、現存するSPレコードの音源や、映画会社と別の映画琵琶師の団体が作っていた琵琶台本群を考察し、邦楽実践と洋楽伴奏の混交状況を明らかにした。第6章では、時代劇という歌舞伎の邦楽的伝統が最も根強いジャンルにおいて西洋音楽がどのように土着化したかを検討すべく、神田日活館における田中豊明の言説と実践、浅草富士館の松平信博の実践を考察した。これによって、和洋合奏が1924年頃に定着したこと、また映画伴奏の洋楽化が心情的な場面やミステリアスな場面といった特定の場面から進んだことを指摘し、西洋的な音楽語法が規範化するプロセスを多面的に浮かび上がらせた。

 最後に第3部では、トーキー初期の映画館を取り上げ、サイレント期に定着した伴奏音楽をめぐる音楽実践が映画のトーキーかを経てどのような再編成を遂げたのかを考察した。

 第7章では、初期の洋画トーキーが日本の映画伴奏をめぐる議論と実践に与えた影響を検証した。まず初期の洋画トーキーが日本の映画界にとってトーキー映画における音楽演出のモデルとして受け止められるなかで、伴奏音楽を過去の遺物ととらえる伴奏音楽無用論や、映画の音楽演出としては現実音としての音楽のみが妥当だとする見方が現れていたことを指摘した。次に、同時期の邦画サウンド版映画を取りあげ、弁士の存在もふくめてサイレント期の慣習が残る一方、洋画トーキーの影響を受けながら現実音の音楽・音響表現が増加するなど、邦画作品でも1930年代初頭から多様なかたちで音響表現の変容が始まっていたことを指摘した。

 第8章では、前章で取り上げた初期の伴奏音楽無用論を経てあらためて伴奏音楽が定着する1930年代半ばの邦画トーキーに注目し、この過程でどのような試行錯誤があったのかを検証した。まず1930年代半ばの映画撮影所の音楽部の仕事、特にPCL作曲部の伊藤昇や松竹作曲部の早乙女光の仕事に注目し、サイレント期からの連続性(既成曲の使用)と不連続性(新作曲・編曲の増加)を分析した。次いで、音楽を映画の各場面に重ねるうえで行われた模索を島津保次郎や堀内敬三らの発言を軸に録音と映像との同期をめぐる議論に考察をくわえた。最後に、こうした試行錯誤を経て映画伴奏の洋楽化が強化される一方、録音を通して同じ音楽が多様な観客層を対象とすることになったことで、あらためて多様な日本の観客層の音楽感覚に配慮した洋楽の使用が課題になっていたことを指摘した。

 第9章では、日本映画における洋楽が規範化する一方でトーキー以後も根強く残った邦楽的実践として、浪曲映画の音形式とその受容を分析した。ここでは浪曲映画をサイレント期の琵琶映画の系譜に連なるものとして捉えるとともに、浪曲の存在がトーキー映画の枠組みのなかに位置づけられる際には、浪曲が当時「ナラタージュ」と呼ばれたボイスオーバーの手法に引き付けて理解されたことを指摘した。また、浪曲映画でも洋楽伴奏と浪曲が共存していたため、後半では現存作品の分析をもとに、作中の浪曲の使用法、および浪曲と音楽の関係の変化を考察した。

 最後に第10章では、1930年代後半におけるリアリズム映画への関心の高まりに刺激された伴奏音楽無用論を再検討し、トーキー時代の伴奏音楽をめぐる再編成の諸相をめぐって文献資料に考察をくわえた。まず、1930年代前半から存在した伴奏音楽無用論がリアリズム映画論と結合したこと、またこれによって日本映画と西洋音楽の調和をめぐる問題が再燃していたことを示した。また、当時の代表的な映画音楽の作曲家であった深井史郎の議論と実践に注目して、当時の代表的な作曲家がリアリズム映画と伴奏音楽無用論の問題に対してどのように応答し、試行錯誤をしたのかを示した。

 本論文は以上の分析を通して、戦前の日本における映画館の音楽文化が多様な関係者の関与、そして音楽史と映画史の絡み合いのなかで展開し、不断に再編成を繰り返してきたことを浮かび上がらせた。本論文では、映画音楽の歴史を従来のように映画監督や作曲家といった作家研究や作品研究の視点から捉えるのではなく、映画館をとりまく音楽実践とその受容という点から考察し、映画と音楽の関係の変容過程を映画館、映画会社、撮影所、興行者、監督、観客などの関与する複合的な力学を踏まえて文化史的に考察した。また、これまで分析されてこなかった多様な一次資料(映画館プログラム、無声映画伴奏譜、SPレコード、自筆譜、琵琶台本)に光を当てることで、映画館の音楽文化が管弦楽合奏・和洋合奏、囃子鳴物、琵琶、浪曲、歌唱まで多様な音楽・音響実践の絡み合うなかで生起し、また各局面における映画史的な転換のなかで不断に遂げた再編成を具体的に明らかにした。本論文の明らかにした映画史と音楽史の動態は、たんに映画音楽の研究のみならず、洋楽受容史研究、映画興行研究、その国際比較研究をふくめ隣接する様々な分野の研究に新たな視座を開くものと考えられる。

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