本研究は、体系的な思考を目ざした日本近代の哲学者と評される和辻哲郎の根底にある独特の宗教的感性と「宗教」へのまなざしに注目し、和辻が仏教を中心とした思想を研究対象として扱い、どのように仏教哲学を再解釈したか、その発想の土台とも言うべき信念レベルの思想構造の解明に迫ることを目的とする。

倫理学者として著名な和辻が、生涯にわたり宗教に大いなる関心を寄せ、最晩年に至るまで執筆に取り組んでいたのが仏教哲学の思想史的展開であったことは、学術研究においてあまり着目されてこなかった。和辻の一連の代表的著作と従来の主な先行研究を通して、執筆者が抱いた疑問は次の二点である。一つは、研究者としての一生を通して和辻が挑んだ研究を眺めると、倫理学に関する体系的な著作の完成が和辻の研究上の着地点なのではなく、生涯を通じた彼の主たる課題は、インドから日本にいたる仏教思想の文化史的展開を探究することにあったのではないかという点。もう一つは、和辻にとって「空」はどのように解釈されたのかという問いである。和辻が「倫理」の根源に据えたのが「間柄」であり、その発想が生み出された背景に仏教で説かれてきた「空」の概念があったことはたびたび指摘されてきたが、近年では、和辻の『倫理学』の構想の出発点において「空」の発想はないとの主張もなされており、和辻倫理学と「空」概念との影響関係について見解が二分している。そこで、和辻には従来の仏教概念を再解釈した「空」のはたらきを人間存在の根源的な次元に据える志向性が内包されていたのではないかという仮説を立てた。上記の疑問を解明すべく本研究においては、先行研究で充分に考察されてこなかった和辻の仏教および宗教を中心とした研究を射程として、全7章を通じ、和辻が仏教哲学をどのように再解釈したかに注目し、和辻が晩年まで一貫して関心を持ち探究し続けた「仏教における哲学史的解明」の構想をめぐる考察を行った。

 第1章では、和辻を学際的な人文学研究者として捉えなおすことから、その視座に着目した。和辻は、表象化されたものから「ロゴスを読み取ること」を研究の基本的態度に据えており、それを汲み取る感性を活かして文化的特殊性の解明に迫ることを研究者としてのライフワークとしていた。和辻は、自ら「門外漢」を標榜しつつも、原始仏典をはじめとした経典や宗教書をあえて扱い、いわゆる「宗教」のロゴスを従来の教学・神学の立場とは別の角度・視点から研究した。宗教の実践面への関心は薄かった一方、「宗教」を捉える際には、教学や宗学からは距離を置いて宗教を客観視して比較するという、宗教学による分析と極めて近い手法をとっていた。和辻が捉えた「宗教」とは、永遠性を求める人間の探究が歴史的に文化的特殊性を帯びて表象されたものであるが、真理の全てが宗教として体現されたわけではない。研究者としての初期から晩年に至るまでの複数の論考から、和辻が仏教哲学史の探究を構想していたことを明らかにした。

 第2章では、和辻の「空」解釈の前提となる「自力に基づく否定の作用」について考察した。「他力が同時に深い自力である」という認識に基づき、神秘もあくまで人間の自己に内在するという発想を和辻は抱いており、個人を「宇宙の本質であると同時に唯一不二の特殊である事実」として捉えている人間観を有していた。宗教と真理の関係については、実体をもたない根源的真理からあらゆる「特殊」であるところの宗教が派生したとする独自の理解構造を和辻は初期の研究者時代から一貫して持ち続けていた。日本における「学問的な哲学史」の不在を痛感して以降、「宗教」の枠組みにはめ込まれた「仏教を開放する」ことを目指した「仏教における哲学史的解明」に、和辻が取り組もうと志していたことを示した。

 第3章においては、和辻による哲学的理解と真理解釈、および表象の捉え方の特徴に着目した。和辻にとっての「哲学」とは、「宗教」を含むあらゆる特殊化された現象・表象の中から真理として普遍的なものとして抽出する真理探求の営みとして、「宗教」よりも、より高次の次元に設定されている。和辻は、真理を求める自力の修行を「哲学」として、絶対他者に依拠する他力の修行を「宗教」の特徴として捉えていた。道元を手本とした「人が法を実現する」という真理への接近の仕方が、和辻の一連の仏教解釈の軸となり、和辻倫理学の根本的な発想と展開されていくことになる。

第4章では、「大乗非仏説」を容認する風潮が強くある時代において、和辻が近代仏教学の先行研究を批判的に考察する中で仏典を「理論的」「実践的」「文学的」の三種に類型化し、仏教の大乗的展開を肯定的に評価したことを取り上げた。仏典を作品として捉え、その作品の性格の分析に基づいて、初期仏教以降、アビダルマにおける理論的性格の強い経典から文学的な性質が特徴的な大乗仏典群までの一連の展開を仏典発展史の必然の構造と見なす発想は、仏教哲学史の連続性を捉えようとする和辻の志向性の現れでもあった。

第5章では、原始仏教の基本概念である無我・縁起・業と輪廻および空について、主に縁起説をめぐる伝統的な解釈との比較や、菩薩道や慈悲とも関連させた仏教概念解釈の和辻の独創性について考察した。和辻にとっては、生まれ変わりという科学的に説明不可能な非合理的なものを前提とする輪廻等の時間的な因果関係を想定するよりも、空間的な瞬時の条件の一致による生起と消滅という縁起の関係によって全ての現象が成り立っているという考え方に基づく相依相関的な解釈のほうが、学問的な批判に堪えうる論理的整合性がとれた見解であった。竜樹の哲学に基づく和辻独自の「空」の哲学的解釈によって、最終的には「仏」に勝る上位概念として「空」が据えられ、空観による道徳に基づく世界の実現を構想するに至っている。和辻がそこに、仏教に囲い込まれていた「空」を宗教から「解放」するという意義を見出していた可能性は高い。後に和辻が「間柄」のはたらきとして表現した発想の根源は、竜樹を通して学んだ「空」の運動性にあった。智慧の作用によって見いだされる真理の構造は、反省的思考をはたらかせた日常的な哲学実践のくり返しが、人間界の仮象的価値判断やそれに対する執着を放棄することにつながり、あらゆる存在のそれ自体としての尊さが現われ、「慈悲」の行為を体現できるとした。この構造に基づく実践は、決して仏教者でなくても、いずれの教団に属していなくても、自己の認識を通して自覚的に自力で行うことが可能である。宗教者でなくても励めるこうした倫理的な生き方の提唱を和辻が密かに目論んでいたことが、和辻の生前には未刊に終わった『仏教倫理思想史』の構想から推測できる。

第6章では、和辻が考える宗教をはじめとした日本文化の特殊性を主題として考察した。日本宗教の「重層性」に、和辻は日本人の「寛容性」をみていたが、思想の誤った「抽象化」に対して批判的であった和辻自身が、「寛容」が示す多様な側面を相対化させる思考の枠組みを徹底検証するには至れなかった。歴史的に顕われてきたすべての表象は普遍なるものの特殊な現れである以上、誰もが既存の「ロゴス」に対して、反省的思考をはたらかせて真摯に向き合う姿勢で迫れば真の「空」に近づけるという、和辻の「空」なる根源への志向性にも「一なるものを求めるエートス」がある。そのエートスと表裏一体にある「排他的」な感覚にまで、和辻の探究が及ぶことはなかった。思想を分析する上で、和辻が自身の無意識裡における「空」へのエートス的志向を相対化できていなかったのである。

 第7章では、和辻の晩年の論考「法華経の考察」を中心とした考察を行った。『法華経』を聖典視する信仰の念から切り離しても、その「作品としての価値の客観的な根拠」が導き出せるという意図のもと、和辻は『法華経』の再解釈を開始した。『法華経』の文面には単にプログラムとして根本的なロゴス(法)の存在が宣揚されたのみで、テクストの底に秘されたロゴスの理論的な解明はあえて後世に委ねられるように説かれていると和辻は見る。後代の竜樹や天台による『法華経』の理論的構造の分析や体系化は、そのロゴス解明プロジェクトの展開であり、経典の思想構造の解明における数世紀単位での史的な連続性を和辻は示唆していた。

和辻は、門外漢として、宗派的な見解にとらわれずに分析することの意義を強調し、歴史的に教義を囲い込んできた教団(宗派)の閉鎖性に対して挑戦的な態度で研究に挑んだ。仏典をはじめ、古典的な作品や哲学書に向き合う際の彼の研究スタイルは、先ずは伝統的な解釈から「離れる」という形で臨む姿勢にある。それは、いったん批判的な眼で捉えるという「否定」の修行たる反省的思考(「空」)を自らに課して、机上のテクストに展開された表象や現象に取り組む哲学的実践のようでもある。

ロゴスによって仏教の思想構造を把握することを「仏教哲学」と捉え、「空」に帰る反省的思考を繰り返す「哲学的実践」に修行のごとく取り組んだ和辻には、「宗教」という範疇に埋もれた「仏教」からその根底にある「哲学」を救い出すという意図があったように推測できる。和辻自身が、合理性を重んじる典型的な近代的知識人であり、自らも宗教に依らない哲学的な信念構造を必要として、伝統的な仏教思想の再解釈を試みることで編み出したのが、「空」のはたらきを根底に据えた人間の存在構造という想定だったのであろう。