本研究は、韓国における工芸に関する一般的な共通認識が、植民地期の朝鮮総督府の文化政策と深く関わっていたとみて、その概念が形成された過程を検証するものである。

今日の我々が「工芸」というフレームを用いてそれに該当するものを規定する一連の行為は、近代以降の現象であるということだ。だが、近代化が植民統治下で行われた韓国では、他の西欧からの概念もそうだったと言えるが、工芸の概念もやはり日本を経由して導入された。韓国で「공예(コンイェ)(工藝)」という言葉が一般に使われ始めたのは、植民地期のことである。ところが、用語とその概念が同時に導入されたその他の近代的諸制度の場合と比べると、工芸の場合には、韓国になかったものが入ってきたわけではなく、もともと存在していてそれぞれ別の名前で呼ばれていたいくつかのものを、まとめて一つの概念としてカテゴリー化し、新しい用語で呼び始めたことから問題が複雑になっていく。

そして、用語だけでなく、「工芸」という言葉が指す対象になるものも、韓国人自身ではなく日本によって先に選択された。以前は日常生活で使われていたものが収集の対象になったのである。現在、我々が朝鮮時代以前の「工芸」と称するものは、王室や貴族階級の調度品、あるいは儀礼品であったもので、鑑賞の対象とされてはいなかった。そのようなものが「工芸」に分類され、「美術」の歴史として扱われ始め、それらが持っていたもとの用途から離れて陳列され、民族の「伝統」として再構成された。また、このような過程で成立したカノンは、見習うべき規範かつ制作の模範となり、新たな制作に影響を及ぼす。

このような過程を導いた中心に朝鮮総督府があり、総督府の文化政策は韓国での「工芸」の成立に大きな影響を及ぼした。韓国が日本の植民地であった時期は、世界的にも近代国家の枠組みを確固とするための伝統文化が創造された時期であり、日本は非常に積極的に上からの文化政策を実施したのである。近代的な工芸概念もやはりこれらの政策との関連性の中で成立したものと考えられる。

 

本論文では、近代期に形成された工芸の概念を大きく「工業」、「古美術」、「伝承工芸」、「創作工芸」ととらえ、それぞれの概念が成立する過程を朝鮮総督府の文化政策との関連性を中心に探っていく。韓国で工芸という用語が日常的に使用され始めたのは、開港期に日本を介して用例が導入されてからである。「工芸」は富国強兵のための製造業かつ輸出品を意味しており(工業)、収集と鑑賞の対象(古美術)であると同時に、誇らしい過去であり、継承していくべき伝統(伝承工芸)である一方で、芸術の地位を具体化したもの(創作工芸)でもあった。

まず第一部では、本研究の対象となる時期の前史を述べ、植民地朝鮮の文化行政を概観する。第一章では、日本の植民地になる前の韓国の工芸について考察する。第二章では、朝鮮総督府の文化行政に対して説明する。

第二部では、古美術としての工芸概念に焦点をおき、朝鮮半島において工芸という伝統が再構成されカノンが成立する過程を探る。第三章では、古蹟調査事業の成果と文化財関連法令が整備される過程を考察し、日本が当時、朝鮮の工芸に対して持っていた認識の様相を見ることで、工芸という伝統とカノンが成り立つ過程を分析する。第四章では李王家博物館と総督府博物館を中心に、工芸の概念とカノンが宣伝された様相を考察する。

次に第三部では、同時代に製作されていた、伝承工芸と創作工芸を中心に、伝統の再現と変容に関して考察する。まず第五章では、総督府中央試験所と美術品製作所のほか、製作機関を中心に伝承工芸の様相を探る。最後に第六章では、朝鮮美術展覧会と李王家美術館を中心に創作工芸の様相を探る。純粋美術としての工芸概念が形成され、芸術家としての工芸家が誕生する過程を分析する。

 

韓国において「工芸」という用語は、併合以前からすでに使われており、この時期の工芸は、工業とも言い換えることができ、富国や殖産興業の概念として認識されていた。しかし、植民統治の基礎的研究として併合前から開始された古蹟調査事業により古蹟と遺物が発掘され、それらの保存のため制定された文化財に関する法令で用いられた「工芸」は、産業や工業とは全く異なる意味の「工芸」であった。1916年と1933年、二回の法令の制定を通じて提示された「工芸」は、時代をさかのぼる古い遺物の中でも技術が精巧で美しいもの、美術の模範となるものを意味した。これにより、「工芸」には古美術という概念が付与された。そして、工芸は美術と結合し、「美術工芸」あるいは「工芸美術」という用語が頻繁に使われるようになる。

明治日本での「美術工芸」という用語は、同時代の制作と古美術の両方を合わせもつものであった一方、朝鮮では、美術工芸という用語が入ってきた頃、古蹟調査事業が盛んに行われており、「朝鮮の美術工芸」と呼ばれる対象は、その古蹟調査で発掘された遺物であった。古蹟調査に続く法令の制定、博物館の設立など、上からの行政を通じた「美術工芸」という用語の導入は、勧業博覧会や学校、制作機関など同時代の工芸制作に関わる制度が整っていない状況で、「美術工芸=古美術」のような公式の形成につながった。

古蹟調査事業の成果が教授され、拡散される窓口の役割を果たしていたのは、大衆と直接触れるメディアとしての博物館であった。古蹟調査で発掘した遺物のうち、優れたものを選別し博物館に陳列する過程を通じて、伝統が再構成されカノンが形成された。その実体の大きな部分を占める、「古美術としての工芸」は欲望の対象になるが、誰でも簡単に手に入れられるものではなかった。したがってカノンが再現され始めた。朝鮮旅行が流行すると、工芸品は、観光記念商品として人気を集め、総督府の指導の下に中央試験所、美術品製作所、民間の製作者たちは螺鈿漆器や青磁を主に開発した。この過程で伝統が複製されるとともに、日本人の好みに合わせて伝統が変わることも多かった。

このような製作状況から、意図の善し悪しを離れて、伝統を継承しようとしたという意味で、「伝承工芸」と見ることができる。伝承工芸の特徴は、古典の再現と模倣から始まったものの、日本人の好みや同時代の美学などが反映され、結局は様式の変化が起こるということである。一方で、売るための工芸、つまり製作に着手する段階から経済的利益を追求したという点から見れば、製造業や産業としての工芸概念と無縁ではない。しかし、この当時の工芸産業は総督府レベルの行政的指導計画があったというよりは、朝鮮に進出していた日本人が内地の日本人を相手とした営利事業として企画したというレベルで理解した方がいい。

1932年、朝鮮美術展覧会に工芸部が開設され、工芸は純粋美術としての地位を獲得するようになると、「創作工芸」の概念が普及した。芸術としての工芸談論が形成され、工芸家は芸術家としてのアイデンティティを持つようになった。しかし、植民地の官展では、独創性と考案が要求される一方で、朝鮮色の表現が強く要求された。工芸という形式の枠組みで製作する以上、強力な権威を持つ伝統とカノンを無視することは難しい。要するに、鮮展に出品された作品も、地方色の表現という側面から見ると、伝統の再現として読み取れる。しかし、日本文化の流入による美学の変化や日本人審査員の好みに応じて、その伝統は変容した。

純粋美術としての工芸に対する認識や概念の成熟よりも公募の美術展覧会という制度が先に導入された状況では、創作の模範となる実際的な事例が必要であった。この意味で、1933年から始まった李王家美術館における日本近代美術の展示は、創作としての美術工芸概念の普及に大きな役割を果たした。李王家美術館には官展出身工芸家の厳選された作品が常設展示された。このような日本の現代工芸作品の精髄を創作の模範とさせると同時に、創作工芸の概念が受容されたのである。このような伝承工芸と創作工芸の成立により、朝鮮での美術工芸は古美術を超えて、同時代の製作にまで拡散されたと言えるだろう。

このように総督府の文化政策と絡み合いながら、産業としての工芸、古美術としての工芸、そしてその古美術を模倣し再現する伝承工芸、芸術を志向する創作工芸のような、様々な工芸概念が形成され定着していった。だが、この異なる概念は今日においても混在している。また、工芸概念の成立に絶対的な影響を及ぼした総督府が作り出した制度も、その枠組みはいまだ残存し続けている。文化財制度と博物館、美術館は、日本植民地時代に形成されたそのフレームをほぼそのまま維持しており、その制度によって成立した工芸のカノンも、その位相は変わっていない。工芸品といえばつい高麗青磁、螺鈿漆器のような古美術を思い浮かべるのである。国宝など文化財になったものは今日まで国家の表象とされている。観光記念品であった工芸は、解放後の米軍政と相次いだ独裁政権の下でも国家的次元での輸出商品として育成された。官展の朝鮮美術展覧会は、大韓民国美術展覧会につながり、1980年代初めまでは、その勢いを轟かせた。一方、植民地期には存在しなかったが、官展のアカデミズムを継承した美術大学は、工芸が美術の末子の席に置き、伝承工芸と創作工芸とをはっきり分離させ、両者の間の不均衡な関係、職人と工芸家の差異を深化させている。

以上のように、工芸に対するこのような認識の根源は日本植民地時代にある。それは自然に生じたものでも、ある日突然生まれたものでもなく、総督府の文化政策と絡み合って徐々に形成され定着した。韓国工芸の成立と変化の様相を考察した本研究が、現在韓国工芸が抱えている諸問題を解決していくために役立つことを期待する。