蘇軾詩論――反復される經驗と詩語

加納 留美子

本論文は、北宋の蘇軾(1037~1101、字は子瞻、號は東坡居士)の詩を、反復性という觀點から考察するものである。

蘇軾は浮沈激しい生涯を送り、ある研究者は「在朝―外任―貶居」の繰り返しだったと説いた。即ち、恰も一度目の展開をなぞるかの如く、朝廷での政治的對立に苦慮し、地方へ轉じて各地で知事を歴任し、しかし軋轢からは逃れられずに貶謫の憂き目に遭い、その後名譽を回復する機會を得たのである。

興味深いことに、その人生と連動するように、詩文においてもある種の反復性――過去詠んだ自作の表現や構成を踏襲し、新たに詩を詠む現象が看取される。本論ではこの行爲を「自作參照」と稱して、その具體的な用例やその效果、更には蘇軾が繰り返し詠むことに如何なる意義を見出したのかについて論じた。

第1章「徐州時代の蘇軾――『自作參照』の視角から」では、蘇軾の「自作參照」の結節點となった、徐州時代(1077~1079)に焦點を當てた。徐州着任後、蘇軾は暫くの間、弟の蘇轍と共に生活した。そして弟が出立した後に、決潰した黄河の濁流がこの地を襲う。蘇軾は知事として災害對策に盡力し、やがて水害を収束させると、皇帝から褒賞を賜る榮譽に與った。

この時期の體驗は、蘇軾の創作にも多大なる影響を齎した。具體的には、蘇轍と共に過ごす中で「夜雨對牀」實現への思いを再燃させ、自然の脅威に對應する中で「吾生如寄耳」に前向きな意味を見出し、水害を鎭靜化させたことで「人が最善を盡くせば、困難な狀況でも改善させることができる」との強い信念を獲得し、「天報論」の創出へと繋がったのである。黃河決潰と相前後して登場したこれらの表現及び理論は、生涯を通じて幾度となく「參照」され、蘇軾の後半生に於ける重要な指針となっていく。

第2章から第5章では、個別の主題の下、「自作參照」によって形成された作品群を檢討した。

 第2章「人衆者勝天、天定亦勝人――詩人が託し、詠った『天報論』」では、萬物を總べる「天」と人の關係を蘇軾が如何に捉えていたか、自然現象に吉兆を見出す手法と「天報論」の二つの觀點から探った。

貶謫や名譽回復という人生の轉換期に、蘇軾は出會った風景の中に超越的な存在を見出し、今後の幸いを言祝ぐ詩を繰り返し詠んだ。その根幹には、第1章で指摘した徐州での成功體驗から得た、「人が正しく在れば、窮苦に陥っても必ず天がその不遇を是正する」という「天」への強い信賴があった。蘇軾の信念は、戰國時代の申包胥の言葉「人衆者勝天、天定亦能勝人」によって肉付けされ、時間は掛かるが人の善・不善に應じて天が必ず正しく賞罰を下すという理論、「天報論」として實を結ぶ。やがて海南時代、「天報論」は自然現象に吉兆を見出す手法と合流し、自作次韻型の連作詩が誕生した。蘇軾は自身の夢に呼應した自然現象と出會って吉兆を見出し、「天報論」を根據に共に歸還する日が來ると説き、離れた弟の蘇轍を激勵したのである。

「天報論」の論の形成過程に、弟の蘇轍(1039~1112)との影響關係が認められる。考えを同じくする弟との繋がりが、特定表現の反復に繋がり、やがて詩の表現内容に變化と多樣性を生み出していったのだ。その最たる例に、續く第3章で論じた「夜雨對牀」がある。

第3章「『夜雨對牀』――蘇軾兄弟を繋いだもの」は、蘇軾と蘇轍が交わした「夜雨對牀」の約束に着目した。「夜雨對牀」は唐・韋應物の詩句「寧知風雪夜、復此對牀眠」を典故とする。靑年期の兄弟は、官僚試驗の準備に勵む中で韋詩を詠み、官途に在れば必然的に訪れる離別の時を思った。そこで兄弟は早く致仕して退隱の生活を送ろうと約束し、その理想的な將來の情景を「夜雨對牀」に象徴させたのである。兄弟獨自の意を付與された「夜雨對牀」詩は、その後苦樂を分かち合う相手の心に寄り添い、支える役割を果たしていった。貶謫や榮達といった折々の境遇と連動するように、約束に對する積極性に變化が見られるものの、兄弟は變わらず約束の實現を願っていた。

興味深いことに、「夜雨對牀」詩が詠まれなくなった嶺南・海南時代(1094~1100)、貶謫地にいながら、兄弟は依然として將來の再會を願い、「いつか子や孫を連れて歸還し、隱逸の暮らしを實現しよう」と呼びかけている。「夜雨對牀」と重なる情景を描きつつ、しかし「夜雨對牀」詩が詠まれなかったのは、靑年期と晩年期でイメージに變化が生じた爲と想像される。息子夫婦や孫に惠まれた老人にとって、兄弟二人で過ごす「夜雨對牀」では、もはや理想的將來を言い表せなくなっていた。代わりに、家族が仲睦まじい樣子を詠う詩が、言わば「夜雨對牀」詩の發展擴張型として登場したのだった。

 第4章「梅花の『魂』――詠梅詩における『自作參照』」では、蘇軾が最も重視した花、梅花を詠じた詩に着目した。蘇軾が梅花へ關心を寄せる原點となったのが、關山に咲く梅花との邂逅(1080)である。黃州貶謫を命ぜられて「斷魂」する程の苦惱を抱えていた蘇軾は、空山に凛然と咲く花と出會って鮮烈な印象を抱き、「梅花二首」を詠んだ。當時の記憶は、幾度となく回想されることとなる。

蘇軾の詠梅詩の特徴として、樣々な形での「自作參照」が指摘できる。とりわけ重要な意義を果たしたのが、漢字の多義性を存分に活かした、自作次韻型の連作詩である。「紅梅三首」では、同じ韻字を以て開花から凋落・結實までの過程を重層的に描いた。また、關山の梅花と出會った正月二十日を記念し、三年連續で詠まれた「正月二十日」三首では、元は蘇軾を形容するのに用いた「魂」が、毎年次韻する中で、梅花の裡に「魂」を見出すに到った。

そして惠州時代、蘇軾詠梅詩の集大成と呼ぶべき「松風亭」三首が誕生した。「正月二十日」詩と同じ「魂」韻を用いた自作次韻型の連作詩で、更に「梅花二首」の構成を「參照」し、梅花との交流を、第一詩では人の視點で、第二詩では花の視點で詠んだ。そして第三詩では新たな展開として、月へ昇る梅花の「魂」を描き、その永遠性を稱えている。このように蘇軾の詠梅詩は、「梅花二首」を原點に相互に關連しながら複雜且つ綿密な世界を形成した、一つの有機的な作品群だと指摘できる。

 第5章「蘇軾羅浮山詩考」では、十大洞天の一たる羅浮山を詠じた「羅浮山詩」に着目した。惠州貶謫の際(1094)、蘇軾は道中で接する嶺南の景物に進んで神秘性を見出していたが、その最たる例に羅浮山があった。十首を超える「羅浮山詩」の大半が惠州時代の初めに集中し、當初蘇軾にとって羅浮山が特別な存在であったことは想像に難くない。

羅浮山には幾つかの神秘的な傳承――他に先驅けて太陽を拝める石樓峰の傳承、及び仙界から漂來した浮山が元ある羅山と合體して羅浮山の名を得たという傳承――があった。蘇軾はこれらの傳承に關心を寄せると、積極的に「羅浮山詩」に取り入れた。時に詩の冒頭に掲げて羅浮山の神秘的イメージを作品全體に纏わせ、或いは傳承を介して遙か遠くの東嶽泰山や東海蓬萊と繋げてみせる。こうして、嶺南の山が如何に特別な存在か、繰り返し強調したのだ。

「羅浮山詩」の特徴として、山が意思を持つ存在として登場し、蘇軾と交流する樣子が描かれたことが指摘できる。羅浮山は、時に蘇軾の爲に特別な風景を誂え、時に神仙と化して蘇軾の家を訪問し、時に蘇軾の非禮を許して靈驗ある水を與えた。一方の蘇軾もまた、山の配慮を察すると、酒を獻じて返禮とした。これら一定の形式に則って雙方向的な交流を繰り返し描いた背景には、蘇軾のある狙いがあった。かの神聖な山との交流を通して、山に認められた自身の高潔さを誇り、以て惠州貶謫された自身を肯定しようとしたのである。

長年に亙って蘇軾の苦難を支えた「自作參照」は、しかし海南時代(1097~1100)に至って殆ど用いられなくなってしまう。

そこで第6章「海南時代の詩における風景描寫――詩人としての挑戰」では、梅花や羅浮山のような特定の景物への依據が困難となった時代に詠まれた風景描寫を考察した。この時期の傾向として、蘇軾は海南特有の奇觀や動植物を詠むよりも、寧ろ中原に通じる風景を積極的に見出していたことが指摘できる。例えば、海南に聳える山を具體的に語らず、唐突に中原の山と同等だと見做した。或いは、禽獸と雜居し南國の植物に圍まれる住居の實情を語らないことで、理想的な風景として演出した。そして「缺月」の仄かな光に照らし出された、螢や白露などの微細な景物が織り成す淸淨な風景を發見し、愛おしんだ。

黃州・惠州時代の作品には見られない、些か迂遠で屈折した手法が、「隨遇而安」と評される蘇軾と雖も、海南の風景を何の矯正もなく描くことが困難だったことを物語る。一方で、從來の「自作參照」を踏襲できずとも、蘇軾はこれまでの經驗を踏まえて詩を詠む效果、とりわけ特定の肯定的なイメージを繰り返し詠むことが、心身の安定を齎してくれると熟知していた。そこで蘇軾は、如何に風景を詠むか、對象に應じた模索を同時並行的に行ったのである。その過程で、時に中原との繋がりが聲高に強調され、時に抑制された月光の下に淸淨な風景が見出された。それぞれの手法で繰り返し詠まれることで、海南の風景は理想的なそれへと再構成されていき、ひいてはその地に身を置く自身を肯定することに繋がったのである。

屈折した手法を以てしてでも詠み續けたその姿に、南限の地の風景に挑んだ、詩人の強靭な意志が認められる。他の時代に較べ、海南時代の蘇軾詩には、詩人としての模索と奮闘の痕跡が樣々な形で表れている。その裡に、老境の詩人の更なる飛躍が讀み取れるのである。

 

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