六朝隋唐期における道教思想の整合化と三教交渉

李 龢書

 

道教史において、二世紀から八世紀に至る数百年間は、儀式や教理などの各分野において大きな発展と整合が遂げられた時代であった。本論文は、儒教・道教・仏教の三教交渉の歴史において六朝隋唐期の道教が成し遂げた整合化の過程を、思想的な面に焦点を当てつつ、その原動力となった諸要素及び歴史的意義とともに明らかにしたものである。本論文の目的及び先行研究を明示した序論と、本論文の纏め並びに今後の展望を述べた終章の後、本論文中心部を構成する七章の概要は以下の通りである。

 

第一章は造像記、正史と道教を信奉している士人の作品、及び道教経典などの性格が異なる史料を通して、北朝道教における至尊神の変化を明らかにし、北朝道教の歴史を描き出してみた。本章の考察により、北朝道教は、信仰共同体の組織(五斗米道を受け継ぐ組織)を基盤として南方道教経典の教理思想(主に古霊宝経系経典が唱える救済観と古上清経系経典が重視する個人の修行法)を吸収し、さらにこれに基づいて、唐代の整合的な道教の基礎となったこと、および北朝道教における至尊神は太上老君から元始天尊へという大きな変化が起きたことが明らかになった。本章は現在所見の六朝隋唐期における道教造像石刻資料計229例をまとめて「六朝隋唐道教造像一覧表」を作成したが、百余年にわたった北朝期の造像(84例)より、僅か三十八年で滅ぶ隋代での造像(66例)活動の方が活発であったことがわかり、道仏二教像の数が激減することから、隋代の道仏両教、およびその信者のアイデンティティは、南北朝期を経て徐々に強まっていく傾向があることを指摘した。この現象は、北朝道教が教主を確立することによって求心力を高めるために、信仰上の整合をはかり、次第にまとまった形となっていったことを示唆する。

 

第二章は、『弘明集』『広弘明集』に現れた仏教の道教批判の内容を手掛かりにして、その批判内容の類型と道教側の反応、及び後世に及ぼした影響について考察を行った。『弘明集』の全体を見渡せば、仏教側が当時の道教より、各方面で総力を挙げて対抗しようとしていた相手は、儒教であったことが分かる。それに対して、道教への態度は、仏教の優位性を主張しつつ、主に道教が重視する神仙術や儀礼に対して集中的に攻撃を加えるものであり、経典や教理に関してはそれほど問題にしていないことが看取できる。しかしながら、そのような状況は『広弘明集』に至って一変し、そこでは道教の存在を強く意識しながら、儀礼・経典・道教史などの全般にわたる批判が展開されている。『弘明集』『広弘明集』に見える道教批判は、当時の道教に多大な刺激を与えただけではなく、そこに現れる豊富な文献資料や批判論理及び批判の文体など、後世の護法者たちにとって指南書のような役割を果たしている。即ち、六朝隋唐期における仏教が道教に対する認識を深めつつ、同時に道教批判の内容と手法も徐々に定型化されていたことになる。本章は『弘明集』『広広弘明集』はその長い道仏交渉の歴史の中で、護法者のデータベースのような役割を担ったことを明らかにした。

 

第三章は六朝仏教の各歴史段階における道教教理に対する理解の相違について考察を試みた。考察の結果、梁代に編纂された『弘明集』の道教教理の理解は、従来の『老子』の言説ならびに長生成仙思想に止まり、また、『弘明集』は当時江南地域に流行した上清経や霊宝経など新興の道教経典に対しては、あくまで経典の名前だけを取り上げ批判したに過ぎないことが明らかとなった。その理由は、当時の仏教の主たる論敵である儒教に比べ、全体として道教教理がまだその水準には達していなかったかからだと推測できる。道教が教理の強化と整合を行う契機は、まさにこのような背景に潜んでいると言えよう。しかし、百余年後に作られた『広弘明集』では、道教教理が相手にされていなかった状況は一変した。六朝末期の道教は仏教の批判を受けつつ、仏教教理を吸収して道教教理に融合した結果、仏教にとって道教は無視できない一大勢力となった。仏教は道教の教理に反駁せざるを得ない状況に追い込まれたため、逆にその教理や経典を熟読して再度攻撃を行い、また新たな道仏の攻防が繰り返されるのである。こうした過程を経て、道教は仏教からの刺激や教理面での啓発を受けつつ、様々な模索をしながら徐々に自らの教理体系を構築したが、その過程において、頻繁に指摘される論理上の齟齬、すなわち教理上の瑕疵をどのように補完し克服するかは、六朝隋唐期道教の一貫した課題であった。

 

第四章は、教主不在という仏教の攻撃に対して、道教がいかにして克服し共通に認められる至尊神の信仰体系を作り出したかという過程を明らかにした。結論を簡潔にまとめれば以下のようになる。一、隋代までに成立した道教経典の中で、「三清」という用語が道教の天界を指す場合が多いにもかかわらず、「玉清天・上清天・太清天」から構成される天界説はまだ定着していなかった。また、共通した至尊神の信仰体系はいまだ見出すことができない。二、隋唐期の道教においては、元始天尊・太上道君・太上老君という至尊神の信仰体系が形成されたが、この三柱の神霊を明確に「三清」と呼んだ形跡は見当たない。一方、当時の文献資料及び出土文物によれば、元始天尊を強調し尊重する記述が非常に多いことが明らかになった。三、五代十国から南宋にかけての道教に関する資料からは、「三清」が明確に「天尊・道君・老君」のことを示す記述がよく見られ、各地の道観においても「三清」と名付ける建物が増加していったことが窺える。道教における三清の至尊神体系が、唐末五代期にその体系を構成する神格が徐々に確立し、遅くとも北宋以降には名実ともに「三清」の至尊神体系およびそれを示す用語が広まり定着した。

 

第二章、第三章で指摘したように、道教の修行法として、特に食餌錬丹の類いの伝統が偏見を持って見られ、常に非難の俎上に載せられたため、その打開策として思索されたのが、道性論と重玄思想である。第五章は隋代までのいわゆる重玄を説く諸子の『老子』注を中心に論考を進めた。検討した結果、現存する彼らの第一章「玄之又玄」に対する注釈はほとんど残っていない一方で、第十四章に関する注釈は比較的多く、そこには仏教三論学の論説を援用して、道教独自の教理の「三一」説を構築しようとする試みが確かに見られるものの、そこには重玄思想らしき記述は見当たらない。一方、『太玄真一本際経』の作者とされる隋代の道士である劉進喜が著した『老子』注にさえ、重玄思想を用いて解釈する痕跡が見られない。そこで、以上の考察結果を総合的に考えてみれば、重玄思想の始まりは、早くとも六世紀の南朝梁代までしか遡れないと指摘した。

 

第六章は敦煌に出土した各道経の写本の数において最も多い割合を占める『太玄真一本際経』と、高度な論理を取り上げて纏めた教理類書『道教義樞』という二つの隋唐代初期までの代表的な道教経典を考察対象とし、それぞれの経典が仏教教理、特に般若空観思想をいかに援用して自らの教理体系を構築しようと試みたのかについて考察を行った。考察を通して明らかとなったように、隋代唐初期の一部の道教経典においては、般若空観思想を道教教理体系に導入した結果、得道の境地への理解が深められたことにともない、修行法もそれまで重視された食餌錬丹のような肉体の不老不死を追求する固有の修行法とは全く異なる別の新しい修行体系、つまり心の解脱や思考の拘束から脱出することによって、道と合一するに至る境地を目指すという新たな形態の修行法が構築された。

 

第七章では、国のイデオロギーを代表する儒教の視点と儒道二教交渉史との視点から、祭祀儀礼を手掛かりにして儒道交渉の一面を検討した。六朝隋唐道教は儒教が前漢末期に確立した郊祀儀礼と漢帝国の行政文書系統とに基づき、道教自身の祭祀儀礼を創出したものの、儒教の祭祀伝統を「六天故氣」と位置づけ、これに対して道教の新たな「三天正法」の優位性を宣揚することで、儒教の影響から抜け出そうと企図した。また、五斗米道の祭酒や道士が、上章など独自の儀式を執り行う地位を確保して、儒教の介入を排除し、祭祀儀礼における道教の絶対的権力を行使することを保証したのである。一方、上章や出官といった重要な儀式では、儒教の郊祀儀礼における五方帝および五精帝に礼拝する部分だけを残し、郊祀儀礼で最も重要な祭祀対象の昊天上帝を取り除き、これに道教自身の至尊神を置き替えた。つまり、儒教が作り出した、至尊神の昊天上帝の周囲を五方帝がとりまくという祭祀の構図は実質上、道教がそのまま受け継ぐことになった。そして、時代が下るにつれ、一部の道教経典において五方帝君の地位や役割は次第に縮小し、儒教的色彩もそれにともなって希薄化し消えていった。このような視点から考えれば、道教の歴史はひたすら国家権力や儒教に屈服する歴史ではなく、道教なりのやり方で目立たないよう国家権力や儒教に抵抗し続け、そこから自らの独立性を確立しようとした壮絶な歴史であった、という理解も可能であろう。

 

以上のごとく、六朝隋唐期の道教は儒教と仏教の二大勢力に挟まれつつ、また教理思想の薄弱さという点が常に仏教から攻撃され、また何度も反乱を起こしたという歴史要因から、しばしば儒教ないし国家に危険視されていた。このように内外共に不利な状況に立たされた道教は、六朝隋唐の長い時期を経て仏教儒教に対抗しつつも、仏儒二教から思想や儀礼などの思想的材料を吸収し、各方面において様々な整合化を試みてきた。本論文各章の考察結果から、六朝隋唐道教は確かに教理思想、特に祭祀儀礼に関する領域において整合をはかって努力し、一定の成果を成し遂げたことは看取できる。

 

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