ソ連のコメコン政策と冷戦 ―資源・エネルギー問題を中心に―

藤沢 潤

 本論文は、資源・エネルギー問題をめぐる経済相互援助会議(コメコン)内の対立と協調に注目することによって、冷戦期ソ連・東欧関係の実態、ならびにエネルギー危機に対するソ連・東欧諸国の対応を、グローバルな経済関係の文脈のなかで検討したものである。

 

東西対立が安定した1960年代以降、ソ連・東欧諸国の指導部は経済水準の向上を重視するようになり、経済問題がソ連・東欧首脳会談における最重要議題の一つとなった。その際に、特に中心的な論点となったのが資源・エネルギー問題であった。多くの東欧諸国では石油やガスなどのエネルギー資源が不足していたことから、これらの国々はエネルギー集約的な重化学工業を発展させるために、ソ連からの資源供給に依存せざるをえなかった。スターリン死後の歴代ソ連指導部は、東欧諸国への資源輸出がこの地域の政治経済的安定を維持するために不可欠であることを理解していたが、同時に、東欧諸国の低品質な工業製品と引き換えに資源の輸出量を増やすことに消極的であった。そのため、ソ連・東欧首脳会談やコメコンの各種委員会では、天然資源の開発や供給をめぐり激しい議論が繰り返し展開されることになった。

 

もとより、先行研究でもこの問題の重要性は指摘されてきた。しかし、従来の研究は、二つの基本的な点で修正を必要とするものであった。第一に、これまでソ連のアーカイヴ史料が非公開であったため、コメコンやソ連・東欧経済関係に関する研究は進んでおらず、特にソ連側の動向については未解明の点が多く残されていた。これに対して本論文は、ドイツの文書館史料に加えて2014年に公開が始まったばかりのソ連側の公文書などを包括的に検討することで、資源・エネルギー問題を軸にソ連・東欧関係を実証的に解明した。その意味で、本論文は、世界的に見てもこの問題に関する数少ない本格的な歴史学的研究であるといえる。第二に、コメコンやソ連・東欧経済関係に関する従来の研究では、途上国との経済関係という論点がほとんど研究されてこなかった。しかし、1960年代以降、ソ連が東欧向け資源輸出のさらなる増大を防ぐために東欧諸国と途上国との経済関係の拡大を求めていたことから、資源をめぐるソ連・東欧関係はこれらの国々の途上国との関係と密接に連動していた。そこで、本論文は、中東の産油国をも含めたより広い視点からソ連・東欧関係を検討することで、この問題をグローバルな冷戦史に結びつけて検討した。

 

以下に本論文の概要を記す。

 

まず第一章では、第二次世界大戦終結直後から1960年代初頭までのソ連の対東ドイツ経済政策の変化を概観することで、エネルギー資源問題がソ連・東ドイツ間の重要課題として台頭してくるプロセスを解明した。大戦末期から、スターリンはドイツの強大化を防ぐと同時に自国の戦後復興を進めるためにドイツからの賠償調達を極めて重視していた。しかし、冷戦の勃発とともに占領下のドイツ市民に社会主義体制の魅力をアピールする必要が生じると、スターリン指導部も占領地域内の生活水準に配慮せざるをえなくなった。スターリン自身は戦後賠償の徴収を優先したことから、当初この変化は萌芽的なものにとどまったが、スターリンの死後に状況は変化した。フルシチョフは、「平和共存」下の体制間競争に勝利するという方針のもと、この競争の場として分断ドイツに注目し、東ドイツの経済発展のために石油をはじめとする資源の供給を拡大した。しかし、東ドイツのソ連資源に対する需要が急速に拡大すると、ソ連指導部は自国よりも豊かな東ドイツの要求に応じ続けることに消極的になり、東ドイツ指導部に対してフランスから独立を達成したばかりのアルジェリアなどから石油を輸入するよう要求した。ここに、ソ連の対東欧政策と対途上国政策が連動しながら展開されていくプロセスを確認することができる。

 

続く第二章では、1960年代から70年代初頭にかけてのコメコン経済統合の試みを分析した。60年代初頭にフルシチョフは域内経済統合を推進しようとしたが、この方針はルーマニアの強硬な反対に遭って失敗した。コメコンでは加盟国に事実上の拒否権が保証されていたため、一国でも改革に反対する国が存在する場合、その実現は非常に困難であったのである。この状況は、ブレジネフ期にはいっても変わらなかった。そこでブレジネフ指導部は、増大し続けるコメコン諸国の資源需要に応えつつ域内経済統合を推進するために、ソ連資源部門への共同投資プロジェクトを積極的に推進した。コメコン経済統合をめぐる加盟国間の調整が難しい状況では、ソ連の天然資源が統合の鍵を握っていたのである。

 

同時に、コメコン諸国のエネルギー資源需要の拡大に対処するために、コメコン内では途上国からの資源輸入をめぐる政策協調も進められた。そこで、第三章ではイラン、第四章ではイラクとの経済関係を中心に、中東地域からのエネルギー資源輸入をめぐるソ連の構想とコメコン域内の政策協調を分析した。

 

1960年代後半にソ連の経済機関は、イランからの石油輸入をめぐるコメコン諸国の政策協調を進めようとした。この問題をめぐるコメコン内の調整はほとんど進展しなかったものの、イラン縦断ガスパイプライン建設をめぐるソ連・イラン経済協力は一定の成功を収めた。第1パイプライン着工後に始まった第2パイプライン建設をめぐる交渉では、物資・機材等の供給などをめぐり交渉が一時難航したが、西ドイツ企業がソ連経由でイランからガスを輸入することに関心を示したことで合意が成立した。石油危機以後、エネルギー政策は冷戦の枠組みを超えて世界規模で展開されており、このイランガスをめぐるソ連・西ドイツ・イラン間の取引もその一つであった。しかし、パイプライン建設中にイラン革命が勃発したため、このプロジェクトは中止された。

 

第四章では、1960年代から石油危機にかけてのソ連・コメコン・イラク間経済関係を分析した。対イラク政策の大きな転機となったのが、1972年6月のイラク石油会社の国有化であった。国際石油資本と対決するイラク政府を支援するために、ソ連・東欧諸国はコメコンでイラクからの石油輸入やイラク石油産業への支援をめぐる政策協調を試みた。しかし、コメコン加盟国間の調整が進まないなか第一次石油危機が勃発し、石油をめぐる状況は一変することとなった。

 

第五章では、第一次石油危機のソ連・コメコン諸国への影響について検討した。石油危機の結果、石油価格が高騰し石油をめぐる西側企業との競争が激化すると、ソ連・東欧諸国は中東産油国との交渉で劣勢に立たされ、この地域におけるコメコン諸国の影響力は後退した。同時に、コメコン域内では、石油価格高騰をうけて域内価格決定方式の見直しをめぐる激しい議論が展開され、1975年以降は国際市場価格をより直接的に反映する新価格決定方式が適用されることになった。第一次石油危機は、従来考えられていた以上にソ連・コメコン諸国の資源調達政策に大きな影響を及ぼしたのである。

 

第六章では、コメコン諸国によるソ連資源開発への共同投資を軸に、1970年代後半から1980年代にかけてのソ連・東欧関係を検討した。石油危機の結果、中東諸国からエネルギー資源の輸入を拡大するという方針が頓挫すると、コメコン諸国は国内の石炭・褐炭の生産増大や原発建設と並んでソ連からのエネルギー資源のさらなる供給増大を強く要求するようになった。ソ連指導部は、コメコン諸国の共同投資によって自国資源の生産・輸送量を拡大することでこれに対応するという方針をとり、コメコン諸国と共同でソユーズ・ガスパイプラインなどを建設した。こうした域内経済協力の結果、コメコン諸国はかろうじてエネルギー資源を確保することに成功した。しかし、この方針も1980年代初頭までに限界を迎えることになった。1970年代後半にソ連の原油生産の成長率が鈍化すると、1980年代初頭にはソ連は東欧諸国への原油供給を削減せざるをえなくなった。これはただでさえ厳しかった東欧の経済状況をさらに悪化させた。

 

このように、ソ連からの資源供給を核にしたコメコン経済統合という方針は、1980年代初頭までに行き詰まっていた。この状況に対処するためにゴルバチョフは、コメコン改革を進めようとしたものの東ドイツやルーマニアなどの保守派諸国の反対にあい成功しなかった。

 

以上のように、本論文はエネルギー資源問題をめぐるソ連・東欧関係を、中東産油国との経済関係とも結びつけながら分析した。ソ連指導部は、体制間経済競争に勝利するというフルシチョフの夢が幻となったのちも、東欧圏の経済水準を維持・向上させるために、東ドイツをはじめとするコメコン諸国に資源を供給した。東欧諸国のエネルギー需要が急増すると、ソ連は新たな資源供給先としてイラクなどの中東産油国に注目し、コメコンにおける政策協調を通じてこれらの国々との経済関係を強化するよう東欧諸国に求めた。この政策は石油危機後に原油価格が高騰したことで破綻したが、東欧諸国が中東からの原油輸入を断念することができたのは、東欧諸国における石炭・褐炭生産の強行や原発建設と並んで、ソ連がエネルギー資源を安定的に供給し続けたからであった。このソ連の資源に依存することで、ソ連・東欧諸国は国内の非効率な基幹産業とともに「福祉国家」体制を維持することに成功した。ソ連のエネルギー資源は、文字通りソ連・東欧圏の「存立の支柱」であったのである。

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