中世足利氏の血統と権威

谷口 雄太

 

本論文は、中世後期(南北朝期~戦国期)の日本で、足利氏とその一族(足利一門)が尊貴な存在であると、室町幕府・足利将軍側のみならず、広く全国の大名・武士側からも思われていたことを明らかにし、かかる武家間における価値観の共有によって、戦国期においてもなお足利氏を中心とする秩序(「足利的秩序」)は維持されたと見通すものである。

内容は、足利一門のなかでも、とりわけ別格の家格を誇る吉良・石橋・渋川の三氏(「足利氏御一家」「足利御三家」)を具体的に検討する第Ⅰ部「足利氏御一家論」と、足利氏を頂点とし、足利一門を上位とする武家の儀礼的・血統的な秩序意識・序列認識の形成・維持・崩壊の各過程を総体的・理論的に考察する第Ⅱ部「足利的秩序論」からなる。

 

 以下、かかる課題を導いた先行研究、及び、研究現状を確認し、本論文の概要を述べる。

 室町幕府・足利将軍研究は分厚い蓄積があり、現在も日々進化していることは周知の通りで、近年は特に図書や雑誌・学会などで幕府・将軍は頻繁に議論の俎上に載せられている。そうした将軍(足利氏)を中心とする幕府支配のなかで、将軍一門(足利一門)が大きな役割を果たしたことは、既に指摘されて久しい。こうした足利一門を総体的に追究し、決定的に重要な成果を残したのが、小川信である。小川は、足利一門のなかでも、特に将軍に次ぐ政治的・軍事的権力をもって足利氏を支えた三管領(斯波氏・畠山氏・細川氏)を徹底して分析した。それは、氏自身もいうように、江戸幕府でいえば、大老・老中首座にあたる幕府きっての要職の追究である。

 他方で、幕府・将軍がかかる政治や軍事といった権力面以外、儀礼や血統といった権威面でも支えられていたというような研究も一定の蓄積があり、現在も日々深化しているところである。それは、「法」とは別個の領域の問題でありつつも、統治のなかでは法と並んで重要な役割を果たした「礼」の問題の追究ということができる。この「礼」は、日本を上から下まで貫き、国家を尊卑の原理によって統一するものとして、日本国家の求心的側面を考えるうえでは無視できない要素といえる。事実それは、分裂から統合への関心の移動と評される昨今の日本中世史研究において、「分裂する社会を統合する契機」を解明するうえでの貴重な鍵として、俄かに注目が集まっており、それゆえ、幕府・将軍のもつ礼的側面(権威面)の追究は、法的側面(権力面)の考究と並んで重要なテーマとなりつつある。けれども、後者に比して、前者は未だ大幅な研究の立ち遅れが存在しているといわざるを得ず、権威面の追究は焦眉の課題となっている。

 

 以上の諸点を踏まえれば、幕府・将軍の藩屏となった足利一門について、小川とは別の角度・側面からのアプローチも必要となってくるだろう。すなわち、足利一門のなかでも、特に将軍に次ぐ儀礼的・血統的権威をもって足利氏を支えた「足利氏御一家」の分析である。それは、江戸幕府でいえば、徳川御三家にあたるものの追究である。近世において徳川将軍を権力面で支えた大老・老中のみならず、権威面で支えた御三家の研究が必須であるのと同様、中世において足利将軍を権力面で支えた三管領のみならず、権威面で支えた御一家の研究が不可欠と考える所以である。

 この御一家とは、具体的には吉良・石橋・渋川の三氏のことを指している。だが、これまでの足利氏・足利一門研究は、権力面からのアプローチが中心であったため、権力的に強大ではない御一家についての分析は不足していたといわざるを得ない。確かに権力面から見れば弱小だが、権威面から見れば三管領と同等以上の家格を有した者が御一家である。かかる存在を無視してよいとは思われない。

では、御一家はいつ幕府内部に誕生したのか。また、なぜ吉良・石橋・渋川の三氏だけが特別だったのか。さらに、彼らは戦国期には都を離れて各地で生き残ることとなるが、戦国大名たちはこの三氏をどう見ていたのか。本論文第Ⅰ部は、数ある足利一門のうち、どうして吉良・石橋・渋川の三氏のみが御一家の地歩を築けたのか、この疑問を解きほぐすべく、まず吉良氏(第一章・第二章)、次いで石橋氏(第三章)・渋川氏(第四章)の個別的研究を行い、そのうえで御一家の総論を展開する(第五章)。そして、御一家全員と深く関係するとともに、本来御一家の資格も有していた三管領筆頭斯波氏についても検討することで、第Ⅰ部の議論を補完しつつ、御一家と三管領の比較も行う(付論一)。かかる分析を通して、戦国期にいたってもなお、御一家は武家の貴種であると、戦国大名らからも見られていたことが、具体的に浮かび上がってくるだろう。

なお、足利氏を中心とする中世後期の武家社会を考えるうえでは、京都足利氏(将軍)=西国の分析だけでは不十分である。東国には関東足利氏(公方)を頂点として、西国からは自律的な独自の秩序が存在した。かかる研究は分厚い蓄積があり、現在も日々進化していることは周知の通りで、近年は特に東西の枠を超えた列島横断的な分析が進みつつあり、この視角は継承すべきものである。本論文で扱う御一家も、京都足利氏・関東足利氏のもとで、東西に存在した。それゆえ、関東吉良氏を第一章で、関東渋川氏を第四章の一部で、関東御一家を第五章の一部で取り上げる(なお、石橋氏は関東にはいない)。

 

 さて、こうした「御一家」だが、史料の収集を進めていくと、この言葉には二つの異なる意味合いが存在していたことに気付く。一つは「狭義の御一家」ともいうべきもので、本論文第Ⅰ部で検討した吉良・石橋・渋川の三氏のみを指す使われ方、もう一つは「広義の御一家」ともいうべきもので、足利一門全体を指す使われ方である。同じ御一家という史料用語であっても、意味する研究概念は異なっていたのである。この点、既存の研究では混用されてきたが、分析のうえでは腑分けする必要のあることから、以後、前者は「足利御三家」、後者は「足利一門」と呼ぶこととする。

 では、その足利一門とは誰のことか。実は、研究者によってその概念にはズレが見られる。要するに、足利一門の重要性が夙に指摘される一方で、その範囲という最も基本的な事項すらこれまできちんと検討されてこなかったのである。そこで、本論文第Ⅱ部は、足利一門の定義を中世史料に基づき徹底して確定させる作業からはじめる。そのうえで、当時(中世後期)、足利一門であることのもつ意味を明らかにし、武家であれば足利一門というだけで儀礼的に優遇されたこと、かかる社会では足利一門になることも価値を帯び、数々の武家が足利一門化を図ったことを指摘する。そして、足利氏を頂点とし、足利御三家を最上位とし、足利一門を上位とする中世後期武家の儀礼的・血統的秩序を「足利的秩序」と概念化し、この秩序が崩壊するにいたるまでの過程を動態的に見通す(第六章)。次いで、かかる見通しを補強すべく、中世後期の島津氏が源頼朝の末裔と称したことを足利一門化行為と捉えた論考を付す(付論二)。

続けて、主に足利氏側の史料に依拠した第六章に対し、広く全国の大名・武士側の史料を博捜して彼らもまた足利的秩序を意識していたことを解明し、これによって武家の支配者・被支配者双方が「足利の血統の優位」という認識を共有していた事実を指摘する(第七章)。以上のように足利御三家や足利一門が儀礼的に優越するのは、結局、足利氏が尊貴だと思われていたからにほかならない。当時の言葉を用いれば、「当御代ノ御一家にて御渡候程ニ」・「当御代之御事にて候之間」だからである。これは、南九州の一武士が書いたもので、第七章で重要な役割を果たすとともに、第八章への橋渡しともなる頗る貴重なものであるため、史料的に分析を加えた(付論三)。

このように、足利御三家・足利一門の権威は、結局、足利氏の権威によって保たれていたのであるから、最後に検討すべきは、この足利氏の権威そのものについてである。本来鎌倉幕府の一御家人として相対的な尊貴性しかもたなかったはずの足利氏は、いかに絶対的な貴種性を獲得し、なぜ戦国期になっても「武家の王」として認められるにいたったのか、その権威獲得と存続のプロセスを追究する(第八章)。そのうえで、足利氏を頂点とし、足利御三家を最上位とし、足利一門を上位とする秩序意識・序列認識(足利的秩序)の形成・維持・崩壊の各過程について最終的に議論を整理し(第九章)、おわりに、本論文全体の結論と展望を示すこととしたい(終章)。

 

以上の検討を通して、戦国期に入り権力的には後退してしまったはずの足利氏・足利御三家・足利一門が、なおもその存在(権威)を認められた背景には、中世後期の大名・武士が「足利的秩序」という秩序意識・序列認識を共有していた事実が想定されること、そして、かかる価値観の共有によって、足利氏を中心とする秩序は維持されたことを見通したい。

近年、戦国期における将軍存立の理由を将軍―大名間の「共通利益」に求める見解が出されている。けれども、それでは将軍の存立は説明できたとしても、将軍以外の足利氏(公方や御連枝)、さらには足利御三家や足利一門の存立は説明しがたい(彼らには将軍ほどの実利性・有用性を見出せない)。そうではなく、戦国期における足利氏存立の理由は足利氏―武家間の「共通価値」にこそ求めるべきではないか。

中世には、求心的側面と分裂的側面の両面が存在した。とりわけ戦国期は権力の分散・多極化が決定的となった時代である。そうしたなかで、列島が無秩序化はせず、まがりなりにも足利氏を中心として秩序・統合が維持されたのは、前代以来培われてきた武家間の共通価値が機能したからではなかったかと結論したい。

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