1880年代に始まった官吏任用方法の制度化はいかにして進められたのか。また、官吏任用の実態はどのようなものであったか。本論文は、明治立憲制の導入と同時に行われた官吏任用制度の成立過程を、構想や制度設計のみならず、その運用や慣行の形成といった面にも注目しながら明らかにしようとするものである。

 第一部では行政官および司法官の任用について検討した。第一章では、東京大学時代における法学部、文学部卒業生の就職先や待遇等について実証的に分析し、法学部および文学部の卒業生の多くは官途に就いたことを明らかにした。法学部の場合、もっとも人数が多かったのは司法部に就職した者であり、文学部の場合は留学を経て教員等になった者が多かった。これらと比較すると行政官庁に就職した卒業生はやや少数であったが、一定の数を占めていた。大学卒業生が官庁に就職した際の最初の俸給は月額50円程度であり、御用掛准判任等として数年間勤務してから奏任官本官に任官した。これは後の時代と比較しても決して低い待遇ではなかった。また本章でははじめて、この時期の給費制度の実態を解明した。1883年3月の給費規則の改正により、補助給費を受けた学生は文部省や大学によって就職先を制限されることとなり、多くの補助給費生を官途に進ませる一因となった。

第二章では、「判事登用規則」の運用の実態に注目し、判事登用試験に合格した者の初任時の待遇や本官任用時の官等と俸給を分析した。「判事登用規則」が施行されていた時期の前半における司法省の方針は司法官の精選であった。したがって判事登用試験においても試験は厳格に実施され、合格者は少数であった。また、1886年5月の「裁判所官制」では司法官の最下等は奏任五等とされて地位の向上が図られた。しかしながら、こうした方針は地方裁判所に合議制を導入する目算が大きくなったことや、司法官任用の主導権を司法省から内閣に移される可能性が高くなったことを受けて転換された。その結果として現出したのが1887年の判事登用試験合格者の大量輩出であり、司法官の大増員であった。しかし、この増員は予算の裏付けを欠いており、司法省はやがて「裁判所官制」を改正して司法官の最下等を奏任六等に引き下げざるを得なくなった。ただし、この引下げによって司法官の地位が一律に引き下げられた訳ではなかった。この大増員の時期に新たに任用された者の俸給額には、出身校や判事登用試験の成績によって大きな幅が設けられていた。司法省は個々の司法官の能力に応じて適宜進級に差を設け、事態に対応していったのである。

第三章では「文官試験試補及見習規則」に基づく官吏任用が行われていた時期の行政官と司法官の任用について考察した。成立当初の帝国大学では貸費制度によって学生の経済生活を支えようと試みたが、これに応じて行政官の貸費生をリクルートした行政官庁は皆無であった。一方、司法省は積極的にこれに応じ、貸費生を確保することで司法官の大増員を図った。また、司法省はいくつかの私立法律学校に対して補助金を支給し、司法官の供給源として位置付けようとした。だが、1890年8月に公布された「判事検事官等俸給令」によって司法官試補の俸給が300円以下に引き下げられたことから、法科大学の司法省貸費生は奉職義務解除を要求し、その結果、貸費生の新規募集は停止された。もっとも、この俸給引き下げは司法官を行政官の劣位に置く発想から行われたものではない。大学卒業生及び判事検事登用試験の合格者は、司法官試補として一律に年俸300円を支給され、その後すべて奏任六等上級俸の判事、検事に任官することとされた。こうした変更が行われた理由は、先任順序による進級を厳密に機能させ、司法官の独立を守るためであった。しかし、司法官試補の俸給一律化はこれまで優遇されていた大学卒業生にとっては待遇の引き下げを意味した。一方、行政官の試補の俸給は以前と変わらず、卒業試験の成績によって格差が設けられていたため、以後、帝国大学法科大学の卒業生は行政官への道を優先的に選択する慣行が形成されていくこととなった。

 続く第二部では技術官の任用について検討した。第四章では1886年の帝国大学成立以前における東京大学理学部および工部大学校卒業生の就職先や待遇等について実証的な分析を試みた。東京大学理学部卒業生149名のうち卒業間もない時期の動向が判明した115名の半数以上、61名が東京大学や府県の教員等教育関係の職に就いていた。東京大学やその他の文部省直轄学校に就職した者の初任給は月俸50円程度であったが、府県の師範学校および中学校教員の俸給はおおむね高く、月俸60円から70円、75円を支給される例も存在した。一方、諸官庁に入った卒業生は御用掛准判任や雇となり、おおむね月俸50円前後を給与された。これら卒業生のうち1886年2月から4月にかけての官制改正以前に奏任官本官に任じられた者は少数に留まったが、官制改正以降は多くの者が奏任官に任じられた。このような状況は本論文第一章で分析した東京大学法学部および文学部卒業生とほぼ同一であると見てよいだろう。また、第一章と同様に理学部卒業生の中で給費を受けた学生について調査した。給費を受けていたことが確認できた卒業生は149名中126名にも及んだ。また、工部大学校卒業生211名のうち卒業間もない時期の動向が判明した186名の約三分の二にあたる125名が工部省に就職していた。彼らの俸給は東京大学理学部卒業生と比較すると低く、ほとんどが月俸30円から25円の技手とされた。しかし一方で工部省以外の官庁等に就職する者も少なからず存在した。彼らの多くは私費生の増加や工部大学校の方針転換によって就職時の制限が緩和された1883年以降の卒業生であり、海軍省や府県、内務省土木局や大蔵省の技術者となった。これら1883年以降、他省に就職した卒業生の中には、これまでの30円以内という制限を超えて40円、50円といった月俸を支給される者も出てきた。このような者の多くは土木学科卒業生であった。

第五章では1886年の帝国大学の成立や、翌年の「文官試験試補及見習規則」の公布が、技術官の任用に与えた影響について考察するため、帝国大学の奨学制度、資格任用制度運用の実態、そして卒業生の進路について検討した。その結果、以下のことが明らかになった。

 第一点は帝国大学の奨学制度の実態についての解明である。東京大学と工部大学校が合併することで成立した帝国大学であったが、予算の裏付けを欠いており、これまで東京大学において学生に支給されていた給費は廃止された。また工部大学校でも官費生の制度が廃止され、1884年以降の卒業生はほとんどが私費生となっていた。こうした事態に対処するため、帝国大学は貸費や奨学貸費、給費といった様々な奨学制度を用意した。これらのうち、貸費生に奉職義務を課すという貸費制度の仕組みは十全には機能しなかったが、奨学貸費や給費制度とともに経済的に困難な学生を支える上で一定の役割を果たした。これらの奨学制度を利用した者は、工科大学では卒業生170名中97名、理科大学では卒業生49名中25名に達した。また内務省土木局の場合、他官庁や民間の会社との技術者をめぐる競合を制し、技術者を確保する上で、貸費の存在は一定の役割を果たしたと言えよう。

 第二点は、技術官における資格任用制度導入の経緯とその運用の実態の解明である。資格任用制度の導入に伴い、銓衡任用が行われることになった技術官等の位置付けが、一般の文官よりも低くなるのではないかとの危惧は、制度の施行前からすでに存在していた。この問題を解決するために導入されたのが、技師の実務練習期間として新たに設置された技師試補であった。しかし、技師試補を経てから技師に任官させる制度は技師の補充等の障害と見なされるようになり、1891年には技師試補を経ずに技師に任用することが認められることとなった。

 第三点は、1886年から1892年までの間における帝国大学工科大学および理科大学卒業生の進路についての実証分析である。工科大学卒業生の多くは官途に就き、資格任用制度導入後、奏任待遇の技師試補として任官し、年俸700円から500円を給与されることが多かった。また理科大学卒業生の多くは教育・研究関係に進む者が多くを占めた。彼ら帝国大学卒業生は依然として官途に就く者が多かったが、帝国大学成立前の時代と比較して注目すべきは民間に就職した者が大幅に増加した点である。理科大学卒業生の中から民間に就職した者は確認できなかったが、工科大学卒業生の中からは確認できた者だけでも44名が民間の会社等に就職した。資格任用制度が導入された1880年代後半から90年代前半は、理工系の高等教育機関出身者の活動の場が官界から民間の実業界へと大きく広がり、待遇も大幅に改善されるという希望に満ちた時代であった。

 

以上、本論文での検討からすれば、近代日本の官吏任用制度は、伊藤博文等の制度設計者によって周到に用意され整備されていった結果成立した、と単純に言えるようなものではない。官吏任用制度は常にその時々の政治的、経済的、社会的な事情を反映して弥縫的な修正が行われ、本来の意図とは異なる運用がなされていった。1899年の文官任用令の改正によって行政官優位の官吏任用制度は確立されたが、このような結果はあらかじめ想定されていたものではなく、明治政府もここに向かって直線的に突き進んでいったわけではない。1890年代前半までの官吏任用制度は多様な可能性を孕みつつ、そのかたちを徐々に整えていったのである。(3978字)