本論文では、筆者の現地調査により得られたデータに基づいて、満洲・シベ語の現代方言(三家子方言・黒河方言・シベ方言)の音韻論を記述し、古典語と現代方言の音韻論の比較に関する考察を行った。

 

第1章と第2章はそれぞれ満洲・シベ語の概要と形態論の概説である。第1章では、まず満洲・シベ語の系統と各変種の使用地域・歴史・現状・先行研究を紹介した上で、各時代の方言の分布と変遷をまとめ、最後に、筆者が調査したインフォーマントについて紹介した。第2章では、接語、屈折接辞、語形成(派生・複合・重複)、および言語接触による借用語・語形成・意味範囲の変化について概説した。

 

第3章は現代方言の分節的音韻論に関する考察である。第3章の前半では、現代方言の音素と異音について考察した。まず三家子方言、黒河方言、シベ方言のそれぞれの音素・異音と、方言間における異音の分布の違いについて考察した上で、音素設定上の次のような4つの問題点について考察した。(i) いわゆる二重母音は「母音+母音」か、それとも「母音+子音」か、(ii) シベ方言の [jɪ] の音韻表記をyeとyiのどちらにするか、(iii) シベ方言の語頭のyu [jy] とuy [ʔy] の音素設定の問題、(iv) 音声的に現れない高母音の音韻表記の問題である。

 

第3章の後半では、現代方言の音素配列論について考察した。(i) 語における一般的な音素配列の制約、(ii) 音節構造の制約、(iii) 音節境界を跨ぐ場合の子音連続の制約、という3点に分けて考察を行った。(i) では、現代方言の語頭・語末に現れ得ない音素を挙げた上で、現代方言の全体・語頭・語中・語末における阻害音音素・共鳴音音素・母音音素の出現頻度をまとめた。(ii) に関しては、現代方言の音節頭と音節末尾における子音音素の数の制約を考察した上で、V1C1C2V2 (C2 = w/y) における音節の切れ目などの問題について考察した。また、各現代方言について、各音節数ごとに語における音節の種類による出現頻度の違いをまとめた上で、頻度の高い音節のパターンについての考察を試みた。(iii) に関しては、音節境界を跨ぐ場合の子音連続の可能性をまとめた上で、どのような子音連続が存在しないかについて考察した。特に三家子方言と黒河方言では「阻害音+共鳴音」があり得るが、シベ方言では1例の借用語を除いてあり得ないという方言間の差異を明らかにした。

 

第4章は現代方言の超分節的音韻論に関する考察である。第4章の前半では、現代方言の強勢について考察した。まず強勢音節のピッチの違いに注目することにより、強勢を、高いピッチの強勢と低いピッチの強勢に分類した。次に、強勢の位置について考察した。最後に、強勢の数の違いによる複合語(1つの語)と句(2つの語)の違い、および形態論的語と音韻論的語の違いについて考察した。

 

第4章の後半では、現代方言の母音調和について考察した。まず先行研究で提案されている母音調和の研究の枠組み(母音調和とmetaphonyの違い、および母音調和の分類)を紹介した。次に、共起と同化の分析を通じて、現代方言における母音のグルーピングの可能性を考察した。この考察から、従来から現代方言において母音調和と見なされてきた現象は、典型的な母音調和とはかなり異なる性質を示しているということを明らかにした。特に、三家子方言とシベ方言には円唇性に係わる同化があるが、同化の範囲が隣接音節のみにあるため、母音調和よりmetaphonyに近い性質を示している。

 

第5章は古典語と現代方言の分節的音韻論の比較に関する考察である。第5章の前半では、古典語と現代方言の比較に基づいて、子音の変化・母音の変化・重音脱落・音位転換などについて考察した。以下が主な考察結果である。

(1) 古典語と現代方言における軟口蓋音と口蓋垂音の分布について検討することで、次のような条件においては弁別があることがわかった。(i) 低母音を含まない語幹に後続する完了接辞において、(ii) 語幹の母音の変化が先行する場合の完了接辞において、(iii) 語根内において。そのうち、(iii) に関しては、さらに4つの環境を設定し、環境の変化によって軟口蓋音と口蓋垂音のいずれが現れるかを考察した。

(2) 硬口蓋音とそれに対応する音について考察することで、満洲・シベ語には口蓋化の例の他に、逆口蓋化(硬口蓋音が非硬口蓋音になる変化)の例もあることを明らかにした。古典語と一部の現代方言の同源語には、ciとkiの対応と、jiとgiの対応を示す例がある。ツングース諸語における同源語ではそれぞれtiとdiが対応することを踏まえ、*ti > ci > kiと *di > ji > giのように先に口蓋化が起こり、次にまた逆口蓋化が起こったという可能性を指摘した。

(3) ŋとi/yの調音点の同化について考察することで、次のようなことを明らかにした。ŋとi/yは、連続する場合に調音点の同化が起こり得るが、方言によって同化の方向が異なる場合がある。北京方言では、ŋの調音点(軟口蓋)がi/yの調音点(硬口蓋)に同化されるが、三家子方言とシベ方言では、i/yVの調音点(硬口蓋)がŋの調音点(軟口蓋)に同化される。一方、黒河方言ではこのような同化が起こっていない。

(4) 語頭におけるyの挿入について考察することで、iで始まる古典語の語と同源の関係にあるシベ方言の語の語頭にyが挿入されるか否かは、古典語の語に歯擦音があるかないかに関係がある可能性を指摘した。

(5) 母音の円唇性の同化について考察することで、 (i) a…uは黒河方言では規則的に逆行円唇同化が起こるが、他の方言では起こらない場合もある、(ii) uとaの間の軟口蓋・口蓋垂子音が唇音化される場合があることを指摘した。

(6) siとšeの対応について考察することで、si > šeの有無と規則性は、方言によって、また、siの位置によって異なることを明らかにした。

(7) 母音の脱落について考察することで、屈折接辞の前における高母音の脱落の可能性と、共鳴音の前における高母音の脱落の可能性は、方言によって異なることを明らかにした。

(8) 音位転換について考察することで、音位転換は音素配列論的制約に関係する場合と、品詞に関係する場合があるということを明らかにした。

 

第5章の後半では、古典語と現代方言を対応させつつ、音素配列の違いについて、(i) 語における一般的な音素配列の制約の違い、(ii) 音節構造の制約の違い、(iii) 音節境界を跨ぐ場合の子音連続の制約の違い、という3点に分けて考察を行ったが、特に (ii) と (iii) に重点を置いて論じた。(ii) に関しては、音節末尾における共鳴音の連続の変化の考察を通じて、古典語の「半母音+鼻音」の音節末尾は三家子方言・黒河方言・シベ方言では消失したか、または減少する傾向にあるが、古典語に見られない「半母音+流音」の音節末尾はシベ方言に存在することを明らかにした。(iii) に関しては、音節境界を跨ぐ「阻害音+共鳴音」は古典語にはほとんどないが、現代の三家子方言と黒河方言に観察される一方、音節境界を跨ぐ「n+軟口蓋・口蓋垂子音」は古典語にはほとんどないが、現代のシベ方言には見られることを指摘した。

 

第6章は古典語と現代方言の超分節的音韻論の比較に関する考察である。第6章の前半では、現代方言における低いピッチを伴う強勢を生じさせる要因について考察した。その結果、(i) 聞こえ度の差異による強勢の移動、(ii) 低いピッチで始まる音節の次の音節の1つの子音への融合、という2つの要因を明らかにした。

 

第6章の後半では、古典語よりも早い段階(pre-古典語)から古典語を経て現代方言に至るまで、母音調和がどのような変遷を経たかについて考察した。この考察によって、pre-古典語の [±RTR] の母音調和は、現代方言に至るまでの過程で次第にグルーピングが崩れてきたこと、および現代の三家子方言とシベ方言には体系的な円唇性のmetaphonyが出現していることを明らかにした。また、女真語、満洲・シベ語の古典語、現代方言を比較した結果、母音調和の特性を持つ接辞は、金国の女真語から明国の女真語および満洲・シベ語の古典語を経て現代方言に至るまで、次第にその数が減る傾向にあることを明らかにした。

 

第7章では全体をまとめた上で、今後の課題について言及した。