本論文では、日本中世武家政権下における鎌倉・京の顕密寺社の組織や、別当職・院主職という寺社の首長の変遷過程に注目しながら、中世仏教の東西それぞれの中心地であった鎌倉・京の仏教界の関係がどのように変化していったのかを検討したものである。

 このテーマに取り組むために本稿では、序章「本稿の視角と課題」において、以下のような3つの課題を設定した。

 まず第1に、南北朝期以降の鎌倉顕密寺社の検討を行うことである。当該期の東国武家政権たる鎌倉府政権下における寺社研究は、鎌倉幕府・室町幕府政権下におけるそれに比して遅れているのが、現状である。そこで本稿では、鎌倉の勝長寿院と鶴岡八幡宮寺という東国武家政権下で特に重要視された二つの寺院の鎌倉後期から室町期の展開を検討し、中世後期の鎌倉の顕密仏教界の実態に迫ることを目指した。

 第2に、室町幕府と密接な関係を築いた三宝院をはじめとする、醍醐寺の諸院家の動向を検討することである。醍醐寺の諸院家に特に注目する理由は、醍醐寺は数ある畿内顕密寺社の中でも、多くの寺領を東国に有し、東国の寺社別当職も多く兼帯していたからである。さらに、醍醐寺組織内部の問題についても未解明な点が多く存在する。東西の仏教界の実態を把握するための前提作業として、双方に強い影響力を有した醍醐寺の諸院家についての基礎的な事実の解明を目指した。

 第3に、東国醍醐寺領を中心に展開された、東国に存在する畿内寺社領、および畿内在住僧が保持する東国寺社別当職をめぐる僧俗の東西対立について検討することである。畿内在住僧が、東国寺社別当職へのこだわりを持ち続けた理由や、寺社別当職相論の頻発が東西の仏教界にどのような影響を与えたのかについては、未解明な点が多い。本稿では、この課題に取り組むことで、東西の仏教界の関係の変化について究明することを目指した。

 以上の課題設定のもと、本論は3部10章で構成される。

第1部「鎌倉顕密寺社と武家政権」では、鎌倉の勝長寿院・鶴岡八幡宮寺と東国武家政権(鎌倉幕府・鎌倉府)の関係について考察した。

第1章「『吾妻鏡』以後の鎌倉勝長寿院と東国武家政権‐摂家・宮将軍子弟僧の位置づけ‐」では、鎌倉後期以降の勝長寿院について、別当の動向を軸に検討した。その結果、勝長寿院では、13世紀末以降鎌倉将軍子弟僧の別当職就任が相次ぎ、別当の貴種性は東国一であったが、14世紀末以降になると別当の鎌倉不在や、その貴種性ゆえに鎌倉公方から警戒されその力が衰退していくと見通した。

第2章「室町期日光山(勝長寿院)別当考」では、勝長寿院別当が兼帯する下野日光山に伝わる『輪王寺文書』等を用いて、室町期の勝長寿院別当の動向を東国の戦乱と関連づけながら検討した。また第3章「『輪王寺文書』における「上様」の語義について」では、中世の『輪王寺文書』中にみえる「上様」という言葉の語義が、先行研究で指摘される「鎌倉公方」ではなく、「勝長寿院(日光山)別当」を指すものであると指摘したうえで、別当が上様と呼ばれた背景を、鎌倉公方子弟の別当職就任に見出した。

第4章「室町期鶴岡八幡宮寺における別当と供僧」および第5章「室町期鶴岡八幡宮寺寺僧組織の基礎的考察‐若宮別当と二十五坊供僧を中心に‐」では、室町期の鶴岡八幡宮寺の展開を、八幡宮寺のトップである若宮別当と、若宮別当ともに寺社経営にあたる二十五坊供僧との関係を軸に、鎌倉府(公方)の存在にも留意しつつ検討を行った。その結果、別当と供僧の関係は緊張感をはらむものであり、東密派の別当が、他門派の供僧のわずかな過失をとがめて改易処分に追い込み、東密派の供僧に改めていった結果、鶴岡八幡宮寺が室町期を通じて東密寺院化したこと、さらに鎌倉府(公方)との関係に関しては、鶴岡別当と公方が時に対立関係に陥ることもあり、両者の関係は必ずしも良好とはいえないものであったことを指摘した。

第2部「醍醐寺諸院家の展開」では、南北朝・室町期の醍醐寺三宝院流・理性院流に属する院家の展開過程について検討した。

第6章「南北朝末期の醍醐寺三宝院院主と理性院院主について‐宗助の醍醐寺座主就任の背景‐」では、研究が進んでいなかった南北朝末期における醍醐寺の歴史的展開について、至徳2年(1385)の理性院宗助の醍醐寺座主就任問題を軸に検討した。その結果、理性院宗助は三宝院院主の側近として活動し、その立場を利用して理性院院主初の醍醐寺座主就任を果たしたこと、南北朝末期の三宝院院主光助・定忠期は三宝院院主の力が非常に衰えていた時代であったことを指摘した。

第7章「鎌倉末期から南北朝期にかけての聖尊法親王の動向‐三宝院流定済方の分裂とその影響‐」では後二条天皇皇子で醍醐寺遍智院の院主であった聖尊法親王という人物の動向に焦点をあて、聖尊の存在が中世醍醐寺の歴史にどのように位置づけられるかを検討した。その結果、聖尊は三宝院流道教方・同定済方という競合する二門派双方と深い関係にあったこと、聖尊が南北朝期に三宝院賢助の遺跡をめぐって三宝院賢俊と対立を起こし、この対立が、南北朝末期の一時的な三宝院衰退の遠因となったことを指摘した。

第8章「中世における醍醐寺理性院流の展開と太元法」では、基礎的な検討が不足していた中世の醍醐寺理性院流の展開過程を、理性院流相伝の護国法である太元法の存在に注目しつつ検討した。鎌倉期の理性院流は、平安末期に獲得した太元法別当職を喪失し、法流も内部分裂を起こすなど低迷していたが、南北朝期に三宝院賢俊の介入によって院主となった宗助は、寺務代として醍醐寺座主である三宝院院主を支えると同時に、太元別当職の理性院流への回復も果たした。以後の理性院院主はこの二つの地位を保持することで存在感を発揮していくことになり、理性院流の歴史の中で宗助期は大きな転換期であったことを指摘した。

第3部「東西顕密仏教界の関係性」では、醍醐寺僧が兼帯した東国寺社の諸職、およびそれに附属する所領に関する相論に注目することで、東西仏教界の関係について考察した。

第9章「南北朝・室町期における東国醍醐寺領と鎌倉顕密仏教界の展開」では、東国の醍醐寺領の南北朝・室町期の展開を概観したうえで、東国醍醐寺領と鎌倉顕密仏教界の関係について考察した。その結果、醍醐寺の院主達は鎌倉後期から南北朝期にかけて東国で活動を展開し、その中で主要な寺社別当職も獲得していくが、1360年代以降東国での祈祷活動の重要性が低下した結果、彼らの下向はなくなった。しかし、別当職は以後も経済的利権として京にいる醍醐寺僧が保持し続けたため、寺社経営の在り方などをめぐって、東西の仏教界で武家政権を巻き込んだ対立が惹起したこと、また鎌倉の有力顕密寺院の別当が上述の理由から、鎌倉に不在となる中で、一貫して別当が鎌倉にあった鶴岡八幡宮寺の権威が前代以上に高くなってくることを指摘した。

第10章「東国寺社別当職をめぐる僧俗の都鄙関係‐伊豆密厳院別当職問題を事例に‐」では南北朝・室町期に発生した伊豆密厳院別当職をめぐる問題を事例として、室町幕府と鎌倉府の関係の推移、および三宝院と報恩院という醍醐寺の二つの院家の関係や東国寺領に対する認識の差異などについて検討した。その結果、先行研究では両武家政権の対立を象徴する事例として理解されがちな密厳院別当職問題であるが、両政権は合意形成に向けた折衝も重ねており、むしろ応永20年代後半に両者の折衝が見られなくなったことが、関係悪化を象徴するメルクマールであること、醍醐寺側で密厳院別当職を保持していた二つの院家(三宝院、報恩院)の間には、密厳院別当職に対する認識に差があり、報恩院が門流由緒の重職として密厳院別当職を重視したのに対し、三宝院が密厳院別当職を望んだのは、報恩院を牽制する思惑が強かったからにすぎないことを指摘した。

そして終章「本稿のまとめと課題」においては、本稿のまとめおよび今後の課題を示した。

本稿の検討の結果、醍醐寺僧をはじめとする京の顕密僧の行動変化が、鎌倉の顕密仏教界の展開に大きな影響を与えたことが指摘できる。すなわち、14世紀後半になって室町幕府・鎌倉府の自立化が進み、また鎌倉府が鎌倉幕府のように京の顕密仏教界に人事介入できるほどの実力を有していなかったこともあり、京の顕密僧は鎌倉を自身の祈祷活動の場とすることはほぼなくなった。しかし、彼らが鎌倉で活動していた時期に獲得していた寺社別当職は、門流相伝の重職として経済的利権も含めて保持され続けた。その結果、寺社や所領の経営をめぐって東西仏教界、武家政権の対立が惹起していく中で、在鎌倉の顕密僧達は、京の顕密僧の影響力を排除しつつ、鶴岡八幡宮寺別当を中核とする新たな宗教体制の構築を試みるのである。

以上の試論は、一部の顕密寺社の検討のみから導き出されたものであり、検証が不十分な点も多い。今後は、禅律寺院や神社などにも検討の幅を広げつつ、東西仏教界それぞれの展開を関連づけながら、より包括的に検討していくことが課題となる。