1.本研究の目的と方法

 

 本研究は近・現代日本語の謙譲表現およびその周辺的表現に関して、語形・表現形の成立条件と形式・用法の通時的変遷に加えて、現在の話者意識とそれによる今後の変化傾向等について多面的に検討することで、その本質の記述を目指したものである。

 まず序章において、敬語体系および謙譲語に焦点化する形で先行研究を概観・検討した。その結果、従来の研究においては、昭和前期以降を一つの共時態として扱い、個々の表現の使用実態・ルール等の詳細な記述・解明が中心に行われてきたことなどが確認された。他方で、個々の形式の発生・維持の理由、その背後にある語形および表現形生成の原理とその変化等に対する考察が不十分のように思われ、以下のような観点を設定した。

 

1)現代語の謙譲語とそれを含んだ表現形全体を成立させている諸条件、その背後に存在 すると思われる原理とはどういうものか。

2)1の諸条件およびその背後の原理は近代以降どのように変化してきたのか。あるいは 変化していないのか。またそうした原理を変化させてきたものとは何か。

3)主として近代以降に発達した諸形式について、それらはどのような形で、1の諸条件 とその背後の原理を担っているのか。また、形式によって担い方の違いはあるのか。

4)現代の謙譲表現に対する人々の意識(個々の表現に関する使用判断・決定に関する意 識、敬語全般に対する現状認識・規範意識・指向意識等)とはどのようなものか。また、 それは語形・表現の認知・選択にどのような影響を与えているのか。 

5)1~4をふまえ、謙譲表現およびその周辺的表現は今後どのように機能と形式を変え ていくのか、あるいは変えていかないのか。変えていくとすれば、そこに方向性などは あるのか。

 

 こうした問題意識のもとにⅡ部構成を取り、異なるアプローチによって論じた。上記1~3については第Ⅰ部で、現在の話者意識と今後の変化予測に関する4~5については、主として第Ⅱ部で扱い、最後にⅠとⅡから今後の変化傾向と将来予測等を述べた。

 以下、結果と考察について簡潔に述べる。

 

2 結果と考察 

 

【第Ⅰ部】

 まず、現代の「お/ご~する」形の語形的・表現的・語用論的成立条件について整理し、以下の結論を得た。

Ⅰ.主語から、人格を有するものとしての存在認識を伴う補語への具体的な行為を通じた  働きかけを実現可能にする動詞(と一部の名詞)のみが「お/ご~する」形をとる。  ただし、意図的加害性の表現としての働きかけの場合は不可である。

Ⅱ.Ⅰの働きかけを実現しつつ、行為全体として補語の人格的領域への意図的加害性がな  いとみなされる場合のみに「お~する」形を含んだ表現が可能になる。

 次に、それ以前に成立した「お/ご~申す」「お/ご~いたす」「お/ご~申し上げる」と比較してその相違点を明確にするとともに、明治半ばから使用され、次第に使用条件を変化・拡大してきた「させていただく」を加えた、計五形式の消長と発達について論じた。その結果、以下のことが確認できた(以下、それぞれ「お~」とする)。

 

①「お~申す」

  江戸初期頃から形を整えはじめ明治後期までの主流であった「お~申す」は、働きか けの有無やその内実には関わらずに補語への敬意を表せる生産的形式の代表であった。 ただし、「お~する」の成立以降(明治30年頃から明治末にかけて)次第に使用が減少 するとともに、特に二人称(聞手)を補語とするあらたまった場面を中心に使用される ようになり、その後さらに使用が漸減して今日ではほとんど使用されなくなった。

②「お~いたす」

  江戸末期頃に成立し、その後も安定的に使用された「お~いたす」は、成立当初から 形式内に取り得る語は「お~する」と同様、意図的加害性を持たないものに限られてい た(つまり現代と同様)。また、主語は一人称側の人間に限ること、二人称(聞手)を 補語として行為の申し出中心に使用されること、常に丁寧語と共起することからも、成 立当初から補語と聞手両者に対する敬語として機能していた。

③「お~する」

  明治30年頃に成立し、明治末年頃までに謙譲語Aとしての地位を確立した「お~す る」は、成立当初から現代に至るまで、その機能に加えて形式内に取り得る語、表現全 体の成立条件は基本的に変わっていない(上記Ⅰ・Ⅱ)。ただし、「お作りする」「お持 ちする」などの間接的用法(補語へのモノを媒介とした働きかけなど)は、後になって (大正初めから昭和初め頃)成立した。

④「お~申し上げる」

  江戸期頃から使用された「お~申し上げる」は、形式内に入る語について「お~いた す」や「お~する」と同様の制限があった。ただし、丁寧語共起が非義務的な点、二人 称主語にも使用可能である点で「お~いたす」とは異なり、特に現代において「恨む」 などの意図的加害性を持った語の一部を取ることができる点で、「お~する」とも異な っている。

⑤「させていただく」

  本来の、補語による使役・許可の用法から、大正初め頃になって主語の行為による補 語への影響の内実に配慮したものとして、擬似的許可を用いた用法(「新聞を読ませて いただいた」など)へと拡張した。

 

 これらから、近世末以降の謙譲語の成立とその展開・消長には、補語の影響の受け方・被影響の内実に対する話者の意識が最も強く作用していることが確認され、それを「受影性配慮」と名付けた。受影性配慮は、加害的な行為あるいはそれに準ずる行為に対して形式的に敬意を表現することに強く矛盾を感じることにもつながっていく。

 また、受影性への敏感さは、次第に表現の拡張へとつながり、「お持ちする」「お調べする」などの間接的受影性(補語への授益)を意識した謙譲語形(本研究ではBタイプとしている)を生み出すとともに、主語の行為による補語への心理的影響等を考慮しつつ、「させていただく」の拡張用法(使役・許可者が想定しにくい場合)を生じさせたことなどが確認された。

 

【第Ⅱ部】

 謙譲語に関する現代話者の多様な意識調査とともに、因子分析等の統計手法を用いた各種表現形に対する認知構造の分析を行い、敬語使用に関わる動機や意識とその背景、今後の語形および語用論的条件の変化の様相を明らかにした。敬語は、精緻な文法システムを持ちつつも、対人関係構築とその維持等が重要な動機となっている以上、選択される語形や運用規則は、話者の多様な意識下でその都度決定されるものであると考え、個人差についても積極的に着目し、おおよそ以下の結果を得た。

 

①一対比較法等を用いた各種「誤用」表現に関する自然度調査・検査から、「誤用」はタ イプ別に認識されているとともに、その正誤判断には狭義の敬語以外の要因が複雑に働 いていることが確認された。また、その判断に関わるものとして、上下意識が最も影響 力の強い要因であることが確認された。

②形として「お~する」を含んだ表現の自然度判断は、当該形式が謙譲語の用法を持つか どうかを中心にして、全体の待遇価の高さ・授益性などが副次的に、かつ階層性を持っ て作用した上で決定されている。また、ヲ格とニ格など、複数の格を取る語を含む「お ~する」形の場合(「ご案内する」など)、待遇対象の認知と格の強弱をめぐって混乱 が起こりやすく、それが自然度判断に大きく影響、あるいは干渉することが確認された。

③誤用表現とされる「お/ご~される」の自然度判断の際、話者は「お/ご~」と「され る」とに分割する形で、敬語要素を加算的に捉えている。それに加えて「お~する」形 が謙譲語として機能するものとの干渉が働き、なおかつ「お/ご~」の部分の独立性が 低いと強く不自然さを感じることなどが確認された。

④「お~なさる」と「お~される」の丁寧度判断であるが、「お/ご」に「レル敬語」が 加算されたものと捉えられるため、後者の使用を積極的に容認する意識が強いことが確 認された。特に敬語の使用能力意識が高く、敬語機能の多様性を認めている被験者に「お ~される」の容認度が高いことから、敬語使用の多様性とも相俟って「お~される」が 敬度の高い尊敬語として定着していく可能性が高いことが示唆された。

⑤授受補助動詞「てくれる」と「てもらう」の丁寧度について、従来「てもらう」の方が 「動作主を主語にしない」ことから丁寧とされてきたが、「丁寧度」は文法的側面から のみ決定するものではないこと、敬語に対する指向意識の違いによって丁寧度には違い が生じていることが確認された。話し手の持つ敬語に対する多様な意識・判断のあり方 こそが、両者の丁寧度を決定するのであり、その諸相が明確になった。

⑥現在変化し続け、今後さらに機能上・運用上の変化が進むことが予測されている「お~ する」形と「させていただく」の方向性であるが、両者とも、それぞれ変化を助長する 要因と変化を阻害する要因がありつつも、変化の助長要因の方が優勢であることが確認 された。「お~する」は尊敬語・丁寧語的に、「させていただく」は謙譲語Bに近づき、 将来的に棲み分けが行われる可能性が高いことが示唆された。

 

 最後に第Ⅰ部と第Ⅱ部を総合し、江戸末期頃から次第に補語の影響の受け方・被影響の内実に対する話者の意識が強まるとともに、敬語全体における対者敬語化傾向と相俟って、語形・機能・運用上の変化がもたらされていることを述べた。