本論文の目的は平安朝の「文人」が漢詩文、とりわけ散文によっていかなる内面を表現していたのかを中国文学と比較対照しつつ通時的に分析し、平安朝文人の特質を明らかにすることである。本論文は「序 平安朝における文人」および「第一部 嵯峨朝における文人の端緒」「第二部 詩文創作の意識と九・一〇世紀」「第三部 文人の憂愁」三部十二章からなる。

 

「序 平安朝における文人」では先行研究を整理しつつ、本論文の主題と分析手法を提示した。すなわち平安朝文人の定義と漢詩文の定型性である。   

まず平安朝文人の定義について。平安朝漢文学研究では菅原道真・大江匡房といった漢詩文創作者を「文人」と呼称するが、「文人」という人間類型の定義についての議論は十分に尽くされてこなかった。平安朝文人の定義は曖昧な状態にあるといってよい。本論文は平安朝全期を考察範囲に定め、通時的に文人の作品を考察するものである。平安朝文人の範疇に含められる漢詩文創作者を確定する上で、平安朝文人に対する定義は暫時的にではあるが、規定することが手続きとして必要となる。そこで序論では「文人」に関する中国文学研究を概観することからはじめた。「文人」といえば、いわゆる詩文書画に代表される諸芸術に通じた高雅な人物、といったイメージがまず喚起される。このような文人像が元代以降のいわゆる「文人画」を製作した文人達に基づくものであることは吉川幸次郎ら先学諸氏によって指摘されている。ただ、「文人」に妥当する存在を中国史上に俯瞰的に検討した場合、必ずしも近世文人像がそれ以前の「文人」にそのままあてはまるものではない。文人即市井の人、というような通念は王維・蘇軾といった士大夫・読書人でありながらも「文人」と呼称される人物に適用されないのである。「文人」に含まれる人物は時代によってそれぞれの特徴を持つと考えられるけれども、その根幹には文芸に長けているということがつねに含意されているといえよう。よって本論文では井上進氏の視点をふまえて「文人」を政道を担う士大夫の一側面としてとらえ、文人とは各種公文書の執筆を職務としながら、他方では私的、あるいは文学的に読解しうる文章を創作する人物類型として定義する。中国の「文人」特に中唐の白居易から影響を受けた平安朝文人たちも基本的にはこのような定義が適用されるが、同時に平安朝社会に即した特徴を持つことが推定される。

次に漢詩文の定型性の評価である。平安朝漢文学の主な創作の場が作文会にあることはよく知られているが、天皇・摂関家の意を汲んで作られる詩文は往々にして定型的儀礼的で個人の感興に乏しい点が注目されている。だが、平安朝漢文学の定型性を低く評価することに止まってよいのであろうか。序論では菅原道真の独詠と応制を対比し、用いられた技法が時に共通することから、固有性と定型性という二つの要素が平安朝漢文学にあると措定する。いわゆる月並みで決まり切った定型表現が、平安朝文人の個的な文学作品でいかに捉え直され、文人の個の表出に役立てられているのかを分析の手法とする。

 

第一部第一章「『凌雲集』序に見る近代意識と文章経国」は『凌雲集』成立に際してなぜ魏の文帝の『典論』「論文」の「文章経国は経国の大業」が勅撰集編纂の理念として選択されたのかを考察した。本章では文章経国思想に関する先行研究を整理し、嵯峨朝詩人は弘仁期に充溢する漢詩文創作の熱気に輪郭を与える言葉として文帝の「文章経国」を選択したことを検討した。

第一部第二章「宮廷文学と詩人の私性」は、嵯峨朝詩壇における個的な詩作と侍宴応制の詩作に共通する表現、すなわち六朝詩風の知巧的表現が看取されることに着目し、嵯峨朝詩壇は詩人の個的な主題・表現を制約した一面だけでなく、侍宴応制の集団的高揚感に埋没しがちな詩人に私性詠出の手法を提供する役割を担っていたことを明らかにした。

第一部第三章「菅原清公と音楽」は菅原道真の祖父である菅原清公の「嘯賦」を考察の対象とする。第一に、嘯が具体的にはどのような行為であるのかについて先行研究を整理し、あわせて奈良・平安朝漢詩における「嘯」の用例を検討し、「嘯」の持つ反俗性が平安朝中期の個人的な漢詩において十全に受容されたことを指摘した。平安朝における「嘯」受容の屈折点として清公の「嘯賦」が浮かび上がるのであり、上記の整理をふまえて「嘯賦」の表現を分析した。嵯峨朝では漢文学の集団性が顕著であり、詩人の個性は鮮明ではないといわれる。しかし、そのなかで清公は制作難易度の高い「賦」によって自らの趣味たる「嘯」を描いた。「嘯賦」が自序+本文という同時代では珍しい形式を持つことに注目し、個性的な自序と唯美的な本文が相照応することによって作者の情感が立体的に表現される、という作品の特質を明らかにした。

 

第二部第一章「承和年間以降における詩文兼作」は文章道の地盤沈下が顕著となる仁明・文徳両朝に活躍した小野篁・都良香を対象に、嵯峨朝詩人とは異なる漢詩文創作の意識、すなわち詩文兼作、が文人に芽生えたことを考察した。第一に小野篁と『元白詩筆』の影響関係について「狂」という自己規定を切り口に分析し、小野篁が白詩風の個人的な感慨を表現していたことを確認した。第二に、白居易の「草堂記」などの散文作品が従来の「記」の公文書的性格を打破して個性的な作品に作り上げられていることに注目し、中唐においては古文運動の中心となった韓愈・柳宗元のみならず、古文運動と関わりのない白居易らも散文の変革に意を砕いていたことを指摘した。したがって平安朝中期漢文学における散文の変革は中唐文学とパラレルに進行していた一面があると措定される。だが平安朝文人は『白氏文集』所収散文作品を受動的に受け取ったのではない。良香を例にとり、文章道の地盤沈下という局面に接して自発的に自己表現を開拓した結果として白居易の文学をモデルとして選び取ったことを考察した。

第二部第二章「菅原道真と書斎――学者の憂悶――」は菅原道真の「書斎記」を考察した。従来の研究では「書斎記」の本文を素直に受け取り、その人物像を構築する読みが主流であったが、本章では人物像の構築をしばらく置き、「書斎記」に用いられた表現の型に注目した。菅原道真は、白居易の「草堂記」などといった閑居自適の居宅の記のパターンを取り入れつつ、それをずらして書斎にまつわる出来事(かつての勉学・弟子の不作法など)を叙述していることを明らかにした。平安朝漢文学における白居易散文の受容と応用は、「書斎記」に始まるといえる。

第二部第三章「紀長谷雄の自序」は紀長谷雄晩年の「延喜以後詩序」を考察した。第一に、長谷雄の漢文記録を分析して長谷雄の散文家としての力量を確認し、それが「延喜以後詩序」という傑作を生み出した基盤である可能性を提示した。第二に「延喜以後詩序」が中国文学における自序の文学的伝統から逸脱していることを明らかにした。

第二部第四章「兼明親王の隠遁――孤高と閑適――」は、従来の孤高の隠者という親王像が一面的であると考え、亀山隠棲後の諸篇を総体として把握することを試みた。兼明親王には左大臣免職事件に憤慨した「兎裘賦」だけでなく、白居易に倣って閑居自適を希求する「山亭起請」といった個性的な作品もあり、兼明親王が憂悶と自得を多彩なジャンルによって立体的に表現していたことを明らかにした。

第二部第五章「和漢の散文の交渉」は平安朝漢文学と和文学の交渉に注目し、十世紀における『うつほ物語』をはじめとする仮名散文と漢文記録が定型表現を一部共有していたことを考察した。

 

第三部第一章「慶滋保胤の池亭」は慶滋保胤の述作の分析を通じてその思想の実質を探った。第一に同時代の文人のなかで保胤の狂言綺語観が独特なものであり、文学と信仰を矛盾対立する関係であると保胤が認識していたことが、その文学の原動力であったことを指摘し、一般の文人が注目しないような白居易の作品を保胤が血肉化していたことを明らかにした。第二に「池亭記」および同時期の述作を分析し、執筆時の状況に応じてふさわしい思想(儒・仏のいずれか)をよりどころとしていたことを考察し、それが白居易の思想の特質を十全に学んだ結果であることを明らかにした。

附章「「池亭記」から中世の二篇の「記」へ」は源通親の「擬香山模草堂記」、鴨長明の『方丈記』を分析し、両者に影響関係が見られないものの表現に通底する基盤があることに注目し、平安朝漢文学の「記」が自己表現の体系として中世に受容されていた可能性を考えた。

第三部第二章「大江匡衡の私性――八月十五夜の近江――」は大江匡衡の「八月十五夜江州野亭対月言志」序を考察した。匡衡は定型表現に習熟しており、公宴の場にふさわしい文章を作ることに長けていた文人であるが、個人的な詠作の場においては、断章取義的に理解されていた定型表現の原義に立ち返ることで個性的な作品を作ったことを明らかにした。

第三部第三章「大江匡房と『本朝文粋』」は院政期漢文学における匡房の述作の意義を考察した。院政期文人は『和漢朗詠集』『本朝文粋』などに代表される平安朝中期漢文学を尊重していたが、その中で匡房は『本朝文粋』所収作品を体系的に模倣することでかえって独特な個性を有していたことを、紀長谷雄の「延喜以後詩序」を踏襲した「暮年記」を中心に明らかにした。

 

終章は上記三部を概括し、あわせて平安朝漢文学における散文の変遷史について記述した。中唐文学において文人の自己表現を託しうるジャンルが複数(序・伝・墓誌銘・記)存在するのに対し、十世紀から十二世紀にかけての日本では白居易の散文の咀嚼理解の結果、自己表現の散文ジャンルは「記」のみが重視された。白居易の散文は平安朝にふさわしい形式で定着したのである。