環境を批評する ――英米系環境美学の思想史的研究・理論構築――

青田 麻未

本稿は、1960~1970年代頃に興った英米系環境美学がどのように展開されてきたのかを思想史的に跡付けたうえで、そこから抽出されるいまだ残された課題を解決し、ひとつの環境批評理論を提示することを目指すものである。個別の環境についての具体的な批評を展開するのではなく、あくまで環境批評一般のメカニズムを説明するための理論をつくることに本稿の主眼はある。

 そもそも環境美学とはいかなる分野なのか。この問いに対して解答を与えることは、実は容易いことではない。たとえば、オンライン辞典Stanford Encyclopedia of Aestheticsの項目“Environmental Aesthetics”は環境美学の代表的論者アレン・カールソンAllen Carlsonによるものだが、その序文において、環境美学が分析哲学の伝統に根ざしていること、その初期には自然環境を扱っていたが徐々に人間環境へと議論対象を拡大したこと、そして日常美学と呼ばれるサブジャンルを生み出したこと、というような、この分野の歴史的展開を記すにとどまっている。一言で環境美学が何を目指しているのかということを示すのは難しい。それゆえ、われわれとしてはなんらかの視点をみずから設定し、多様な論題・論者を含む同分野のなかに分け入っていかなければならない。本稿は、〈環境の批評理論をつくる分野〉として環境美学を定義することで、これまでの歴史的展開を読み解き、また残されている課題を整理する道筋をつくることを試みるものである。環境美学は、芸術批評の哲学としての芸術美学を利用することで「美学」の一分野という地位を得たのであり、それゆえ本稿が「批評」という観点に着目するのは唐突ではない。またここに、英米系環境美学の独自性があると言うことも可能である。いわゆる分析美学は当時、芸術批評の背後にある論理を探っていたのであり、環境美学はその思索の恩恵を多分に受けつつ発展したのである。ここで言う「批評」とは、〈対象の美的価値を査定すること〉を意味している。この美的価値の査定としての批評は、もちろんまとまった長さの文章で以て表明されることもあろうが、しかしたとえば「この川は雄大だ」といった一文さえも批評の表明、少なく見積もってもその入り口とみなされる。環境美学の論者たちは、環境の美的価値を査定することを「批評」と捉え理論的な道具立てを芸術美学から借りてくることで、同分野を存在感あるものへと仕立て上げたのである。

 しかしこうした環境美学の起源に対して、これまでの論者たちはしばしば慎重な注意を払ってこなかったと言えるだろう。そしてそれによって、環境美学の内部では多くの議論の混乱が生じている。「批評」という視点から環境美学史を読み直すことによって、この混乱を解きほぐすことは急務であると考えられる。環境美学は新しい分野であると言われ続けているが、しかしその興りからすでに半世紀を数える。この分野にいまひとつの思想史的な見取り図を与え、そこから浮かび上がる課題に答えていくという本稿の方針は同分野の今後の生産的な発展のために欠くことのできない作業であり、またそれは「批評」という観点を採用するからこそ可能になるものである。

 

 本稿は、2部構成をとる。第1部は、環境美学および日常美学のこれまでの研究について、思想史的に研究することを目的とする。ただし、これはあくまで思想史的研究である。この研究の主眼は、これまでの環境美学研究における議論の応酬につきまとっていた混乱を整理し、いまだ同分野において手つかずのまま残されている課題を抽出するというところにある。つづけて第2部では、第1部で示される環境美学に残された問題点を取り上げ、本稿としての批評理論を提示することを試みる。

本稿を通じてもっとも特徴的かつ重要な柱となるのは、批評理論を構成する2つの主な論点である。その2つの論点とは、〈美的経験から引き出される美的判断の客観性をいかにして担保するのか/しないのか〉、〈環境において批評対象はいかにして確定されるのか(これを本稿は主にフレーム付けの問題として扱う)〉である。もちろん、これら2つの論点は明確に切り離せるものではなく、相互に強く結びついているものである。しかしこれらをないまぜにしたままに議論を進めたことにこそ環境美学の「混乱」の原因があるため、本稿ではこれらをあえて区別するという手法をとる。第1部においてこの3つの論点に沿って先行する諸理論を切り分けて解釈することによって、第2部でそれぞれの論点についてさらに論じられるべきことがらが浮かび上がるのだ。

以上の手法を通して本稿が最終的に取る立場についての見通しは、第1部と第2部をつなぐ「小括」において与えられるが、ここで簡単に概略を述べておこう。本稿が最終的に取る立場は、美的判断の客観性については「感受性グループ」(観光者、居住者など、環境とわれわれとの関係に基づいて分類されるグループ)というエミリー・ブレイディEmily Bradyのアイディアを参考にしつつ、このグループ内部での美的判断の客観性と、グループ間における美的判断の客観性は、それぞれ別の仕方で保証されることを示す。そして、批評対象の確定にかんしては、アーノルド・バーリアントArnold Berleantの立場を援用し、「フレーム外在主義」――批評対象を確定するフレームはわれわれ主体が構築しているとする立場――を取り、特にわれわれの環境内部での諸活動がフレーム形成に与える影響を詳述する。

 

以下、本稿の章ごとの内容について、短く記しておく。

第1部の思想史的研究は、3章構成となる。第1章では、まずロナルド・ヘプバーンRonald Hepburnの論稿「現代の美学と自然美の無視Contemporary Aesthetics and the Neglect of Natural Beauty」(1966年)と、アレン・カールソンAllen Carlsonの論稿「風景美を量的に測ることの可能性についてOn the Possibility of Quantifying Scenic Beauty」(1977年)という環境美学成立期の2つの重要な論稿を取り上げ、両者が芸術美学を巧みに利用しつつ、批評としての環境美学へとつながる論点を提示していたことを明らかにする。かれらの議論を概観したのち、続けて先に述べた2つの論点がいかなるものであるかを整理して示し、以後の先行研究分析のための道具立てを用意する。またここで、本稿の射程が自然環境に限定されるものではなく、日常的な人間環境をも対象とするものであることも、環境美学の歴史的経緯に則りつつ示す。

第2章は、環境美学の議論図式をとりわけ強く規定する影響力を持った、カールソンの理論を検討する。かれは〈環境の適切な美的鑑賞のためには、常識的/科学的知識が必要である〉という印象的なフレーズで以て環境美学を牽引するが、しかし芸術美学との強いアナロジーによって構成されていること、またそもそもネイチャー・ライティングというひとつの芸術ジャンルを手本に構築されていることという2点によって、かれの理論がきわめて「芸術モデル」的であることを本稿は明らかにする。またこの作業を通じて、かれが〈美的判断の客観性の保証〉と〈批評対象の確定〉という2つの論点を区別しなかったことがいかなる問題に帰着するのかも明らかになるだろう。

第3章はカールソン以降の環境美学の展開を、認知モデル/非認知モデルという対立図式の見直しという観点からみていく。この2陣営の区別の仕方自体がこの章の議論の的となるわけだが、さしあたって認知モデルとはカールソンのように美的経験における知識の役割を重要視する立場、非認知モデルは知識以外の要素を重要視する立場と理解しておいてよいだろう。とはいえ、この2陣営のあいだの境界線は、だれが分類をするのかによって微妙に変更される。そしてこの変更が起こっているということ自体が、各論者たちがじぶんとその他の論者との対立点がどこにあるのかに自覚的でないことを示している。本章ではこのことを指摘したうえで、各論者の主張を本稿の提示する2つの論点――〈美的判断の客観性の保証〉と〈批評対象の確定〉――に即して整理し、論評する。

小括において第1部の思想史的研究からみえてくる残された課題を抽出したうえで、本稿は第2部へと歩を進める。第4章は、美的判断の客観性の保証にかんする問題について、カールソンの「理想的鑑賞者」説とブレイディの「最良の判定者たち」説を比較検討し、後者を支持・洗練する。ブレイディはカールソンとしばしば比較され、主にカールソン陣営の論者によって批判されるが、本稿はブレイディのほうが環境における美的判断の客観性について有益な示唆を与えているということを示す。彼女の説明には不十分な点もあるが、本稿ではドミニク・マクアイバー・ロペスDominic McIver Lopesの「ローカルな美的熟達者」論を参照することでこれを補う。

第5章は、批評対象の確定の問題を扱う。この章でカールソンと比較されるのは、アーノルド・バーリアントArnold Berleantである。前者を「フレーム内在主義」、後者を「フレーム外在主義」と位置付けたうえで、本稿は後者を支持し、その主張に肉付けを行う。しばしば、芸術と環境の経験の相違は、後者の場合われわれがその内部において多様な活動を行うことが可能な点にあると言われるが、しかしこの点について具体的な検討はこれまで十分されていない。本稿はこの特徴づけをフレームという観点から見直すことで、活動の具体例を挙げつつ、それらが批評対象の確定にもたらす影響を見る。

第6章は居住者と観光者という、2つの感受性グループを取り上げ、それぞれの環境に対する批評の傾向を分析する。環境美学において、しばしば旅行者は浅薄な美的経験をしているという理由で、また居住者はそもそも美的経験をしてないという理由で議論の脇に追いやられる傾向にあった。こうした見解に対して、それらの批判は妥当ではないことを示すことも本稿のひとつの目的とする。

 

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