ナフマニデスの聖書解釈研究 ――知の源泉とその彼方――

志田 雅宏

 本論文は、中世カタルーニャのユダヤ人学者ナフマニデス(1194-1270)の聖書解釈の研究である。中世の離散社会のなかで独自に発展してきた各地のユダヤ教文化を、ナフマニデスは聖書解釈において取り入れ、統合した。

 本論文は序論と14の章で構成される。

 序論「教典という視点」では、宗教学の教典研究から本研究のための視点を模索する。まず、教典解釈研究における受容理論の可能性と課題を指摘し、教典の概念を再考することの意義を示す。さらに、ユダヤ教の教典研究からいくつかの論点を提示する。具体的には、スピノザの中世ユダヤ教聖書解釈批判、ラビ文学における「権威的な解釈者」の構築、中世ユダヤ教の「多層的テクスト」の概念、註解と説教、秘義の口承性、「知の源泉」というトーラー理解、聖書解釈と歴史意識、タルムード的知をめぐる論争である。

 第1章「ナフマニデス(1194-1270)」では、ナフマニデスの生涯と時代を概観する。当時のアラゴン連合王国ではユダヤ人はさまざまな恩恵を受け、地域間のユダヤ人共同体の交流が進んだ。それにより、ラシやアブラハム・イブン・エズラの聖書註解、マイモニデスの法学や哲学、プロヴァンスに興ったカバラーなどがカタルーニャに流れ込んできた。他方、王国の優遇政策は教会の反発を招き、ドミニコ修道会によるユダヤ民衆への布教活動が問題化した。

 第2-3章ではナフマニデスの聖書解釈の枠組みを論じる。第2章「戒律の書物、万物の知識の書物、神の名前」では、『トーラー註解』序文を分析し、サアディア・ガオンやイブン・エズラ、マイモニデスとの比較を通じて、「教典の概念を描く」という彼の着想を強調する。そのトーラー概念とは、すべての戒律が記された書物、すべての被造物の知識が含まれている書物、そして秘匿的に伝えられてきた「神の名前」——世界創造以前の「原初の書物」——である。また、序文の結語は後に書き加えられたものであり、秘義の方針をめぐる重要な変化がみてとれる。第3章「秘義の多義性」では、ナフマニデスの「多層的テクスト」の概念を再考する。字義と秘義は聖書テクストの意味だけでなく、彼の世界観そのものを反映している。また、秘義は人間の宗教的活動が神の意志や行動に影響をおよぼすことを説明するという重要な役割を持つ。さらに、彼の「秘義」には神的世界を主題とする口承的なカバラー的秘義と、主に終末を主題とし、著作行為を制限しない非カバラー的秘義がある。

 第4-5章では創造論と「セフィロート」の概念についての解釈を考察する。第4章「創造」では、創世記第1章についての多様な読解をたどる。彼の創造論は、「無から有へ」と「有から有へ」という二段階で構成され、ギリシャ的な存在論がその過程に組み込まれる。また、天と地という「最初の物質」が無から創造されたという主張は、ラシらを批判する字義的解釈によって組み立てられている。他方、カバラー的解釈では創世記の言葉がセフィロート体系の創造として意味づけられ、さらに創世記が語りうる限界と、人間の知性がたどりつける源泉が一致する。第5章「セフィロート」では、ラビ文学の周縁に置かれていたセフィロートの概念を、ユダヤ教の諸価値と結びつける試みを見てゆく。セフィロートは安息年とヨベル年の秘義であり、世界の周期と無への回帰という壮大な宇宙的時間を語るものとされる。また、秘匿的なセフィロートはユダヤ教の戒律をおこなう人間の身体において顕在化し、身体と神の世界が象徴的な関係を結ぶ。

 第6-10章では学知と聖書の問題を論じる。第6章「マイモニデス論争」では、マイモニデスの哲学的著作をめぐる論争に対する取り組みを考察する。ナフマニデスは各地のユダヤ人共同体の法的自治が尊重されるべきだと考え、相互の破門宣告の撤回を求める。また、哲学の学習方法について、個人での学習のみを許可する方針を示す。第7章「ヨブ記の主題的読解」では、『ヨブ記註解』序文を分析する。そして、ヨブの義人性を問題とするタルムードの事例と、神義論を主題とする対話篇とみなす中世ユダヤ教哲学の事例を挙げたうえで、ヨブ記に「トーラーの秘義」が隠されているというナフマニデスの立場を説明する。第8章「応報の難問」では、さらに彼のヨブ記解釈を分析する。彼は義人R・アキヴァの殉教物語と、ヨブ記の著者はモーセであるという伝承を組み合わせ、ヨブ記の「誕生」の物語を創出する。また、コヘレトの言葉とヨブ記の重ね読みにより、応報の正義という思想的課題の存在を明確にする。そしてこの難問に対して、「転生の秘義」という回答がエリフの言葉から導き出される。前世の罪を背負い、輪廻する魂を持つ義人は苦難を受け、悔い改めによって神と固着する。そこには、ヨブ記が救いの書物であるという信念と、言葉の持つ力への願いが込められている。第9章「死・復活・来たる世」では、霊魂や来世といった主題についてのマイモニデス批判を検討する。ナフマニデスは服喪や「原罪」の考察を通じて、本性としての身体の永遠性を強調する。身体はアダムの罪によって、死すべきものへと変容した。魂は世界創造以前の始原における被造物であり、身体の死とともにその始原へと回帰するが、「来たる世」においては復活した身体もまた霊化し、「原罪」から解放される。第10章「奇跡」では、自然現象と変わらない「隠された奇跡」というユニークな概念を取り上げる。「隠された奇跡」は奇跡の射程を日常生活にまで広げるが、同時に医学という学知に代替されうるものでもあった。そこで、カバラーによって奇跡の意義があらためて示される。奇跡は人間のためだけでなく、神のためでもある。神がおこなった奇跡を人間が記憶し、そのための戒律を実践することで、神の世界の調和を実現するのである。

 第11-13章は異教徒を主題とする。第11章「占星術と偶像崇拝」では、占星術を受容するイェフダ・ハレヴィや、それを拒絶するマイモニデスの考えるトーラーと知の関係性と、ナフマニデスのそれとの違いを明確にする。彼はトーラーが占星術の是非を決定するのではなく、トーラーが占星術という知の正当性/正統性を説明すると考え、神が異教徒の支配を天使と天体に委ねたという世界観を構築する。第12章「ヤコブとエサウ」では、キリスト教世界の「起源」をたどる試みを分析する。キリスト教徒はヤコブの兄エサウの子孫を起源とし、破壊的な力を天体から受け取った「民族」であった。また、アブラハムとヤコブのエジプト移住の物語は、ユダヤ人の離散を説明する二つの原理——「父祖から子孫への神罰」と「父祖の行動からの暗示」——として解釈される。そこには、キリスト教世界を聖書の「文法」で描き切ることができるという確信がある。第13章「バルセロナ公開討論」では、1263年の歴史的な公開討論に関連するナフマニデスの著作を分析する。彼の『討論録』は対話形式の演劇として討論を再現した護教的著作であると同時に、ユダヤ教のメシアニズムからキリスト教批判へという理路が埋め込まれた論駁書でもある。他の著作ではユダヤ教のメシア論の多様性が強調されるが、『討論録』では「知性」と「現実」を指標とする合理的なメシアニズムが前面に押し出され、キリスト教の教義やイエスのメシア性を批判するさいの根拠となっている。

 第14章「アリヤー」では、晩年のアリヤー(イスラエルの地への移住)を取り上げる。「アリヤーは戒律である」という彼の主張は、離散的生が確立されていた中世ユダヤ教において類を見ない斬新なものであった。そして、彼のアリヤーは戒律をより完全に実践することに動機づけられていた。また、彼は姦通の秘義的解釈を通じて、イスラエルの地の聖性を説明する。聖地においてこそ、神とユダヤ人は直接的な関係を結ぶことができる。人間の戒律実践は神の世界に調和をもたらし、エルサレムにおける祈りは魂の救済を実現する。彼がアリヤーした「イスラエルの地」は、自身の聖書解釈によって構築された世界観と重なり、その聖地を彼は実際に生きたのである。

 

 結論ではまず、学者としての学習という特徴を挙げる。ナフマニデスは過去の注釈テクストの引用と批判的考察をへて、新しい見解を導くという手続きを繰り返す。また、「万物の知識の書物」というトーラー概念は、自然科学や哲学、占星術といった知を積極的に受け入れる立場を表明するものとして掲げられている。さらに、ユダヤ教の文学的伝統についての豊かな知識が、キリスト教世界・キリスト教・キリスト教徒に対する批判と結びついている点も特徴的である。

 他方、これらの場面での明澄な言葉遣いとはきわめて対照的に、秘義を語るナフマニデスの言葉は断片的であり、後代の弟子たちの解説なくしてはほとんど理解することができない。彼は秘義の内容を書き記さないという口承の原則を守りつつ、秘義の存在意義を説得的に示すべく、教典の「起源」という主題を強調する。トーラーは「神の名前」という「原初の書物」としての形態を持つ。ヨブ記は義人の死を目撃したモーセによって書かれた。このような「起源」の物語が、これらの聖なるテクストに秘義が存在することの意義を確かなものとする。その一方で、終末的主題の秘義的解釈については、聖書テクストの「正しい」意味を覆い隠してきた「神の意志」が時間の経過とともに消え、この主題に従事することを禁じてきたタルムードの警告が失効すると述べられて正当化される。

 聖書の言葉をめぐる探究と思索において、ナフマニデスは世界や神との関係のなかで人間がはたす役割を描き続ける。人間がユダヤ教を生きることには意味がある。ナフマニデスの聖書解釈はその固い信念に動機づけられているのである。

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