ヘーゲル『大論理学』「概念論」の研究

川瀬 和也

本研究で私が試みたのは、ヘーゲルの主著『大論理学』を、その第3分冊として公刊された「概念論」を中心に読み解き、彼の思想の現代的意義を明らかにすることである。

ヘーゲル哲学の魅力は、世界の全てを説明しようとする野心的な試みにある。しかし、この魅力は同時に弱点ともなりうる。例えば20世紀世紀の前半にはラッセルやムーアら、ヘーゲル主義から決別して分析哲学の運動を主導した哲学者たちによって、また後半にはポスト・モダン思想の旗手であるドゥルーズらによって、ヘーゲル哲学は現実離れした神秘的な体系であり、また変化の可能性を欠いた閉鎖的な体系であると見られ、批判にさらされてきた。ヘーゲルへのこの批判的な論調は、ヘーゲルの叙述そのものの晦渋さも手伝って、現代でもなお影響力を持っているように思われる。

本研究は、こうした批判に抗して、ヘーゲル哲学を救い出す試みである。ヘーゲルのテクストを丹念に読み解けば、彼の哲学が現実に則した問題を論じており、また、経験に開かれた体系であることがわかるはずである。

また、本研究は、ヘーゲル哲学が、現代の形而上学を取り巻く三つの問題につながる意義を持つことを明らかにしている。三つの問題とは、第一に、存在論と認識論のいずれが先行するのかという問題、第二に、形而上学と自然科学の関係という問題、第三に、いわゆる心身問題である。これらは本研究第I部、第II部、第III部にそれぞれ対応している。

本研究は序論と結語を含めて11の章に分かれており、そのうちの本論を構成する第2章から第10章は、大きく三つの部に分かれている。以下ではそれぞれについて簡単に概要を述べてゆきたい。

第I部「論理学と形而上学」は、三つの章を含む。ここでは、ヘーゲル論理学は認識論であるのか、それとも形而上学であるのかという問題について扱う。

第2章「ヘーゲル・ルネサンス」では、1980年代後半から現代にかけて生じている、英語圏における研究の急速な発展について論じる。今日、アメリカとイギリスにおいて、「ポスト・カント的解釈」と呼ばれる、カントとヘーゲルの関係に改めて注目しながら、カントの批判哲学のプロジェクトをより深化させた哲学者として、認識論的にヘーゲルを理解しようとする研究が盛んに行われている。また、これに対抗する形で、ヘーゲル哲学を世界における客観的な存在者について論じる形而上学として、したがって批判哲学とは一線を画す哲学として理解しようとする解釈も提示されている。これらの先行研究の状況の整理と批判的な検討を通じて、本研究の位置づけをより明確にする。

第3章「概念と所与−−−−ポスト・カント的解釈の射程」では、ポスト・カント的解釈の方針を暫定的に採用し、「概念論」への序論にあたる「概念総論」でのヘーゲルの議論を読み解く。ヘーゲルはそこで、カントの『純粋理性批判』に言及しながら、それを改良するかのような独自の立場を打ち出している。本研究ではこの議論を、現代の哲学者ジョン・マクダウェルが著書『心と世界』で提示している「所与の神話」への批判と関連づけながら整理する。そのうえで、ヘーゲルがカントのように思考能力とは区別された直観によって認識の客観性を担保するのではなく、諸概念の全体論的な相互連関から客観性を担保する戦略を取っていることを示す。また、その帰結として、カント的なカテゴリーと経験的概念との区別がヘーゲルにおいては消失するということを論じる。

第4章「弁証法と円環−−−−認識論と存在論の対立の克服に向けて」では、ヘーゲル哲学は認識論かそれとも存在論かという、第I部全体のテーマに立ち返る。『概念論』の最後の章である「絶対的理念」と呼ばれる箇所のテクストを分析すれば、認識論と形而上学のいずれかが他方に先行するはずだという、ポスト・カント的解釈と形而上学的解釈が共有する前提そのものにヘーゲルが批判を向けていることがわかる。これを明らかにすることによって、「ヘーゲル論理学は認識論か形而上学か」という、ヘーゲル研究においてしばしばなされてきた問いの立て方それ自体が不適切であり、むしろこの対立図式そのものを克服するところにヘーゲル哲学の意義があることを明らかにする。また、これが現代形而上学が直面する、「認識論と存在論のいずれが先行するか」という問題にも直結していることを示す。

第II部「論理学と経験」は、ヘーゲルの論理学が経験を超越した閉鎖的な体系であるというイメージを、実際のヘーゲルのテクストに依拠して覆すことを目的としている。その際、まずヘーゲルのテクストから科学論と言うべき議論を再構成し、この科学論を前提として、ヘーゲル論理学と経験および経験科学の関係について考察する。

第5章「判断とその根拠」では、「概念論」第1篇「主観性」の第2章「判断」におけるヘーゲルの議論について検討する。「判断」章でヘーゲルは判断を四つの類型に区別し、多岐にわたる議論を展開している。本研究ではこれらのうち後半で扱われる「必然性の判断」と「概念の判断」を特に重視し、ここにおいて他の判断によって根拠づけられなければならないという判断の特徴が論じられていることを明らかにする。また、特に必然性の判断の箇所で、類種関係やゲーテの色彩論への言及がなされていることに着目し、ここに科学論が見いだせることを指摘する。

第6章「推論と経験的探求」では、「判断」章の次に置かれた「推論」という章を対象に、引き続きヘーゲル論理学と経験的探求との関係を探求する。「推論」章でヘーゲルは、帰納的推論について、蓋然的でしかない、主観的な推論であると否定的に言及している。同時にヘーゲルは「必然性の推論」について論じる際に、類種関係やゲーテの色彩論を念頭に置いた議論を展開している。これらの議論と、第5章で扱った判断論を合わせて考察することで、ヘーゲルの科学論を再構成する。

第7章「現象と法則」では、『大論理学』で「概念論」に先立つ「本質論」に含まれる「現象」という章でのヘーゲルの叙述について論じる。そこでヘーゲルはニュートンの落下運動の法則などを例に挙げながら、自然法則をどのように理解すべきかについて論じている。その際ヘーゲルが強調しているのは、諸法則が「証明」という関係に立って連関し合っていることを捉えるべきだということである。ここでの議論、また、第5章と第6章で見た判断と推論に関する議論を総合し、最終的に、ヘーゲルが科学理論の体系性と変化の可能性を重視する科学論を展開していたことを明らかにする。

第8章「経験的なものをめぐる問題」では、第5章から第7章において再構成したヘーゲルの科学論に照らして、ヘーゲル論理学と経験の関係について考える。『大論理学』のヘーゲルの叙述の中には、論理学が経験的なものとは無縁であるかのような印象を与えるものがある。しかし、ヘーゲルのテクストを実際に読み解けば、この印象が誤解であり、ヘーゲル論理学が経験に開かれているということがわかる。この章では、「経験に開かれている」ということの内実をより詳しく考察し、認識活動といった意味での経験一般に開かれているだけでなく、自然科学の探求と論理学の探求が相互に補い合うという関係に立っていることを明らかにする。また、その際、現代における形而上学と自然科学の関係をめぐる問題についても論じ、この問題とヘーゲル論理学をめぐる問題が接続可能であることも示す。

第III部「論理学と目的論」では、「概念論」第2篇「客観性」第3章「目的論」のテクストを軸に、『大論理学』に含まれる、人間の行為に関する議論と、心身関係に関する話題について論じる。

第9章「行為論としての目的論」では、「目的論」章前半でのヘーゲルの叙述をもとに、目的論の箇所が人間の行為を扱った箇所であることを明らかにする。その際、ヘーゲルが「暴力」と「理性の狡智」を対比させながら、人間の行為の特徴を描き出していること、また、このことが、発展史的にも裏づけられることを論じる。

第10章「目的論と心身問題」では、「目的論」章の後半と「生命」章を一連の議論として読み解く中で、ヘーゲルがこの箇所で心身問題を主題化し、主観と客観の相互依存という見解を提示していることを示す。第9章における行為論としての目的論読解は、ここでの議論が『法の哲学』等で深められる実践哲学につながるという印象を与える。しかし、『大論理学』では、目的論で論じられる行為論は、実践哲学よりもむしろ心身問題というより形而上学的な問題に接続されている。またF、そこでヘーゲルは、心身の一体性・相互性を強調する議論を展開している。このことを、カントの『判断力批判』も参照しながら、「目的論」と「生命」の二つの章を包括的に扱うことで明らかにする。

以上三つの部にわたる議論を通じて、ヘーゲル哲学が閉鎖的で神秘的な体系ではなく経験に開かれた体系であること、また、彼の議論が認識論と形而上学をめぐる問いや心身問題をめぐる問いにおいて、現代の哲学においても未解決の重要問題に対して新たな視点を提示しうるものであることを明らかにする。

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