本論文では、バークリが自身の哲学を展開するにあたっていかなる方法を用いたか、という問いに一定の解答を与えることを目的として設定した。

 この目的を達成するために、本論文では『アルシフロン』第七対話に注目をした。このテキストの選定が本論文の目的の達成に資することは、少し説明を要するかもしれない。なぜかと言えば『アルシフロン』第七対話というテキストは、これまで多くのバークリ哲学解釈において、まったく採り上げられないか、採り上げられても言葉に情緒や行動に影響を与える側面があり、それは有意味性と結び付けられると『アルシフロン』第七対話でされていることのみを指摘するか、のいずれかであったからである。

 確かに『アルシフロン』第七対話で言葉に情緒や行動に影響を与える側面があり、それは有意味性と結び付けられるとされていることは指摘に値する。またBermanのようにその側面が宗教言語に適用されたことを『アルシフロン』第七対話の特質として挙げることもできるだろう。しかし、『アルシフロン』第七対話で真に問題として論じるべき点は他にある。それはそういった意味論的側面の結果として、バークリがそこで自身も哲学を展開するにあたって用いた新たな方法を開陳している点である。

 このように解釈しうることを、『アルシフロン』第七対話のテキストを大掴みに捉えることによって確認しておこう。これまでのバークリ哲学解釈のように、意味論的側面にのみ目を向ければ『アルシフロン』第七対話における議論は次のようにまとめることができる。

 『アルシフロン』第七対話冒頭でバークリと対立する立場を代表するAlciphronは、「恩寵grace」という言葉を具体例としてキリスト教を信じることは不可能であるとする議論を展開する。これに対してバークリ自身が採る立場を示すEuphranorは、それが表す観念が無ければ、その言葉は無意味であるというAlciphronによる議論が採る前提を否定することでAlciphronによる議論を論駁する。この前提を否定する過程で、言葉に情緒や行為に影響を与える側面があることが指摘され、それが有意味性と結び付けられる。

意味論的側面にのみ注目するならば、このような解釈はそれほど的を外してはいない。だがここかからさらに歩を進めることもできる。具体的に言えばAlciphronがいかなる背景に基づいて、前段落において割り当てられたような意味論を採るかを考えてみる。すると『アルシフロン』第七対話は、前段落のような解釈とは異なった相貌をみせる。哲学的営為で言葉を用いられる際には、その言葉は有意味でなければならない。仮にAlciphronが考えるように、表す観念が無ければ、その言葉は無意味だとしてみよう。すると言葉が有意味な際には、その言葉には表す観念があることになる。だとすれば哲学的営為は観念に依存して遂行されることとなる。

この背景を念頭に置いてバークリによるAlciphronが採る意味論に対する論駁を捉え直してみよう。既に指摘したようにバークリはAlciphronによる意味を巡る主張を論駁する。しかし、哲学的営為に言葉が用いられる際に、その言葉は有意味でなければならにという主張を否定はしない。そうであるならば、Alciphronによる意味を巡る主張を論駁し、新たな意味を巡る主張を提出することは、新たな哲学的営為の遂行の仕方、すなわち哲学を展開する際に用いる方法を構築することにもなると捉えることができる。

このような捉え直しは、『アルシフロン』第七対話のテキストによって裏書される。というのも実際に『アルシフロン』第七対話、特にその後半からは新たに構築された哲学的営為を遂行する方法を抽出することができるからである。『アルシフロン』第七対話から抽出された新たに構築された方法は、以下に挙げる三つの特徴を備えている。

第一にその方法は、観念無しに記号のみ遂行されると特徴付けられている。それは観念の比較から切り離されて純粋にことばのうえのpurely verbal論証とされる。純粋にことばのうえの論証は、記号間の関係、言い換えれば定義に基づいてのみ論証が進められていく。

第二の特徴として、既に述べているがバークリが提唱する意味論との深いつながりを挙げることができる。Alciphronによる意味を巡る主張を論駁し、新たな意味を巡る主張を成すことで新たな方法は構築することに繋がる。言い換えればこの新たな方法がいかにして構築されたかを巡る分析は、情緒や行動に影響を与える言葉は有意味であるという意味論的主張をバークリがどのように受け入れたかという考察と不即不離である。

そして観念無しの記号のみによって遂行されるにも関わらず、新たに構築された方法は観念の探索と対とされていることを第三の特徴とすることができる。第一の特徴として挙げたように新たに構築された方法でEsse is Percipi原理や知覚の異質性を論証する際に論証は純粋にことばのうえのものとして遂行される。だがこのような論証の遂行のみによって論証が終結させられることはない。そのような遂行に加えて、論証の結論に反する観念の有無の探索がおこなわれる。別の言葉で言えば純粋にことばのうえの論証と観念の探索は対を成している。さらに注意しなければならないのは、この観念の探索は自分自身によってのみ成されるのではないということである。それは他者によっても成される。

本論文ではこれら三つの特徴それぞれについて考察を加えていった。この点に留意しながら各章で考察された内容を概観し、かつそれがいかにして経験しえぬものと関連付けられるかを確認していこう。

「全体への視座」と題された1章に続く2章では主に第一の特徴を採り上げた。具体的には『哲学的評註』でEsse is Percipi原理を導き出す論証を示すか否かについての態度に変遷がみられることを確認し、『人知原理論』「序論」では言葉を純粋のことばのうえのものとして用いられる代数のように使用する論証が提案されていることを示した。

3章では第三の特徴について論じた。『人知原理論』では、純粋にことばのうえの論証のみでは不十分であることが示されている。このことを梃としてEsse is Percipi原理を論証する際にもみられるように、純粋にことばのうえの論証に加えてその結論に反する観念の有無の探索が成されなければならないとされていることを指摘した。

第二の特徴は4章と5章で扱った。4章ではトランドによる『神秘なきキリスト教』を『アルシフロン』第七対話の背景として考えるための準備作業として『神秘なきキリスト教』における主張を瞥見した。その結果として『神秘なきキリスト教』では、信仰という行為と有意味性の結び付きが問題とされていることを示した。この4章での準備作業に基づいて、5章では情緒や行為への影響と有意味性が同意という概念によって結び付けられていることを明らかにした。

6章と7章では、第三の特徴を巡る考察を展開した。Esse is Percipi原理について、バークリは自身で観念を探索した後に、常識をもつ素朴な人に観念の探索を依頼する。また知覚の異質性を巡っては、常識をもつ素朴な人の意見は否定され、モリニュー状況の人に観念の探索が依頼されている。この参照される他者の差異を6章では次のように解釈した。Esse is Percipi原理においては、哲学者は哲学的言語による偏見にまみれて、観念の有無を間違えるかもしれない。このことから素朴な人に観念の探索がまかされる。一方で知覚の異質性の場合には、神の言語としての視覚に慣れ過ぎた素朴な人びとではなく、それを未だ習得していないモリニュー状況の人に観念の探索は託される。このようにEsse is Percipi原理と知覚の異質性というバークリ哲学の中核を成す概念で、他者による観念の探索が重要な意義をもっている。

そこで7章では、モリニュー状況の人について精査することによって、そもそもこのように重要な意義を担う他者はどのように性格付けられるかを明らかにしていった。モリニュー状況の人はそうでない人がまったく経験しえぬ観念の探索の経験をもつ。それと同様に奇跡を目の当たりにしたパウロも同様にそうでない人が経験しえぬ観念の検索の経験をもつ。というのも経験可能であったり、想像可能であったりすれば他者に観念の検索を依頼する必要が無いからである。言語による偏見という観点からは、モリニュー状況の人と素朴な人はそうでない人からみた構造が同じであった。この同型性から考えて哲学者からみて常識をもつ素朴な人による観念の探索は、パウロやモリニュー状況の人と同様に経験しえぬものとなる。

7章までの考察を踏まえれば、問題となるのは、経験しえぬものとしての観念の検索をどのようにして言葉を介して伝達されるかということである。この点を明らかにするために8章では、キリスト教について信仰がいかに伝達するかを考察した。キリスト教は認識論的権威に基づいた同意によって伝達されることが明らかになった。

本論文での考察をまとめれば次のようになる。観念とは切り離された記号の使用は、純粋にことばのうえの論証として規定された。それは記号間の関係を思念として捉えて、その関係のみで記号が用いられていくことによって遂行される。

 しかし、純粋にことばのうえの論証だけでは、価値が無いとバークリは考える。そのために論証の結果を反証する観念が無いか否かを確かめる観念の探索が純粋にことばのうえの論証には対とされる。これによって純粋にことばのうえの論証によって形成された知識はときには否定され、ときには肯定される。このような営みによってバークリは哲学が進展すると考える。

 観念の検索は自分自身が問題となっている観念をもつか否かを確かめることに尽きない。それは他者による観念の検索も想定されている。この内実は常識をもつ素朴な人びとやモリニュー問題の考察によって明らかになった。それに依れば言語による偏見の影響や本質的にそうであるゆえに、わたしたちは自分自身が経験しえぬ観念の有無を検索した他者の言葉を介して知り、それに基き自身の論証によって産み出された結論を否定して棄却したり、肯定して保持したりする。この際に他者の言葉を信じる基盤は、相手の認識論的権威に基づいた同意である。

このようにまとめられるならばバークリによる哲学的営為は、すぐれて経験しえぬものに依存していると考えることができる。