日本における中国映画の受容 ――中華人民共和国建国(一九四九)以後

蓋 曉星

劉文兵は『中国一〇億人の日本映画熱愛史』[1]『証言 日中映画人交流』[2]『日中映画交流史』などの著書において、戦前から現在に至るまでの日中映画交流、主に中国における日本映画の受容について数多の研究結果を挙げている。しかし、「日本における中国映画の受容」については劉博士の業績を含めてまだ十分な研究活動は行われていない。特に、中華人民共和国が建国されてから現代までの時間軸を縦軸に据え、中国映画が日本においてどのように受容され、どのような中国(人)のイメージを構築したのかについて考察する研究は、中国映画研究全体を見渡してもまだなされていないと言える。

本論文はそうした研究を行うべく、日本で上映された中国映画の中から、特に重要視すべきと考える二〇世紀以降の中国を舞台にした作品を七作品選び、新たに発見した一次資料にも依拠しながら日本人の中国観を論述した。その七作とは『白毛女』(一九五〇)、『不屈の人びと』(原題『烈火中永生』、一九六五)、『黄色い大地』(原題『黄土地』、一九八四)、『赤いコーリャン』(原題『紅高粱』、一九八九)、『青い凧』(原題『藍風筝』、一九九三)、『世界』(二〇〇四)、『長江哀歌』(原題『三峡好人』、二〇〇六)である。

『白毛女』は日中国交正常化以前の日本において、日中友好団体などが自主上映を行い、戦後初公開の中国映画として劇場でも上映され、日中文化交流の新しい礎石となった作品であり、本論文で第一に取り上げるべき中国映画であると考えられる。『不屈の人びと』は日本でもベストセラーになった小説『紅岩』を映画化した作品であり、文化大革命勃発寸前に日本で上映され、当時の左傾化した社会風潮の中で革命精神に対する共鳴を喚起した作品である。『黄色い大地』(以下『黄』と略す)以後の五作はいずれも日本で何らかの賞を受賞するか、『キネマ旬報』ベスト・テンやベスト・トゥエンティーに入選した作品であり、数多くの映画評論に取り上げられ、一般の映画ファンにも広く知られている。

さらに、二〇〇一年日本で公開され異例なヒット作となった『山の郵便配達』(原題『那山、那人、那狗』、霍建起監督、一九九九)の日本における受容については終章で補説する。七〇年代は文化大革命により、中国の映画製作は停滞していた。本論文では革命様板戯『白毛女』を考察対象とした。

各章の内容は以下の通りである。第一章から第二章においては、中華人民共和国建国初期の一九五〇~六〇年代に、『白毛女』や『不屈の人びと』といった中国共産党のプロパガンダ映画が政治家或いは民間交流団体のルートで日本に輸入され、上映されることにより受容されてきた状況を述べた。『白毛女』は日本において「中国を見る窓口」として受容されたと考えられる。一方『不屈の人びと』は日本の学生の間で革新思想への支持が広がっていた時期に上映された作品であった。そしてこの二作がともに日本の鑑賞者に革命精神への憧れを喚起させた点を指摘した。

次に八〇年代のニューウェーブ映画を取り上げ、日本ではそれらが共産主義や革命思想から離れた普遍的な芸術性において評価された点を論述した。『黄』は「シルクロードブーム」が起こり中国文化、さらには中国大陸そのものに対する興味が広く喚起されていた時期に上映された作品であり、日本における中国に対する知的なコミュニケーションを生み出す媒介としての役割も果たしている点などを指摘した。そして、日本人はこの映画から、「革命」或いは共産党のイデオロギーを超越して、峻厳な自然に包まれた辺境において因習という人類普遍の現象に対峙する中国人という像をつくりあげた、という考察を加えた。

 第三章の『紅いコーリャン』(以下『紅』と略す)においては、日本人の論評の特徴として、批判的な内容が少ないこと、暴力的な日本軍描写に対する批判・言及が少ないこと、共産党への批判を読み取る論調が見られることを指摘した。その一方で、日本の一般の鑑賞者からのレビューでは、中国人のレビューが言及している「生命力/野性のパワー」についての言及は比較的少なく、映像表現(特に色彩表現)への言及が多数みられ、中国という枠を越えた世界的な作品として受容されたことも指摘した。さらに、日本人の映画評論家は従来の中国映画との違いを強調しているが、本章では、『紅』には古典的人民映画へのオマージュが見られる点を考察した。そのうえで、『黄』に対しては「共産党のイデオロギーの是非を超越している」という見方が主流になっている一方で、『紅』に対しては共産党への批判精神を見出す評論が多く見られることの一因として、一九八九年六月に勃発した天安門事件を挙げた。

 第四章では、文化大革命をテーマにした『青い凧』(一九九三年日本公開)について、日本では「政治映画」として捉えられる傾向があると分析し、この映画を通じて「政治状況に翻弄される人々」という中国人像が生まれていると述べた。そしてこの映画の政治性に注目する日本人の批評家が見落としがちな表現、さらに必ずしも政治性に還元できない描写を考察し、監督が意図していた「政治性」以外の叙述、例えばヒロインの主体性の獲得や子供の葛藤を表す心理描写などが看過されていると指摘した。

第五章では、まず二〇〇四年日本公開の『世界』について、日本の映画鑑賞者は中国社会の現状、特に中国「低層」庶民の生活様式に注目しており、監督が作品のテーマに据えていた「新旧の価値観が衝突する中での主人公の精神的葛藤」を看過していることに注目し、日本人の鑑賞者は激変する中国社会に目を奪われ、個々の中国人の内面に注目することは少ない点を考察した。また『長江哀歌』(二〇〇六年日本公開)の場合、中国側は廃墟に直面する人間が主題であると見ているが、日本側は人間を圧迫するダム、すなわち社会あるいは国家のあり方が主題であると捉えていることを明らかにし、個人の存在よりも、個人を支配すると見なされる社会のあり方に注目していると指摘した。また、賈がこれらの作品のテーマに据えた「価値観の転換・衝突」「イリーガルな生命力」は、日本人の鑑賞者には十分には伝わっていない可能性があると論じた。

終章では総論として、中国映画は総じて「中国を知る窓」として受容されてきたと述べた。さらに、それまで取り上げた作品とは異なるケースとして、『山の郵便配達』の受容について分析を行った。

一九七二年の国交正常化以前は、中国では映画を通じて新国家の一体感を醸成しようとする試みがなされ、共産党の理想を提示するために、プロパガンダ的な映画が製作されていた。この時期の日本では、中国に関する情報が乏しかったため、中国映画に現れる光景をリアルな中国(人)像として素直に受容する傾向が強かった。

 日中国交正常化が実現し、さらに七〇年代文革による映画製作空白期が終わり、八〇年代の鄧小平体制の改革開放期に至って、中国映画は新しい局面を迎えた。即ち共産党イデオロギーから脱皮を試みる新しい波が起こったのである。

 この時期に製作された中国映画の一部は、国際的な映画界で新鮮な驚きとともに迎えられ、芸術的価値が高く評価された。長年アジア映画を代表する存在として脚光を浴びていた日本映画を凌ぐ勢いを見せたのである。そして、日本における中国映画の受容のあり方も変化した。

 日本の批評家や研究者、チャイナ・ウォッチャーたちは、これまでの中国映画の製作者を、いわば当局の意を体現する「技術者」と見做してきたが、鄧小平時代以降、中国映画の監督を「芸術家」として捉え、どのように「中国」を撮るのか、或いは表現するのかに注目するようになった。彼らがつくり上げた映像から、彼ら自身の中国イメージを読み取ろうとしたのである。言い換えれば、日本の批評家らにとって、「中国映画を見る」ことは中国(人)に対する知識を得、それを通じて、彼らの抱いている中国への想像を検証することでもあった。

 一方、一般の鑑賞者は、日本映画、あるいは欧米映画には見られない、自らにとって新鮮なストーリーや映像を求めて中国映画を鑑賞した。結局はどちらも、「中国」という国家の枠を外して映画を受容することはなかったのである。

 本論文で取り上げた作品についての日本の論評では、「中国の歴史」「中国人の境遇」「中国の風景」「中国人」がキーワードとなっており、日本人にとって、「中国映画」は「中国」を映す鏡であるかのように扱われている。中には、中国政府の検閲制度や表現の不自由さなどの中国特有の事情から、必要以上に映画の背景を穿鑿しようとする傾向も現れた。監督が映画を通して表現しようとした個人の心情や生きざまについては看過されることもある一方で、「共産党イデオロギー」に対峙する製作者の姿勢が常に注目を集めた。

また、そうした専門家たちの論評と一般の観客の好みが合わないこともあれば、中国国内と日本での反応や興行成績に大きな差異が生じる場合もある。その代表例が、日本で異例のヒット作品となった『山の郵便配達』であった。中国の観衆は本作品のストーリーにリアリティーを感じていないが、日本人にとっては、「兔追いしかの山・・・・」という童謡「ふるさと」のような、ノスタルジーに富んだイメージを喚起させる映画であった。「広大な自然の中で、貧しいながらも牧歌的に、周囲との絆を大切にして生きる」という日本人が抱く中国人像に合致し、さらにそのイメージを鮮明にした作品であり、中国の社会情勢や日本におけるその時代特有の中国観からの影響はみられない。すなわち、日本人にとっての中国映画には、イデオロギーや製作背景との関連が顕著な作品と、必ずしもそのようにはいえない作品の二種があると結論付けた。



[1]集英社、二〇〇六年。

[2]集英社、二〇一一年 。

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