インドネシアの「預言者の医学」―神の癒しを媒介する技術―

嶋田 弘之

本論文は、インドネシア共和国ジョグジャカルタ特別州での現地調査を基にして、現代の「預言者の医学」文化を従来とは異なる観点から考察することを目的として書かれたものである。筆者が取り組もうとした問題は、次の2つに大別される。第1の問題は、インドネシアのイスラーム社会における伝統医療研究の対象が、呪文を含む「超自然的」な治療法に偏重してきたことである。この種の治療法も伝統医療文化の構成要素であるには違いないが、「預言者の医学」においては、預言者ムハンマドの医療活動の伝承に基づいて生薬療法や吸角法が積極的に活用されている。それにも拘わらず、これらの治療法は単なる民間療法として宗教研究の対象になりにくかった。第2の問題は、「預言者の医学」においては聖典朗唱と神への祈願による治療法ルクヤがイスラーム的に唯一正当な呪文療法と見なされていることの背景が説明されてこなかった点である。言葉の力による治療法として、それは「超自然的」な治療法の枠組みの下でインドネシアの他の呪文療法と同列に理解されやすい。要するに、「宗教的」な伝統医療の特徴を「超自然的」な治療法に見出す研究者の前提によって、以上の3つの治療法をイスラームの本質的な一部だと考える「預言者の医学」の実態が明らかにされてこなかったのである。

以上の問題に取り組むために、「預言者の医学」を便宜的に狭義と広義に分け、二元的観点からこの医療文化を考察するのが本稿の方法論である。預言者ムハンマドのスンナ(慣行)を伝える教典『ハディース』には、彼が実際に用いた治療法として生薬療法・吸角法・ルクヤが記録され、ムスリムはその伝承に従ってこれらの治療法を模倣的に利用する。このような教典と技術利用の直接的な因果関係を指して【狭義の「預言者の医学」】と呼ぶが、この観点からだけでは、ムスリムはただ教典の記述に追従しているだけだという浅薄な「預言者の医学」論になりかねない。そこで【広義の「預言者の医学」】をイメージし、2つの視点を考察に導入する。第1の視点では、3つの治療法を観念的に支える複数の医療観を想定し、第2の視点では、この伝統医療をイスラーム復興の文脈内に置く。これらの視点によって、ムスリムが預言者の医療的スンナに従うことの根底にあるイスラーム的な動機を明らかにすることができる。

以上の視点を導入するにあたって、まず第3章では医療史を概観し、そこから抽出される複数の医療観と古代ギリシア医学の関係性を理解する。その医療文化を現在に伝える『ヒポクラテス全集』には、病気の原因と治療を身体レベルで捉える身体還元型の医療観が発見される一方、その著者たちは決して科学の名の下に超自然を否定したわけではない。病気現象の背後に神意があることを想定していたのである。彼らによれば、神は万物を動かしているが、自然現象は人間の理知的考察の範囲内にあるのだから、病気の原因は自然の観点から説明することが可能である。その自然は宇宙と人体の照応関係において捉えられ、自然の原理に従うことが個人の健康を実現する唯一の道だと考える天人統合型の医療観が成立している。自然を重視するこれら2つの医療観が彼らの神霊観と対立しなかったのは、宗教的専門家による治病儀礼を医療技術とする神霊交渉型ではなく、神霊的世界を干渉可能な対象としない神霊分離型の医療観を彼らが有していたからである。

以上の3つの医療観を、現代インドネシアで「預言者の医学」ビジネスを展開する企業HPAIの商業標語「神的な」「自然な」「科学的」の3語に重ね、第5章ではそれらの語をヒントにこの伝統医療文化を考察する。イスラームの教義によって、HPAIのセラピストたちは病気を癒すのは神だけだと語る(「医療的タウヒード」)。だからと言って、彼らはただ神に病気治癒を願うことに終始するのではない。近代医学の知識によって病気を理解し、ムハンマドの慣行に従って生薬療法や吸角法を用いる。これらの治療法は簡易な民間療法であるが、日常的な保健活動にそれらは最適だと彼らは見なす。神は天然資源を創造し、人体に自然治癒力を備え与えた。人間が生来ムスリムであることを意味する天性によれば、神の命令に従って生きることと、神が創造した自然の摂理に従って生きることが健康の条件である。つまり、生薬療法と吸角法は神の使徒のスンナであり、かつ自然を活かした古来の治療法であることにより、天性に適合的な医療技術だと見なされるのである。こうしてイスラーム的な色彩を持つようになる天人統合型の医療観は、神霊分離型の「医療的タウヒード」と結びつく。自然を通じて神の癒しの力は働くのである。むろん、自然にはそれ自体の法則があり、それを正しく理解しなければその力を活かすことはできない。そのため現代人ムスリムにとって近代医学は不可欠であり、その身体還元型の医療観によって彼らは伝統的な治療法の医学的正確性を保証するのである。

この医療技術の正確性という点を巡って、呪文療法がインドネシアの伝統医療文化に固有の争点を形成していることも第5章において明らかになる。神の啓示の言葉である『クルアーン』を用いるルクヤは、その章句を朗唱するにあたって一言一句の変更も許されず、発音も正確でなければならない。自分の言葉で祈願するという比較的自由度の高いルクヤもあるが、こちらはその自由裁量性ゆえにイスラームからの逸脱の危険性を孕む。個人が思うままに文句を選ぶことで、「医療的タウヒード」に反するような祈願になりかねないからであり、だからこそ、ムハンマドの模範的祈願集が社会に流通しているのだと思われる。つまり、ムハンマドが残した伝統に従うという条件を備えることによって、ルクヤはイスラーム的に正当な呪文となり、逆に、伝統に従わないことによって呪文は不正になる。インドネシアにおいて、預言者のスンナに従わず自己流の呪文を創作する伝統治療師は「ドゥクン」と呼ばれる。

行政的にも「超自然的」な伝統治療師に分類されるドゥクンは、物理的観点から理解可能な生薬療法・吸角法と、正当にイスラーム的だと見なされるルクヤとは一線を画する種類の技術を扱う治療師としてイメージされる。「神的な」「自然な」「科学的」の語によって自己の伝統を定義する「預言者の医学」の信奉者たちは、ドゥクンを「多神教的」「超自然的」「非科学的」という対極的な特徴によって描き出す。自らの特殊な霊的能力に基づいて神霊に働きかけて治癒能力を発揮するドゥクンは、「ドゥクンにしか分からない」独自の神霊交渉型の医療観を打ち建てる。それを象徴するのが「ドゥクンにしかできない」自己流の呪文であり、そうして医療技術を独占することは、「誰にでもできる」スンナの治療法を持つ「預言者の医学」の信奉者の目に教義上最大の罪悪として映る。なぜなら、それは『クルアーン』を通じて「誰にでも分かる」ように啓示された「医療的タウヒード」とは別の医療観を「捏造する」ことであり、神の治癒能力に人間の治癒能力を併置するその医療観は「多神教」を意味するからである。

同じ社会の中にこのようなドゥクン医療が見出されるからこそ、「預言者の医学」はイスラーム復興の文脈で「宣教」の役割を担うことになる。第4章で概観するイスラーム復興は教典主義とスーフィズムの2つの側面を持ち、教典主義の側面からは、ムスリムが『ハディース』に従い医療的スンナを忠実に模倣しようとする姿が明らかになる。しかし、イスラームの教義は形式主義的なスンナの模倣を戒める。預言者ムハンマドは、礼拝を行う時には「あたかも目の前に見るように」神を崇めたのだし、病気に対処する際にも「あたかも目の前に見るように」神を思いつつ、ハチミツを口に含み、瀉血を行い、啓示の言葉を唱えた。彼のこのような精神のあり方こそが本来的なスーフィズムだと理解され、イスラーム復興においてはその精神性の模倣を促す側面も形成されてきた。つまり、医療技術を用いるに際して内面化すべきとされる「医療的タウヒード」はイスラーム復興のスーフィズムの側面に根づき、医療的スンナの模倣はその究極的な教えを再認識するきっかけをムスリムに与えるがゆえに、宣教活動の重要な拠点を成すのである。

以上のように、「医療的タウヒード」を分岐点として区別されるインドネシアの2つの医療文化は、共和国宗教省の政策を通じて定義されている「宗教(〔イ〕agama)」と「信仰(〔イ〕kepercayaan)」の区別と連続性を持つ。唯一神信仰・預言者・教典などイスラーム的な意味での「宗教」を構成する要素を保有しないものは「信仰」に属すると見なされるこの国では、神の創造に基づく前者に対して、後者は人間の手による人工物と捉えられる。それゆえに、自己流で創作される呪文を用いるドゥクン医療は、その創作性・人工性という特徴によって「宗教」ならぬものを象徴する。対照的に、「預言者の医学」の信奉者は模倣性・自然性によって自己の伝統を定義し、それを神の創造に基づく「宗教」の一部として位置づける。彼らは預言者の伝統を模倣し、科学的に自然の知識を深めつつ生薬療法や吸角法を用いるのであるが、重要なのは、正にその時に彼らが神という超自然的な存在の力を感じ取ろうとすることである。つまり、インドネシアの「預言者の医学」文化が示唆するのは、伝統的形式を反復する日常の中で自然への見識を深め、そこにある神の力に気づく能力こそが「宗教」であり、それは必ずしも修行や儀礼といった非日常的空間で神を経験する類い稀な能力だとは考えられていないことである。

 

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