京城帝国大学は6番目の帝国大学として、日本統治下の朝鮮半島に設立された大学である(1926年の大学本科開学に先立ち1924年に予科が開設された)。開学当初は法文学部・医学部の2学部であったが、1941年には理工学部を増設し終戦時には3学部体制となっていた。本研究の課題は帝国大学としての制度・組織を備えたこの京城帝国大学(以下、京城帝大)が「外地」朝鮮においていかに展開し、先行する「内地」の帝国大学をはじめとする高等教育諸機関とどのような関係を結んだのかを実証的に明らかにすることである。近代日本が築いた社会の諸制度への「外地」からの接続過程や、「内地」・「外地」を跨ぐ高等教育諸機関や学界との相互関係において、京城帝大が果たし得た役割と課せられた制約とを具体的に考察することにより「植民地大学」を論じる土台を構築することを目指す。本研究は開学当初より設置されていた法文学部と医学部を考察対象とし、本編全6章および補論からなる二部構成をとる。

 

第一部 法文学部の制度・組織

 第一章「組織・人事・学生動向から見る法文学部」では法文学部法科系講座に着目することで高等文官試験合格者を多数輩出した構造を解明し、多くの先行研究が関心の対象としてきた東洋・朝鮮文化研究とは異なる京城帝大の教育・機能上の特徴を指摘した。これまで京城帝大出身の朝鮮人官僚については批判的な考察対象とされ、その人数の多さから京城帝大は「親日派」養成機関として評価されることもあった。本章では法科系学科着任教員の経歴調査および学科の具体的な課程分析と複合学部の先例とされた東北・九州両帝国大学法文学部との比較作業によって京城帝大が朝鮮社会における社会移動の回路のひとつとして機能したことを論じた。

 第二章「朝鮮半島出身者の官界進出」では京城帝大生の高等文官試験受験―官界進出について、いわゆる在朝日本人学生や京城帝大以外の学校を卒業した朝鮮人学生も考察対象としながらより具体的に京城帝大という教育機関の効果と制約とを論じた。大学設立の産婆役となった朝鮮総督府は、高等文官試験合格者に限らず卒業生を積極的に朝鮮総督府に就職させていた。ごく少数の学歴エリートである京城帝大卒業生は朝鮮統治に関わる政治エリートでもあったが、彼らは京城帝大卒業という同じ学歴を持ちながら、就職後は日本人と朝鮮人とで民族籍の違いにより異なる待遇を受けるという帝国日本統治下の差別構造を体現する存在でもあった。

 高等文官試験を経て官僚になる道は「内地」の帝国大学とくに法学部学生にとってはエリート・コースとしてごく一般的に志向されたものである。朝鮮官界においても東京帝大閥は厳然とその影響力を及ぼしていたが京城帝大も朝鮮総督府に卒業生を送り出し、朝鮮半島出身者を多く含む彼らは「純鮮産官僚」と呼ばれ東京帝大閥に対抗しうる存在として期待されもした。注意したいのはこうした人材輩出機能が大学設立時に積極的に想定されていたものではないという点である。法科系学科の設置はむしろ忌避されたり存在が疑問視されたりするなかで、文科系との掛け合わせとして法文学部という複合学部が設けられ、そこに集められた法学実務家出身の若手教員を中心に人材輩出のしくみが形成されていったのである。

 対照的に大学設立計画時には中等教員養成という期待がかけられ、大学の使命とされた東洋・朝鮮研究に従事する教員配置が行われたものの、学生の希望とは必ずしも一致せず制度改編や定員調整を余儀なくされたのが文科系学科であった。

 第三章「「傍系的」学生の受け入れから見る法文学部の制度的展開」では文科系学科において見られた、法科系では極めて例外的な存在である「傍系」学生つまり予科や高等学校といった「正系」課程を経ることのなかった中等教育修了者を受け入れるという選科制度の運用実態を明らかにした。予科制度を採ることにより学部本科の入学定員を確保していたはずの京城帝大において、「傍系」学生の受け入れが行われた背景には法科系学科への学生人気偏重があった。選科制度は非予科出身者に教育機会を提供したほか、定員を充足しない文科系学科の定員調整弁としての役割をも持っていたことが指摘できるのである。またこうした選科生は学部の定員を埋めただけではなく、法文学部が期待されていた中等教員養成という人材輩出の側面においても一定の成果を上げていたことを確認した。

 

第二部 医学部の制度・組織

 第四章「医学部における「医局講座制」の展開」では医学部独特の講座制すなわち医局講座制の展開を考察することで東京帝国大学を頂点とする医界の序列の裾野が朝鮮にも広がったことを論じた。京城帝大医学部は法文学部とは異なり事実上の前身となる機関(朝鮮総督府医院・京城医学専門学校)を持ったが、京城帝大医学部の特徴はこうした前身との連続性で説明される地方病研究や予防医学だけではなく、帝国大学として講座制が採られ組織が再編されたことによって明らかになった教授間の対立や学位授与を通じた影響力行使にも見出すことができる。とくに臨床医の動向からは東京帝国大学の医局人事の影響を受けた京城帝大医学部も帝国大学医学部的振る舞いを見せるようになること、具体的には自校出身者や医局員を就職させうる病院や教職を確保しようと朝鮮半島内の新設医院やさらなる「外地」=満洲方面に影響力を拡大していったことを指摘した。

 第五章「博士学位授与機能から考察する医学部の「教室」」では大学の持つ学位授与機能に注目することで、講座ともまた異なる医学部の教室という単位を考察し、これまで存在が自明視されてきた「志賀閥」や「東大閥」といった医学部内派閥の実態を明らかにした。教授が主宰する教室組織は、その内部においては出身校や民族・性別といった差異を解消するかのようなうごきも見せた。しかし学位授与にかかわる権力を掌握する教授らの個人・派閥間の対立が学生に不利益を与えるなど、またある一面では医界における医師の序列化を進めたことを明らかにした。

 第六章「医師免許保有者の帝国内移動と京城帝国大学」では医学部で研究活動を行った医師免許保有者が京城帝大出身者に限られず、朝鮮半島や「内地」の他医学校出身者をも含むことに注目し、彼らの在籍を可能にした専攻生制度を取り上げることで医学研究機会の実際および博士学位請求・授与をめぐる「内地」・「外地」の大学の相互関係を明らかにした。京城帝大医学部は医師免許保有者に広く研究機会を提供しており、その研究を対象に学位請求が京城帝大に行われたが、京城帝大で行われた研究であっても「内地」の大学に学位が請求される場合もあった。こうした研究成果の移動の方向を決定づけたのも所属する教室すなわち師事した教授の京城帝大医学部内における影響力であった。とくに朝鮮人医師免許保有者にとっては学位請求・取得が「内地」医学校との関係締結を余儀なくされる契機となる可能性が生じており、京城帝大内部の人間関係とはまた別に、「内地」・「外地」を跨ぐ師弟関係の形成をもなかば強制されることになっていたことを指摘した。

 このような大学内外で形成・展開された権力関係が突如解消されることになったのが1945年8月15日の玉音放送による衝撃である。学位授与機能を独占していた京城帝大は閉校処理の一部として医学部で研究を行っていた自校出身者や他医学校出身医師免許保有者らに学位請求を行わせ、極めて短時間に大量の学位を認定した。十分な史料的裏付けのないまま「解放博士」「駆け込み審査(による学位授与)」と評価されることのあった終戦後の学位授与実態とその過程を補論「京城帝国大学医学部における一九四五年八月一五日以降の博士学位認定について」で明らかにした。

 

 以上の考察を通じて、京城帝大は必ずしも揺るぎないひとつの実体あるいは統制された組織ではなく、学部や学科によって学生・教員構成の特徴が異なったり学部間・講座間の利害対立が存在したりすることが明らかになった。その組織を支える制度も、大学設立を準備した朝鮮総督府や大学設立委員会の当初の想定を越えて、実情に応じて試行錯誤的に改編が行われたことが確認できる。また京城帝大の営為は日本統治下の朝鮮半島内で完結するものではなく、教員の採用・配置の面ではもちろん、大学で教育をうけた高等教育人材としての学生・出身者の活動や京城帝大が提供する研究機会が「内地」の諸制度や教育・研究機関に結びつけられていたことも指摘できる。教員組織は講座制の運用において、学生動向では法文学部の高等文官試験受験、医学部の博士学位請求においてとりわけ顕著に「内地」/「外地」の非対称的な関係を確認することができるのである。

 こうした関係においても京城帝大の組織や構成員が既存の制度や慣行を受け入れ、そこで存在感を発揮することが可能ではあった。しかし帝国日本が形成してきたあらゆる階層構造に後発の帝国大学として位置づけられ、その枠組みから自由ではなかった部分があることは京城帝大に課せられた制約とも言えるであろう。それは「外地」の帝国大学であるということだけが作用したものではないが、個人の努力や能力によりあらゆる制度への接続が可能であるという平等を建前とする制度運用がなされながらも、実際にはその接続がなかば強制的に行われたり、さまざまなかたちでとくに被支配者である朝鮮人が、また場面によっては在朝日本人の活動が「外地」出身であることを理由に制限されたりする側面があったという点に植民地大学としての京城帝大の特徴や帝国日本の朝鮮統治を見出すことができるであろう。

 なお本研究で扱うことのできなかった諸問題については結章において課題と展望を示している。