韓国における大卒ホワイトカラーの起業行動-IMF危機以降の自営業層の変化-

李 莎梨

1.研究目的(1章)

韓国では,1997年に発生した経済危機(IMF危機)を契機として,民間企業が雇用の柔軟化に本格的に取り組みはじめるとともに,ホワイトカラー雇用者を対象とする雇用調整(整理解雇,名誉退職など)を強化した。その結果,ホワイトカラー雇用者の職業移動が程度を増したが,そのなかには自営業層に移動する者も決して少なくなかった。

韓国の自営業層を対象とする従来の社会学・経営学的な先行研究は,その大半が,計量的アプローチによるもので,個人の社会的属性と起業行動との相関関係,自営業層への移動類型と所得との相関関係,ならびに階層移動の特徴については相当の研究の進展がみられる。そのなかには,中産層の自営業層への移動を下降移動と捉える研究もあるが,仮にこれが妥当であるのならば,IMF危機以降に数を増したとされる大卒ホワイトカラーの自営業層への移動(起業)において,彼ら,なかでもアッパーミドルに相当する者がなぜ,どのように起業したのかについて,退職・起業動機や社会経済的背景を含め,実証的に考察する必要が生じる。また,彼らの起業行動を詳細に分析することによって,ブルーカラーからの移動と零細経営を主体とするような従来の自営業者との違いを明らかにすることもできる。現代韓国のいわゆる「自営業層」は,実態として複合的な構成をとるにもかかわらず,先行研究では何かしら共通の属性を持つ単一のカテゴリーとして捉えられる傾向が強かった。これに対し本論では,自営業層を複合的な構成を持つものとして捉えなおし,なかでもアッパーミドルの起業行動に含意された社会経済的意味に注意を喚起する。

以上の問題意識を踏まえ,本論文では,1995年から2010年までの15年間を対象として,大卒ホワイトカラーの自営化について実証的に論ずる。なかでもIMF危機を契機に彼らの起業動機がいかに形成され,起業の準備がどのように行われたのか,事業をいかなる方法で維持したのかを事例を通じて考察する。これらの考察を通じて,起業の過程において彼らが保有する社会的資源はどのようなものであり,それをいかに活用しているのか,その背景にどのような階層意識が介在するのかを考察することで,韓国社会でアッパーミドルの自営化が可能となる社会的要因を明らかにするとともに,社会的資源を活用することがアッパーミドルにとっていかなる相互主観的な意味を持つのか,ならびに,自身の自営化をいかに下降行動になぞらえないようにしているのかを論証する。

 

2.分析結果(27章)

 第2章から第4章までは,起業を取り巻く韓国社会の構造的要因と諸条件についてマクロに考察した。

 第2章では,IMF危機による不況下で流動性を高めた労働市場に関連する諸変化を統計的に把握するとともに,IMF危機以前から単一企業での勤続年数が比較的短く,離職・入職の比率が高かったという点で,韓国ではホワイトカラー労働市場の内部化がそれほど進んでいなかったことを指摘した。しかも,賃金面では中年層より上で高年層に近づくほど同一企業で働き続けるメリットが低下するということが明らかになった。すなわち,韓国では,ホワイトカラー労働市場の内部化がもともと未成熟で雇用の流動性が高く,これがIMF危機を契機としてさらに高まったのだといえる。IMF危機直後には一時的に失業率が急上昇したが,その後すぐに低下したのも流動的な労働市場の賜物であったと捉えることができる。

 第3章では,失業率の抑制に貢献したいまひとつの要因である大卒ホワイトカラーの自営業層への流入を中心に,ホワイトカラー労働市場の流動性を別の側面から考察するとともに,自営業層の特質について論じた。従来の韓国社会では商売に対する社会的評価が低く,逆に,ホワイトカラーに対する社会的評価が高かった。にもかかわらず,人々は相当に高い比率で起業願望を有しており,起業を決意するにあたっては,「職場の体験」が直接的な契機となっていた。以上の考察を踏まえ,ホワイトカラーがなぜ起業意識を持つようになったのか,そしてホワイトカラーが起業分野をいかに選択したのかを検証すべき主題として指摘した。

第4章では,韓国の財閥企業におけるホワイトカラーの人事管理や人材形成の方式について考察するとともに,雇用環境の変化が労働市場の流動性にどのように作用したのかについて検討した。韓国の大企業では,大多数の人材に対して一様の教育方式を通じた業務能力の向上を図っており,経済発展による企業の規模的拡大の中で,経営者側はジョブ・ローテーションを通じてジェネラリストを養成する方式を少数の役員候補者のみに適用し,それ以外の多数の人材に対しては,特定業務のみを担当するスペシャリストとして養成する方式をとった。韓国の大企業で,入職口や昇進のキャリアパスなど,人事管理面における開放性の度合いが低かったにもかかわらず,職業移動が比較的容易であったことのひとつの背景として,このような人材形成の方式にみられる企業の壁を越えた共通性と汎用性の高さを指摘できるかもしれない。

第5章以降はホワイトカラー職出身者35名へのインタビューを通じて起業プロセスをミクロに考察した。

第5章では,起業動機形成の背景に退職の契機が深く関係しており,組織へのコミットメントの度合いが低い個人ほど自営業層への参入を目指す傾向が強いことを明らかにした。特に,他企業との接触が頻繁である営業・購買・生産・研究開発系の部門においては,長年培ってきた自らの業務ノウハウを生かすことにより,活用可能な起業アイテムを発見していた。一方で,IMF危機を契機に,組織に順応していた人々ですら「名誉退職」(早期退職者に対し企業側が退職金を20%ほど上乗せする制度で,定年間近の人々に対し,自発的に退職を促すことを目的とした)を迫られる状況が引き起こされたが,彼らの多くは社外の人々との接触を通じた起業アイテム探しに必ずしも熱心ではなかった。結果として,その多くが,飲食店など比較的安易な形での起業を余儀なくされた。

第6章・第7章では,大卒ホワイトカラーの起業と経営の実態を,「会社」経営と「店舗」経営の2つの類型に分けて考察した。まず第6章では,「会社」経営22事例の検討を通じて,「投機的経営」と「持続志向的経営」の2種類の経営スタイルを抽出した。両者のあいだには,実利の追求と経営の安定性において違いをみてとることができるが,同時にいずれの類型においても,自己の資産運用,あるいは安定的な利益確保のために事業するような実利志向と,地位確保のために事業するようなステータス志向の共存を見て取ることができた。そして,この2種類の志向性をともに実現するために,経営者は自らが有する人脈,すなわち「関係性」を,相手によって異なる役割期待や行為規範にそった形で活用していた。

第7章では,「店舗」経営13事例の検討から,経営スタイルとして,「生計維持的経営」と「拡大志向的経営」の2類型を抽出した。「生計維持的経営」では,家族,特に妻を主な労働力として,小規模経営から開始する傾向が強かったが,経営が安定すると事業規模を拡大する傾向もみられた。一方,「拡大志向的経営」の場合,起業当初から大規模な経営を試みるだけでなく,経営が安定すると明確な見通しがないままにさらに経営規模を拡大し,かえって経営が悪化する例もみられた。「店舗」経営においては,「会社」経営にみられたような実利の追求とステータス志向の両立,すなわち大型店舗の維持と利益の確保を長期間にわたって実現しうるような経営が容易ではなかったといえる。

 

3.まとめ(8章)

ホワイトカラー職出身者による起業行動において,利益の追求が重要な目的のひとつであったことは確かではあろうが,どんな形であれ利益が得られればよいというわけではなく,自らの所属階層やステータスにふさわしい経営方式として階層的同質性に対する考慮と選別的な人脈形成を見出すことができた。このように「選別化」を志向する人脈活用術を内面化していたからこそ,「会社」を熟練性をもって運営する能力,さらにいえば廃業しても立ち直れる能力を,起業と経営の各局面において発揮できたのではないか。これに対し,「店舗」経営者の場合,同業者のモイム等に参加して人脈を広げ,それを経営資源に転化する傾向が必ずしも強くは現れておらず,退職時までに形成・維持していた関係性を活用するに留まっていた。良質の人脈を形成し活用することがアッパーミドルという階層に留まるための手段であったとすれば,「会社」経営における関係性の使い分けや「店舗」経営における既存の関係性のみの活用は,韓国の中産層を民族誌的に研究した人類学者レット(Denise P. Lett)が指摘したステータス・ゲームの「戦略」のようにも捉えられる。そして,こうした戦略を用いて社会的地位が模索されたことの背景には,仲間とのステータス・ゲームに参加しつづけるためにはアッパーミドルとしての行動規範を遵守せねばならないという規則が介在していたのではないかと考えられる。このように捉えると,ホワイトカラー職出身者は,仲間とのステータス・ゲームに留まるために,退職・起業に際しても厳選された関係性を活用して自営化するしか途がなかったようにみえる。

以上,本論文では韓国のホワイトカラー職出身者による起業行動の特徴について,激しい競争社会において社会的に生き残るために,アッパーミドル的なステータス・ゲームの戦略として,関係性が選別,活用される様相を考察した。本論が,韓国の人々の自営化の要因を解き明かすためのひとつのたたき台になればと願う次第である。

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