本論文は、日本による植民地支配下にあった朝鮮において在朝鮮日本人中等音楽教員・音楽家がどのような活動を行っていたのかを明らかにし、それが韓国西洋音楽受容史においてどのような意義を持っていたのかについて総合的に考察したものである。

日本と韓国の西洋音楽受容史研究は、これまで相互に関係をもたない歴史として記述されてきた。すなわち、日本における西洋音楽受容史研究は、明治時代(1868~1912)に日本が近代国家を形成していく過程において受容された西洋音楽とそれへの日本音楽の対応という枠組みで、一方、韓国における西洋音楽受容史研究は、西洋音楽の自主的受容をめぐる議論とともに、植民地宗主国である日本の音楽政策とそれに対する朝鮮の音楽面での従属という枠組みで行われてきた。

しかし、日韓両国における西洋音楽の受容は、近代という同時代性をもつ支配国対被支配国という激動の歴史の中で行われてきたため、それを別々に論じるのではなく、一つの流れとして捉えなければならない部分が数多くある。特に、韓国は日本による植民地支配を経験したため、音楽政策、音楽教育、音楽産業などの面で日本の影響を強く受けてきた。そこで注目されるのが、在朝鮮日本人の音楽活動である。彼らは日韓の近代音楽史を相互に結びつける役割を果たしたと考えられる。したがって彼らの活動の動向を明らかにすることで、これまでほとんど等閑視されてきた韓国における西洋音楽受容史の新たな側面を照射することができる。

 そこで、本論文では7章にわたり植民地朝鮮における在朝鮮日本人音楽教員・音楽家の音楽活動について明らかにした。第1章では、現在まで行われてきた韓国における西洋音楽受容に関する先行研究の成果を概観することで、植民地朝鮮における西洋音楽受容の全般的な状況を把握した。先行研究では、宣教師により持ち込まれた教会音楽としての讃美歌、旧韓国政府により新設された軍楽隊、朝鮮最初の民間音楽教育機関であった朝鮮正楽伝習所、朝鮮最初の専門教育機関であった梨花女子専門学校音楽科、日本の音楽学校に留学した朝鮮人音楽家などに注目して韓国の西洋音楽受容を論じてきた。そこでそれらの概要を整理するとともに、韓国の西洋音楽受容の問題を考えるうえで、植民地期における在朝鮮日本人音楽家の活動も重要な要素であることを指摘した。

第2章では、植民地朝鮮に移住して音楽活動を行った日本人音楽家について、まず、『近代日本音楽年鑑』(復刻版)と『東京音楽学校一覧』の分析を通じて、どのような日本人音楽家が、どのような音楽活動を行ったのかを検討した。その結果、植民地朝鮮に渡った多くの日本人は、第四臨時教員養成所を含む東京音楽学校出身者が多く、師範学校や高等女学校などの中等教育機関で教鞭を執っていたことを明らかにした。

第3章では、第2章で得た、植民地朝鮮で音楽活動を行った日本人音楽家の多くが音楽教育活動を行っていたという事実を踏まえ、朝鮮における音楽教育政策と音楽教育関連教科書について検討した。植民地朝鮮の教育制度は、2回にわたる学部令(1906・1908)と、4回にわたる朝鮮教育令(1911・1922・1938・1941一部改正)の制定、改正を経た。これらの学部令、朝鮮教育令に伴い、唱歌・音楽教育の目標と教育内容は時期ごとに変化した。基本的に普通学校では「唱歌」を、師範学校や高等学校などの中等教育機関では「音楽」が教授されることになっていたが、これらの教育は日本による韓国併合(1910)後から体系的に行われるようになった。初期段階では「唱歌」「音楽」教育において単音唱歌、複音唱歌や楽器使用法の教授が行われていたが、その後、時期ごとに行われる朝鮮教育令の改正に基づく当時の教育目標に合わせた形へと変化した。時代が下るにつれて、歌唱、発音、聴覚訓練、楽器指導、音楽鑑賞、音楽理論、音楽史など教科内容が増え、他科目との連携を重視するようとなった。また、このような教育政策の変化に対応した音楽教科書が編纂されたことを指摘した。

第4章では、植民地朝鮮で刊行された教育雑誌『文教の朝鮮』と『朝鮮の教育研究』の唱歌・音楽関連記事、および1930年代から40年代にかけての時期に実際に初等教育を受けた朝鮮人へのインタビューと当時の朝鮮人児童の学習ノートの分析を通じて、朝鮮総督府の音楽教育政策が教育現場においてどのように適用されていたのかについて検討した。上記の両雑誌には、初等教育で使われている各学科目の教材に関する研究や新たな教授法の開発及び授業で使われる指導案の提供、師範学校教諭などによる唱歌・音楽教育に関する一考察や唱歌集編纂の趣旨、唱歌教育の経験などが掲載されている。両雑誌の記事の内容から、植民地朝鮮における唱歌・音楽教育内容が少しずつ発展する中で当時の教員たちが直面した困難さを知ることができ、そこから当時の唱歌・音楽教育の実態、具体的には教員の経験から生まれた唱歌教授法や唱歌・音楽教育の進展により具体化された難題に対する解決方法、朝鮮人児童の音楽環境について確認することができた。唱歌・音楽教育現場では、教員によって各時期に行われた音楽教育政策、いわゆる教育目標や要綱、方法(政策)に近づくような内容が教育されていたことを明らかにした。また、一部の事例に過ぎないものの、前述のインタビューと学習ノートの分析からは当時の音楽科目における朝鮮総督府の教育方針や要綱などが実際の音楽教育現場で実用化されていたことも明らかにした。

第5章では、これら初等教育を担う教員を育成した師範学校の音楽教員の活動に注目した。まず、師範学校音楽教員の履歴を取り上げ、当時の朝鮮における中等教員養成状況や日本人教員の待遇について明らかにし、次に京城師範学校音楽研究会編『初等唱歌』と師範学校音楽教員出身の五十嵐悌三郎・吉沢実・安藤芳亮共著『新制音楽要義』を分析し、日本人中等音楽教員による活動が植民地朝鮮における西洋音楽の受容にどのような役割を果たしたのかについて明らかにした。植民地朝鮮に移住し音楽活動を行った多くの日本人は、主に教育活動に従事しており、師範学校などの中等音楽教育機関に勤めていた。朝鮮に移住し教鞭を執っていた日本人教員は、帰国後の復職の保障、万一朝鮮で死亡した場合の遺族への保障が法律に定められ、併合以降は加俸給や退隠料も認められたことから日本本土におけるよりもより恵まれた勤務条件にあった。彼らは、前述の『初等唱歌』『新制音楽要義』の編纂、執筆を通じて、朝鮮総督府の教育政策の下で行われていた唱歌・音楽教育について問題意識を持ち、日本の植民地という制限された条件の中で、改善を模索していた。彼らの教育活動は、唱歌・音楽教育を通じて西洋音楽の受容に大きな役割を果たしたことを明らかにした。

第6章では、植民地期の朝鮮を短期間訪問し、音楽活動を行った日本人音楽家による音楽会について考察した。日本や世界を拠点に音楽活動を行った日本人音楽家が、朝鮮においても多くの音楽会を開き、活動を展開したことに注目し、その音楽会の実態や観客層を調べ、日本人音楽家による音楽会は朝鮮の音楽界においてどのような意味を持っていたのかについて考察した。その結果、日本人音楽家により行われたクラシック音楽会は一部の朝鮮人に受容されていたことが明らかになった。日本人音楽家によるクラシック音楽会は、中高等教育を受けた一部の人々に影響を与え、朝鮮にクラシック音楽文化が浸透するうえでも一定の貢献を果たしたことを明らかにした。

第7章では、戦時期の統治政策を反映した音楽文化構築において大きな役割を果たした在朝鮮日本人音楽家に注目した。朝鮮の総力戦体制期において音楽にどのような役割が要求されたのか、この時期に様々な音楽組織を一元化して成立した朝鮮音楽協会の諸事業において在朝鮮日本人音楽家がどのような役割を果たしたのか、また彼らの活動が当時の情勢とどのように関わっていたのか、といった点について考察した。朝鮮における総力戦体制期、特に国民精神総動員運動の開始以降、音楽には宣伝と皇道文化振興という役割が求められた。そのため、音楽を含む文化振興を目的に各文化機構の再編成や統合、新結成などが強化され、皇道文化普及の実践が図られた。朝鮮に移り住み音楽活動を行った日本人音楽家は、総力戦体制期に音楽家や音楽教員として活動し、朝鮮の楽壇の組織一元化となった朝鮮音楽協会において中軸的な役割を果たした。彼らが中軸となり行った各種音楽会や音楽競演大会、国民皆唱運動、音楽技芸資格認定試験などは、戦時期における統治政策を反映したものであり、それらによって戦時期独特の音楽文化が構築された。

以上の考察から、在朝鮮日本人中等音楽教員や日本人音楽家が植民地朝鮮において行った音楽活動の具体的な様相が明らかとなった。植民地朝鮮における彼らの音楽活動はこれまでほとんど論じられることがなかった。むろん、それが植民地支配という特殊な条件のもとでなされたという点には十分な注意を払う必要があるが、だがその一方で、彼らの音楽活動が日韓双方の音楽界を西洋音楽によって結びつけたことも事実である。彼らの音楽活動は、韓国における西洋音楽受容に大きな役割を果たしたのであり、その意味で、韓国西洋音楽受容史の一側面として無視することのできないものといえる。