言語と文化、又は言語と世界観の相互関係をテーマにした研究がここ30年くらいの間に盛んになされるようになってきている。その中でも言語の固有性を追求する文化人類学などの学問分野で、とりわけ言葉を通じて民族の習慣や社会の構造などを説明しようとする研究が多い。そこで焦点を当てられる民族や習慣、社会等に根付いた語彙は文化的キーワードと呼ばれ、当該文化にとって「枢要な」概念であり、他の言語にうまく翻訳できないとされる。本論ではそのような言葉はグループ化しがちであり、辞書の定義には他のキーワードが頻繁に使われると示した。複雑な文化的な概念を使って、他の概念を説明すると、悪循環に陥り、キーワードの意味はその語が根ざす特定の言語文化の枠内でしか理解されないことになってしまう。キーワードの翻訳可能性と意味を考察する際には、外国語を話す人でも理解できるようにその意味を伝達する方法を探求する必要があり、また、翻訳において原文のメッセージがどの程度まで訳されているのかを計るには、ある程度言語や個人の主観に依存しない客観的な基準が必要であると示した。

 本論では抽象名詞、とりわけ世界観と密接につながっていて、他言語に翻訳しにくい(あるいは不可能)とされる文化的キーワードの意味を解明するために、概念メタファーなどの認知意味論におけるアプローチの弱点を踏まえ、独自のアプローチを提示した。本論のアプローチの有用性を、個人の主観や、言語の特性による影響が少ない方法(言語コーパスのデータ活用など)で実証し、今まで他の研究では取り上げられることのなかった文化的キーワードの意味の問題、人間の思考や、人が言葉を理解する仕組みにおける特徴の一端に光を当てた。概念メタファー分析手法を日本語、英語、ロシア語、ウクライナ語の文化的キーワードと思われる概念に適用し、実際の文芸作品の翻訳に即してその翻訳可能性について考察した。その際、外来語の意味、抽象性の高いないし低い語彙の意味、語彙の意味変化、同族言語の似たような言葉におけるニュアンスの違い、類義語の意味などの多様な観点から、提示した仮説を適用し、その有効性を実証した。

 第1章では本研究に至るまでの経緯、世界観と言語のつながり、言葉の意味に対するアプローチの歴史と文化的キーワードの翻訳可能性について考察している。言語的世界観に対するスタンスならびに研究対象である文化的キーワードおよびほかの抽象性の高い語彙の意味を解明する方法についてまとめている。

 第2章では言語に表れる文化と世界観に関する思想の歴史、Humboldtの立場、サピア=ウォーフの仮説などついて述べた後に、いわゆる文化的キーワードに関するWierzbickaなどの研究、言語に表れる異文化の翻訳可能性、外国語話者に伝わりやすい言葉や文化的特徴が分かりやすい言葉の意味に対するアプローチについて考察する。その中でNSM法(自然な意味論的メタ言語)、認知意味論のプロトタイプ理論、イメージスキーマ、概念メタファー理論に関する研究とその弱点について述べる。

 第3章では前章で論じた概念メタファーなどの認知意味論におけるアプローチの弱点を踏まえ、抽象性の高い語彙である文化的キーワードの意味を解明するための以下を踏まえて考え出した独自のアプローチを提案する。

1. 概念の意味を形成する起点領域としては、一つ以上の別の概念、イメージスキーマ、プロトタイプ、身体的な経験、専門知識などがありうるが、各形成要素の有無と、意味形成への寄与の度合いは概念によって異なる。本論の研究対象である文化的キーワードが抽象性の高い語彙であるため、メタファー的に理解されている部分が大きく、メタファー的な起点領域を調べることによってその意味における重要な特徴が解明できると示した。

2.起点領域(ソースドメイン)となる別の概念は抽象的な概念または記号ではなく、自然言語の中の他の言葉であると分かった。ソースドメインの概念は概念領域(ターゲットドメイン)よりシンプルで、主従関係のあるシステムを作っている。複雑な概念は、よりシンプルな(分かりやすい)単位によって構築され、その全体図は木グラフとして表すことができる。なお、ソースドメインがターゲットドメインの言葉の意味を構築する際に、ターゲットドメインと関連している行為や思考もソースドメインの影響を受ける。

3.本論の研究対象である文化的キーワードは、抽象性の高い語彙であり、メタファーを通して理解されている領域が大きいため、その起点領域を調べることで、その意味に関する重要な情報を得ることができる。言葉(ターゲットドメイン)のソースドメイン(起点領域)を調べるには、ターゲットドメインの単語との連語で使用頻度の高いものを調査し、分類する必要がある。

4. 概念の構造に入っているソースドメインの中には中心的なものと周辺的な(末端)ものがある。これらの境界は曖昧ではあるが、中心的なソースドメインを特定するには二つの方法が有効である。1. そのソースドメインがターゲットドメインに写像する連語の数を調べる 2. 一部の文脈においてターゲットドメインの同義語としてソースドメインが使えることを確認する。

 単語の起点領域は木構造になっているという仮説に基づき、言葉の意味解明にはその共起関係(連語)を調査する必要があることを示す。その後は、連語の定義を行い、その採集方法として、言語コーパス、連語抽出ツール、辞書の活用方法などを取り上げて、使用頻度などを考慮した連語の発見手法と分析手順について論じる。

 第4章では前章で説明した独自のアプローチを日本語、ロシア語、英語、ウクライナ語という異なるタイプの言語資料に即して、実際の語彙に適用し、有効性を実証する。その際、外来語の意味、抽象性の高いないし低い語彙の意味、語彙の意味変化、同族言語の似たような言葉におけるニュアンスの違い、類義語の意味などの多様な観点から、提示する仮説がどこまで適用可能かを試す。新アプローチの適用範囲と実用性を確認した後、概念構造全体の分析に基づいた文化的キーワード(ロシア語:судьба、участь、рок、доля、ウクライナ語: доля、英語: fate、  destiny、日本語:運命、縁、運)の意味解明を試み、その特徴と他言語への伝達可能性について考察する。なお、概念構造表層の分析を基に日本語の文化的キーワード(迷惑、世間、義理、人情)の外国人による習得問題と翻訳可能性についても考える。

 第5章では前章で様々な言語に即して多様な言語現象と文化的キーワードに本論のアプローチを適用した結果、その有用性が実証できた部分についてまとめる。本論で日本語、英語、ロシア語、ウクライナ語の実際の文芸作品とその翻訳を分析した際に、「文化的キーワード」の翻訳可能性には二つの次元(1.言語的世界観における概念の翻訳可能性 2.具体的シチュエーションや文脈における翻訳可能性)があると分かったので、それぞれの次元における翻訳可能性についてまとめている。最後に、本論で提案した方法を実際の翻訳作業において十二分に活用するために、中心的及び周辺的ソースドメインが全て網羅された、独自の抽象語辞典の必要性や外国語学習の分野で本論の概念分析手法が使用される可能性など、今後の課題について論じている。