本論文は、新古今時代の和歌における詠歌方法と、その後の展開を解明することを目的とする。「新古今時代」とは、『新古今和歌集』(以下、『新古今集』と略す)成立前後の時代を指すが、これまでの研究では『新古今集』が藤原定家を中心撰者として成立したこと、またその歌風は定家の確立した新風歌風が基盤となっていることから、定家の時代と捉えられてきた。その結果、定家の歌風の形成とその影響に注目が集まり、後鳥羽院や御子左家歌人たちなど定家に近しい歌人たちについての研究が積み重ねられる一方で、その影響の見られない歌人たちは「旧派」として軽視される傾向にあったのが新古今時代の和歌研究史であるといえる。しかし定家の歌が後鳥羽院に認められる以前、歌人たちはそれぞれ小集団を形成して独自の歌風を模索していたことがわかっている。それらは『新古今集』には取り込まれなかったが、『新古今集』以後の勅撰和歌集や私撰和歌集に取り込まれ、受容された例のあることから、定家を中心とするものとは別の影響力を考え得る。そこで本論文では、新古今歌壇形成前後に成立した和歌について分析を加えるとともに、それらが後代どのように受容され受け継がれていったのかについて検討し、全体像としての中世和歌史を把握しようとしたものである。

 

 第一章では、新古今歌風の基礎となった定家の和歌について分析を加えた。定家の和歌の特徴や詠歌方法の特異性を捉えることで、他歌人の特徴・方法と比較検討をするためである。

 第一節では漢詩文摂取、第二節では『源氏物語』摂取を取り上げた。いずれも当代特に重視された手法であり、他歌人も多用した方法であることから、定家の方法の特異性を峻別する目的で行った。結果として明らかになったのは、定家の漢詩文摂取は連想と連想を繋げ、様々な作品を引き寄せて詠歌を行っていたこと、発想の展開力にこそ定家の特異性があったことである。同様のことは『源氏物語』摂取にも見られたが、『源氏物語』摂取の場合は特に、『源氏物語』と現実的な実感や自身の実詠歌とを繋げて詠歌を行っていた。つまり物語世界を現実と同じ位相に位置するものと捉えることで、物語と現実の区別なく内外を繋げ得ていた。以上のことから、定家の和歌の特色は一つの趣向・発想を起点として連想を広げ、様々な作品へと繋げて世界観を深化させる点にあることを指摘し、またそのような自由で柔軟な発想を保つため、固定概念を打ち破る努力が定家の注釈書等にも見られることも併せて指摘した。

 第二章では、大臣を輩出した権門、村上源氏の源通親と久我通光に焦点を当てた。

 まず第一節・第二節では通親を扱った。通親は後鳥羽院最初の詠歌である大内の花見にも同席するなど、早い段階から後鳥羽院の和歌行事に深く関わっていたことが知られており、一歌人に過ぎなかった定家とは立場が異なる。しかしその和歌は、これまでの研究では古めかしく、定家とは作品で対等となり得なかったとされてきた。そこで通親の詠歌特徴・方法について検討を行った結果、通親は定家とは異なり、和歌や漢詩文、『源氏物語』といった作品中に存在する内部世界を詠むのではなく、作品の外側にこそ現実を認めるような詠み方を行っていたことが判明した。つまり各作品は現実に基づく断片でしかないものと捉え、それを組み合わせ、また切り口を変えることで自分なりの現実認識を表現するのである。そのような詠み方は記録に見える官人としての彼の言動とも重なる。通親は、和歌においても官僚としての己を活かし、詠歌を行っていたことが判明した。そのような通親の和歌は『新古今集』にはほとんど入集しなかったが、後代においては規範として仰がれ尊重されていることを指摘し、定家とは異なるものの、その後へと続く流れを形成しているものと考察した。

 第三節では久我通光を扱った。通光は新古今歌壇成立後に詠歌を始めた人物であるため、定家が歌壇の中心となって「新古今歌風」を形成していく時期に和歌を詠み始めている。その和歌はこれまで、定家の和歌を真似ようとして真似られなかった、その他大勢の新進歌人の一人として捉えられ、「真の理解に至らぬ技術主義」として軽視されてきた。しかし分析の結果明らかになったのは、通光は趣向全体を捉える見方によって歌を詠むなど、父・通親と近しい点が確認できること、その一方でその表現性は父とは異なり、情景を感覚的に捉えて新たな表現を創出しようとしてしていたことである。定家は通光のような詠み方を批判しているが、通光の表現は衆議判の歌合では高く評価されており、また後代の歌人にも継承されたことが認められる。以上のことから、通光の和歌は父から受け継いだ方法を用いつつ新たな和歌表現を生み出そうとしていたこと、そしてそれは新古今歌壇における、定家とは異なる新たな潮流であったものと捉えた。その潮流は承久の乱に敗北した後鳥羽院が隠岐に流されたことで途絶し、歌壇の中心は定家に戻ったが、その流れは水面下において中世和歌へと受け継がれていくとの見通しを立てた。

 第三章では六条藤家及びその周辺について考察した。六条藤家とは新古今時代において俊成・定家ら御子左家と激しく対立した歌の家であるが、近年はその歌壇における地位の変動や歌道家としての在り方などが注目される一方で、彼らの和歌を扱った研究は少なく、常に定家らの和歌と比較して「保守的」で「旧派」だとされてきた。しかし歌の家の人間として指導に当たり、他歌人に影響を及ぼしたはずの彼らについて検討することは、新古今時代と中世の繋がりを考える上でも不可欠である。

 そこで第一節では、俊成・定家の批判を最も多く浴びている新古今時代の六条藤家歌人である季経を取り上げ、六条藤家歌人共通の方法の解明、また定家との比較検討を行った。結果明らかとなった季経の詠歌方法は、異なる趣向と趣向を繋げ、その組み合わせの新奇さを目指す点に特徴がある。対比構造を好むのは六条藤家共通の傾向であるが、季経はさらに新奇さを目指し、極端な組み合わせも試みていた。しかしそれは同じ地平にある発想同士を重ねて一首を深化させる定家とは異なり、繋がらない発想同士を無理矢理に繋げて横の広がりを求める方法で、定家はそれに拒否反応を示していた。六条藤家が新古今歌壇で認められなかったのは、そのような定家らとの和歌観の相違に由来するものであることを明らかにした。

 さらに第二節では真観を取り上げた。真観は初学期は定家に師事していたが、定家没後は御子左家歌人である藤原為家と対立し、六条藤家歌人である藤原知家らと御子左家に反旗を翻した人物である。故にこれまでは「反御子左派」として扱われ、その和歌についても為家が推進した穏当な歌風とは異なる、奇を衒った試みばかりが注目されてきた。しかしその詠歌方法を歌歴に沿って検討したところ、真観は季経の方法を自らの詠歌方法として採用しつつ、言葉や表現自体は新古今時代の和歌全般を規範としていたことが確認できた。つまり真観は定家らが確立した新古今和歌を仰ぐべき指標と位置づけているものの、詠歌方法は師である定家に拠らず、六条藤家歌人に拠っているということになる。六条藤家歌人の方法は新古今歌壇では定家らに批判され排斥を免れ得なかったが、その後の真観らには継承されていることが認められた。

 第三節では、『新古今集』から百年以上経た鎌倉時代後期の正和元年に成立した『玉葉和歌集』(以下、『玉葉集』)に焦点を当て、そこに入集した六条藤家歌人の歌について考察した。『玉葉集』は、御子左家から分派した京極家及びその一派(京極派)による勅撰和歌集で、撰者の京極為兼は定家の曾孫に当たる。これまでの研究で、『玉葉集』は叙景歌に特徴があること、また定家の歌を二番目に多く採用するなど、御子左家歌人たちの流れを汲むものであることが指摘されていた。しかし実際の『玉葉集』入集歌を確認すると、他の撰集が取らないような六条藤家歌人詠も複数取り込んでいる。御子左家歌人詠を重視したはずの『玉葉集』が、定家に非難されることの多かった六条藤家歌人の歌を入集させるのはなぜなのか、『玉葉集』と六条藤家の接点はどこにあったのかを考察した。その結果明らかになったのは、『玉葉集』は六条藤家の日常詠を特に多く取り入れていること、そして持明院統と大覚寺統の両統迭立の時代に成立した『玉葉集』は、日常詠によって自らの文化の高さと正統性を主張していたことである。定家は歌に付随する状況を排して作品そのものの価値を見つめ、その芸術性を高めようとする傾向があったが、六条藤家は和歌によって日常を表現しようとする態度が見られた。そしてそれと同じものが『玉葉集』にも存在することを解明した。それは新古今時代においては定家らによって否定された和歌の価値観であるが、その価値観が中世において再び認められ、六条藤家から『玉葉集』へと継承されたことを意味する。これにより、定家以外の新古今時代の和歌が中世和歌へと繋がっていくことに裏付けを得た。

 

 以上によって本論文は、中世和歌史には定家を本流とするものとは別の、新古今時代から中世へと続く隠れた潮流が存在することを証明した。そして、定家を中世和歌の中心として位置づけてきた従来の研究ではほとんど研究対象にされてこなかった周縁の歌人や、その和歌を掬い上げることによって、定家らとは別の中世和歌へと続く系譜をたどることができることを明らかにしたものである。