本論文は、公選議会を中核とする住民の意思決定の仕組み(「代議システム」)の導入が進んだ19世紀後半の東京について、官民間ならびに議員―有権者間の関係に注目し、その形成・変容プロセスを考察した。

 

議会制導入期の日本の政治状況については、農村部を事例とした研究によって以下のような見取り図が示されている。自由民権運動が高揚した1880年代、民権派は地方議会を拠点に藩閥政府への対抗を図り、租税負担の軽減すなわち「民力休養」を求めて、府県庁が提出する事業予算の削減を繰り返した。しかし1880年代後半以降、地域振興に不可欠なインフラ整備への欲求がしだいに有権者の間に広がっていく。そして日清戦後、民力休養路線は、増税容認とインフラ整備加速を両輪とする「積極主義」路線に取ってかわられた。積極主義の下に藩閥と提携した政党は、1890年代後半以降、利益政治の担い手として党勢拡張を実現した、とされる。

 

しかし、かかるダイナミックな変化が農村部で観察される一方、同じ時期の東京市街部の政治状況には不明な点が多い。汚職事件が多発した戦前東京市政には「腐敗した議員」と「無関心な有権者」のイメージがまとわりつき、その端緒は19世紀末に積極主義を掲げた憲政党(のちの政友会)が市会に進出したことに見出されてきた。こうした見解は誤りとはいえないが、憲政党進出に先立つ時期の東京府政・市政・区政との接続が明らかにされていないため、ともすると、きめの粗い利益政治論に収斂してしまう。また近年は、憲政党の影響力が市会議員にとどまり有権者一般にはおよばなかった事実も指摘されている。地域全体を覆うインフラ整備欲求を欠いた東京で、当該期の政治の動態をいかに通観するかが問題となるだろう。

 

そこで本論文は、1868年の明治維新から1900年代初頭までの時期を対象とし、東京の官民間および議員―有権者間の関係性について、以下の2点を重視して考察を加えた。第一に、代議に直接・間接に関わる人々の間に見られる政治的熱度の幅である。東京には各界のリーダーが集中する一方、地域社会全体を把握する名望家層は見当たらない。かかる状況下、東京府会・市会には入らないがその活動と無縁ではない富裕住民や有力実業家の存在は、同地の政治的コミュニケーションをいかに規定したのか。第二に、東京市街部という政治・行政区画の性格である。その上位には首都の事業にしばしば直接関与しようとする国家を、その下位には衛生・教育など住民と関わりの深い行政の遂行単位である15の区を抱えた東京一円の「自治」は、いかに展開するのか。

 

第1章では、1870年代から1890年代初頭にかけて、区を単位に進行した有力有権者結合の形成過程を論じた。維新後、富裕住民には公立小学校の建設・維持など地域の新事業に対する協力が求められ、一部住民は積極的に応答していった。1878年に区が成立し府・区の2層に議会が設けられると、区は行政当局により自治の基礎単位として期待されるが、区会の活動はミニマムなものにとどまった。しかしその一方、有力府会議員を中心として区単位で官選区長をも含む名士的親睦の輪づくりが進められ、区という単位は議会の外側で一定程度の凝集性を備えていく。かかる動きの延長線上に成立したのが、余財を区の活動に寄付することで「区内公共」の担い手を自任する富裕区民の結合であった。彼らは投票先の事前協議(予選)を通じて選挙結果を左右し、富裕区民結合は有力有権者結合としても機能していく。ただしこの予選機能はいわばあとづけであり、有力有権者の多くは当選後の議員の行動には強い関心を示さなかった。

 

一方、予算規模においても注目度においても区会の比ではない府会は、民権派知識人によって1880年代を通じて率いられた。沼間守一を中心とする知識人議員は、民力休養の実現を求める一方、官民の全面衝突を望まず都市近代化のためのインフラ整備にも積極的であった。他府県の強硬な民権派と少なからず異なる彼らが、増税回避とインフラ整備の両立をまがりなりにも実現し、代議システムに平穏さをもたらした背景を論じたのが、第2章および第3章である。

 

第2章では、巨額の経費を要する東京改造計画(「市区改正」計画)から、府会がさしあたり切り離される過程を論じた。東京府庁内部で市区改正構想が生まれると、府債による財源調達案が府会に諮られるが、府会は同意を与えなかった。巨大事業に対する府会の同意調達を困難と見た府知事の松田道之は、市区改正の立案作業と財源確保作業を、府レベルから国家レベルへと引き上げていく。府会はこれを自治権の侵害と非難することなく黙認し、当時の情勢では到底許容できない大規模インフラ整備については、実質的に国家に委ねることを選択した。

 

ただし、市区改正計画が地方自治の枠組みから切断されたのちも、多くのインフラ整備計画が府会の手に残された。したがって、増税回避とインフラ整備の間の緊張が完全に取り除かれたわけではない。第3章では、府会がこの緊張を緩和する方途を、近世期の七分積金を前身とする府共有金に求めていく過程を論じた。府共有金を貧民救済に充てるという府会開設時の議員たちの合意は、遅れて入ってきた知識人議員によって府知事との協働を含む諸手段を通じて覆され、共有金はもっぱらインフラ整備に投下されるようになった。これにより官民衝突は回避され、東京の代議システムは、代議という手続きおよび東京という単位に対する有権者の低関心を内包しつつ、総体としては平穏に作動した。

 

しかし、平穏さの条件は、1890年代に入ると失われていく。第4章では、1889年の東京市成立にともない府会から主要事業を引き継いだ市会が、有権者との間に温度差を生みつつ民力休養路線から積極主義路線に急転換する過程を論じた。積極主義路線への移行はすぐ行われたわけではなく、1890年代前半の市会は、むしろ民力休養路線の強化に努めた。焦点となったのは、東京市成立直前に府会の同意を得て地方自治の枠内に戻され、工事が緒についた市区改正事業の扱いである。同事業を引き継いだ市会は、東京・京都・大阪3市にのみ適用された市制特例への反発や、政府内部の市区改正批判論者の市会入りを背景として、事業の縮小と国家の関与拒否を主張しさかんに活動した。官民間の緊張は高まり続け、1896年には市会解散を経て府知事が更迭される。しかしこの頃から、日清戦後の好況と公共投資の拡大を受けた実業界とメディアが民力休養路線をとる市会を激しく非難し、府知事に勝利した後の市会は一転して市区改正事業の完成を急ぎ始めた。ただしこの間、引き続き区に拠点をおく有力有権者は、緩やかな増税容認に移行しつつあったものの、市会の路線転換を熱心に支持するには至っていなかった。

 

市会議員と有力有権者の間の温度差は、憲政党が前者を取り巻く状況を東京掌握の好機と見て動いた際、両者の衝突となって顕在化する。第5章では、1899年の憲政党領袖・星亨の市会入りにともなって、星に組織化された市会議員とこれに反発する有力有権者が対立する過程を論じた。積極主義路線に転換したもののインフラ整備の加速を進められず窮地に陥っていた市会議員は、星がもつ政治交渉力と利権とに惹かれ、彼の忠実な支持者となっていった。これを区内秩序からの離反行為とみなした有力有権者は、市政の政党化への反対を掲げて反・星運動を組織するが、その過程では区の自立性を擁護しつつ東京の利益の追求者として自己規定するという、複雑な戦略を余儀なくされた。星の横死によって対立は収まるが、これ以降、東京市会が政党の根城として糾弾される一方、有力有権者にもまた、区という「部分」利害に固執する集団として、批判の矛先が向けられていった。

 

終章では以上の検討にもとづいて、「19世紀東京の代議システム」の特質を総括した。第一に、東京の議員―有権者関係は、寄付による区への貢献という、東京一円とも代議とも直結しない行為を核としてまず築かれ、明確な利益や理念の追求が議員に委託されることは稀であった。第二に官民関係の緊張度は、他府県に比べ強力な国家の関与に東京レベルの議員がいかなる姿勢をもって臨むかに規定されつつ、大きく変動した。

 

東京における民力休養路線から積極主義路線への移行プロセスは、かかる特質を大きく反映しているといえよう。同地の民力休養路線は、民権運動の高揚期には官民衝突を避けつつ維持され、民権運動が終息した後になって急進化したのち、日清戦後に至って積極主義路線への転換を見た。一連の変化は有権者の意向を受けたものとはいいがたい。民力休養路線の硬軟は行政当局と議員の間の交渉によって決まり、続く積極主義路線への移行にはそれまで議会と距離を取ってきた実業界が大きく寄与した。そして積極主義の熱が有権者含め地域全体を覆っていると見込んだ政党が、手始めに市会議員を掌握すると、それまで事態を静観してきた有権者は議員の「離反」に怒り、にわかに活性化したのである。

 

20世紀に入ると、東京では中下層住民を主体とする民衆騒擾が頻発するようになる。もはや彼らを単なる慈善対象として扱うことができなくなった各区の富裕住民たちは、一方では民衆運動に同調し、区単位の運動を主導して市会批判を繰り広げるが、他方では市政に深く関わる動機を依然もちあわせず、市会の構造を根底から改革することはなかった。かくして、富裕区民≒有力有権者を一種の緩衝材としつつ、議会と民衆≒非有権者の間の相互不信が固定化していくのではないかというのが、本論文の分析にもとづく展望である。