ボリス・パステルナーク『ドクトル・ジヴァゴ』におけるモチーフの構造研究

梶山 祐治

 本論文は、20世紀ロシアを代表する詩人ボリス・パステルナーク(1890-1960)が1945年から1955年までおよそ10年の歳月をかけてライフワークとして執筆した唯一の長編小説、『ドクトル・ジヴァゴ』のテクスト分析をおこなうものである。基本的な方法としては、モチーフを手がかりとしたプロット分析を主眼に置いている。ここでいう「モチーフ」とは、ジェラルド・プリンスのいう「主題の最小単位」を踏まえたものであり、タイトルにある「モチーフの構造」とは、『ドクトル・ジヴァゴ』をふくむロシア文学の研究において使われるロシア語の用語「мотивная структура」の日本語訳である。この用語は作品の「シュジェート сюжет」とともに問題にされることが多いが、本研究は、モチーフを手がかりとして、表面上は目立たない作品構成の原理になっているプロットを読み解くことが狙いである。そのうえで、4つの章からなる各章では、異なるモチーフを用いた異なる方法による解釈が試みられる。その際、詩、短・中編小説や戯曲など、『ドクトル・ジヴァゴ』以外のパステルナーク作品も可能な限り参照することにする。これは本論文が、モチーフをパステルナークの書いたテクスト全体に通底するものとして捉え、その結果を長編小説読解に役立てる、という方法を前提にしているためである。

 

 先行研究を整理・概観した序章につづく、各章の内容は以下のように要約される。

 

 第1章「モチーフ機能とプロット解釈」では、特定のモチーフが小説内で果たす機能を調べ、その機能をプロット解釈に応用する。モチーフの用例から帰納的に得られた機能を用いて小説の各場面で秘められたプロットを明らかにする、という方法が本章の特徴となっている。焦点を当てるのは、四大すなわち火、空気、大地、水の各モチーフで、パステルナーク作品における自然の重要性については何度も指摘されながら、個々のモチーフが果たす役割について論じられることはきわめて少ない、という事情を考慮している。『ドクトル・ジヴァゴ』におけるこれら4つのモチーフの重要性は一様ではなく、その機能もそれぞれ異なっている。しかし、それらの均一でない自然のモチーフ群がパステルナーク作品の特色でもあり、1-1から1-4にかけての各四節でテクストにおける各要素のプロット展開のための有機的な働きを見ることで、あらためて自然の重要性が具体的に理解される。

 

 第2章「意味の変化するモチーフ」では、「未来 будущее(あるいはгрядущее)」の使用例を調べ、テクスト上の意味の変化をモチーフとみなして辿っていく。そこで観察されるのは、当初、主人公を中心とする登場人物たちによって肯定的に言及されていた「未来」が、次第に希望や期待のニュアンスを失っていき、否定的な意味の言葉に転じていく様子である。小説の舞台である20世紀前半のソ連においてユートピア的な含意を持つこの言葉は、ユートピア文学ないしアンチユートピア文学という、この小説の注目されることの少ない側面を考えることの一助ともなる。小説の序盤で子供だった主人公たちが思い描いていた「未来」が小説の結末で実現することはなく、主人公の死後にもなお「未来」という言葉が用いられていることは、一概にはユートピア(あるいはアンチユートピア)小説と見なすことのできない、特殊な一面を反映している。ここで参照されるのは、第一次五カ年計画の開始と一致するために象徴的な意味を巡って先行研究でもしばしば論じられてきた、主人公の死の年=1929年をめぐる議論であり、最終的には、パステルナークがすでに1913年に理論化していたテーゼ「芸術は不死」の理念が、この小説でも貫かれていることが確認される。ここでは、小説の最後に置かれた「ユーリイ・ジヴァゴ詩篇」の位置付けを改めておこなうことを意図している。

 

 第3章「モチーフがつくる舞台」は、『ドクトル・ジヴァゴ』において一見あまり目立たない、演劇に関連した「演じることのモチーフ」を手がかりに、モチーフが作品世界の土台となっている様を考察する。長編小説においてこのモチーフはそれほど目立っているわけではないが、初期の詩・散文作品にはじまり遺作となった戯曲『盲目の美女』にいたるまで、パステルナークの作品に一貫して見出すことができるものである。3-1「詩作品におけるシェイクスピアの表象」で初期詩作品における「わたし」が演じている例の分析から出発し、3-2で初・中期の散文作品『アペレスの線』、『トゥーラからの手紙』、『物語』の三作品を演じることのモチーフに従って読み直す。この二節で扱う作品は、一部執筆時期が重なりながらも、これらの作品に現れている演じることのモチーフの様態は、それぞれ異なっている。しかし、このように形を変えながらもつねに存在してきたモチーフだからこそ、『ドクトル・ジヴァゴ』においても独自の世界観表現に寄与することになったと考えられる。

 長編小説を具体的に検討する3-3では、小説のセノグラフィーを主人公の成長とともに三段階に分けて論じている。3-3-1では、演じる存在として繰り返し描かれる少女時代のヒロインに関して、あたかも第四の壁によって隔てられているかのように主人公が彼女を眺めるだけの存在に留まっていることと合わせて考え、「演じることのモチーフ」の観点から解釈をおこなう。3-3-2では、成人したジヴァゴが執筆している原稿が「演技」と名づけられている点に着目し、明かされることのないこの原稿の内容を主人公の立場と照応することで、同モチーフを取り出す。そしてこの章の結論として3-3-3で論じるのは、主人公ジヴァゴが著した25の詩篇のうちのひとつ「ハムレット」を筆頭とする、ハムレットを演じる主人公の形象である。「ハムレット」の影響は、創作活動の最初期から戯曲執筆の意欲を持ち、もともとシェイクスピアへの関心が強く『ハムレット』をどの文学作品よりも高く評価していたパステルナークが、1941年の同戯曲の翻訳作業を経て、その影響を長編小説に反映させた結果でもある。ここでは、未完の『盲目の美女』草稿で農奴俳優の主人公が独自の『ハムレット』創造を夢見ていることも参考し、主人公ジヴァゴの造型に大きな影を落としている「ハムレット」を、『ドクトル・ジヴァゴ』が世界劇場的に展開される要因として考える。

 

 第4章「父と母のプロット」では、パステルナークの登場人物でもっとも存在感が薄いといっても過言ではない、主人公を中心とする主要登場人物の父親に注目し、最終的に『ドクトル・ジヴァゴ』における「父」を明らかにすることを目的にしている。パステルナークと実の父レオニードとの個人的な関係は、良好なものだったことが知られている。しかし、パステルナークの作品で「父」がつねに稀薄な存在であることは、どのような理由によるものなのか。本章はそうした問題意識から出発している。

 まず、4-1では『ドクトル・ジヴァゴ』における父と子の関係をプロットとして辿っていき、父親の存在が稀薄である事実を確認する。4-2では、同じく父親が目立たず威厳を奪われた存在として登場する短編『空路』、戯曲『盲目の美女』の二作品を比較参照する。息子に実の父親と養父のふたりの「父」があてがわれることで二重に弱体化された「父」は、この問題が『ドクトル・ジヴァゴ』に限らない、パステルナークにとって作品設定の根幹に関わる根深いものであることを示している。こうした作業を踏まえた上で、4-3-1では長編小説に帰り、「母」の存在にも注意を払う。作者の女性性への共感から発展的に大きな意味を持つことになった「母」は、女性名詞のロシアや母なる大地のイメージにも重ねられ、「父」の稀薄さを補っているかのようである。「父」の存在を明らかにする4-3-2では、父の死を反復しているかに見える主人公の死が、唯一自殺でないという点によって、父殺しとは一線を画した父を超克する方法となっていることを指摘する。さらに、作品世界のなかでは偏ってみえる「母」と「父」の均衡だが、小説の最後に付属する主人公が遺した韻文テクスト「ユーリイ・ジヴァゴ詩篇」に登場する大文字の「父」=神の用例が、散文テクストにおける「父」の不足分を補うことになっていることを論じる。それは、作者の父であるユダヤ系のレオニードが代表した旧約聖書的世界観を克服する、新約的世界観の提示でもある。

 

 終章ではまとめとして、第1章から第4章にかけて基本的に独立しておこなってきた読解のモチーフが、『ドクトル・ジヴァゴ』のテクストでどのように並列しているかを具体的に例示している。第1章から第4章にかけて扱ったモチーフは、それ自体が完結した小説の新しい読み方を提示するものである。それにくわえて、これらのモチーフが同時に存在する例を引くことにより、本論文が目指した、異なるモチーフを用いた異なる方法による解釈が同時に可能であることを示した。

 

 本論文は、モチーフを用いた分析を基本的な方法として共有しながら、各章の分析過程およびそこで得られる結果は、まったく異なっている。それは、様々な読み方が可能であることがたびたび指摘されてきたこの小説に対して、異なるモチーフを同時に用い、意味の多層的なテクストをさまざまな角度から照射する、という本研究が選択した読み方の結果でもある。ある一定の方法論に基づいた読解の結果ではなく、複数のモチーフを拠り所とした複数のプロットを浮かび上がらせることにより、『ドクトル・ジヴァゴ』のテクストが、複数のモチーフが織物のように組み合わされ、複数のプロットから成る物語を紡ぎだすテクストとなっていることが明らかにされた。

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