16世紀後半から17世紀後半、およそ一世紀に渡って起きた明から清への王朝交替は、その周辺諸国、諸勢力をも巻き込んで国際秩序の変動を引き起こし、周辺諸国、諸勢力もまた、それぞれにこの変動に対処していくこととなった。朝鮮国(朝鮮王朝:1392~1897、以下朝鮮)においてはこの時期、豊臣秀吉による朝鮮侵略からの復興に向けて、財政および軍政の再編が模索されていたが、光海君8年(1616)、ヘトゥ=アラにおいて成立した後金国(アイシン=グルン:1616~1636、以下後金)、さらにそれが発展して仁祖14年(1636)に成立する大清国(ダイチン=グルン:1636~1912、以下清)から二度の侵略を被ることとなった。この侵略は朝鮮では丁卯の乱(1627)、丙子の乱(1636~1637)と呼ばれる。

 従ってこの丁卯・丙子の乱は、先に述べた明清交替に伴う動乱が朝鮮において最も激しく表出した局面ということができ、特に丙子の乱においては、以降、清の滅亡まで続く朝鮮と清の関係の基本的な枠組みが形成されることになる。このため、17世紀前半の朝鮮・後金関係、さらにそれを前提とする朝清関係の成立過程は、朝鮮王朝の対外関係のあり方を理解するために重要なテーマの一つである。さらにこのテーマは前近代東アジアにおける国際秩序として言及される冊封体制の象徴的事例としてしばしば取り上げられる朝鮮と清の関係を、実態に即して把握していく上でも意義深い。

 しかしながら、朝鮮・後金関係、そしてそれを前提とする朝清関係の成立過程は、その重要性に比して本格的な検討の対象となってこなかった。それは主として、稲葉岩吉氏がその著書『光海君時代の満鮮関係』(1933)において提示した理解が具体的な検証を経ることなく長く踏襲されてきたことによる。稲葉氏の理解とは、第十五代朝鮮国王光海君(在位1608~1623)の巧みな外交手腕によって朝鮮・後金関係は友好的に推移したものの、その光海君を廃位して王位に上った仁祖(在位1623~1649)が親明的な政策をとったために両国の関係は敵対的となり、丁卯・丙子の乱が勃発したとするものであった。

 そこで本論文では、この稲葉氏の説を検証するため、まず後金の成立を契機として行われた朝鮮の対明外交の局面を考察した。具体的には、光海君11年(1619)のサルフの敗戦を受けて展開された明の徐光啓による「監護朝鮮」の説に対する燕行使李廷亀一行の交渉活動を検討した。その結果、この交渉はサルフの戦い後の後金との交渉に関する明朝廷の疑惑を晴らし、後金とさらなる交渉を行う余地を生もうとする朝鮮朝廷の思惑によるものであり、そしてその思惑は成功したものと評価した。また後に軍事や外交といった局面で重要な役割を果たすことになる李廷亀がこの交渉活動を契機として政界に復帰したことから、この方面における光海君時代と仁祖時代の連続性を指摘した。

 続いて、光海君時代の朝鮮と後金の関係という時、双方が最も接近したと考えられる鄭忠信の後金派遣を中心に両国関係の推移を検討し、鄭忠信派遣までは交渉の余地のあった両国の関係が、毛文竜の登場により悪化し、最終的にヌルハチが朝鮮使者を殺害して両国関係が断絶状態に至る過程を明らかにした。あわせて、『光海君時代の満鮮関係』と銘打ちながら鄭忠信派遣にほとんど言及せず、その後の両国関係の悪化についても論及しなかった稲葉岩吉氏の研究の問題点を指摘した。

 こうした検討によって、稲葉氏が提示した光海君時代における朝鮮と後金の友好的な関係、仁祖時代における敵対的な関係という説明は実態をよく反映したものではなかったことが明らかになった。その上で本論文では、丁卯の乱、丙子の乱における朝鮮と後金(清)の外交交渉、そして二つの戦乱の戦間期の朝鮮・後金(清)関係を史料に即して跡付けた。

 まず丁卯の乱では、戦乱に際して江華盟約と平壌盟約という二様の盟約が誓われ、朝鮮・後金交渉が本格的に開始されることになる。ただ、そうして成立した両国間の兄弟関係というものに明確な実態はなく、両国の関係は仁祖6年(1628)以降の交渉によって逐次整備されていったと考えられる。具体的には、仁祖6年8月の回答使鄭文翼一行の派遣に際して、義州と会寧における春秋二回の開市の実施が合意され、仁祖7年から春秋二回の信使の派遣と、それに伴う礼物の送付が開始された。また開市の合意の背景には、仁祖6年における後金と毛文竜の講和交渉の頓挫に対するホンタイジの危機感があったと推測される。

 その後、仁祖8年の朝鮮・後金関係は椵島の劉興治勢力の盛衰と関連があったと考えられる。劉興治は後金と一時的に同盟するものの、最終的には明への帰順を画策して配下の女真人に殺害されたが、この過程で、後金が劉興治勢力から同盟の破棄を通告され、同勢力の瓦解によって明産の物資の取得が困難となり、それまで以上に朝鮮からの輸入に頼らざるをえなくなった。このことが仁祖9年の礼物問題などの背景になったと推測される。

 これまで、朝鮮・後金関係悪化の契機として理解されていた仁祖9年の礼物問題であるが、これについては朝鮮使節魏廷喆による『瀋陽往還日記』が残存しており、この記述によってその経緯を明らかにすることができる。魏廷喆によれば、この時の礼物問題は魏廷喆一行が持参した礼物が受領されることで解決をみていたのであり、この時期の両国関係が殊更に悪化したとはいえないようである。

 その後の礼物問題は次のような展開をたどる。すなわち、ホンタイジは仁祖10年10月にバドゥリ一行を派遣して一年一度、従来の十倍近い額数の礼物を送るよう要請し、朝鮮朝廷では翌年正月から2月にかけて征虜の議が起きるものの、4月に派遣された春信使朴一行がこれに準じる礼物を送付した。このことによって、礼物問題は一応の決着をみたといえる。ホンタイジが仁祖9年5月に設置した六部のうち、礼部承政のバドゥリを派遣して礼物の増額を提案したのは、彼がこの問題を礼制に関わるものと認識していたことを示している。そのバドゥリが「兄弟の盟」を改め、「君臣の約」を結ぶべきであると述べたと考えられることは、ホンタイジの対朝鮮関係観の変化をうかがわせる。

 そして仁祖13年12月、ホンタイジが皇帝即位に先立って「兄弟」である朝鮮に相談すべきであると述べたため、翌年2月にイングルダイ一行がもたらした後金およびモンゴルの諸ベイレによる書簡の受け取りを朝鮮朝廷が拒否する事態となり、丙子の乱へと至る。ホンタイジは仁祖14年10月に朝鮮側訳官朴仁範に対して出兵停止の条件として「絶和」「斥和」の臣および王子の入質、「一年一度」の礼物、王室同士の婚姻を提示したが、ここには朝明関係の継承や兄弟関係から君臣関係への移行を企図したような条件はみられない。ホンタイジには朝明間の冊封関係を採用する考えはなく、自身が主導して統制を強めていたモンゴルとの関係を朝鮮との関係に持ち込もうとしていたふしがある。

そうして勃発した丙子の乱では当初、ホンタイジは遼、金、元と高麗の関係を引き合いに出兵の正統性を主張していたが、仁祖の降服直前である仁祖15年正月28日、朝鮮の降服条件として、そして以後の朝清関係の基本的性格を示すものとして下された定約条年貢諭(南漢山詔諭)において初めて朝明間の冊封関係を継承する意志を示す。この詔諭は、朝鮮朝廷の要請によって急遽下されたものであり、全十ヶ条のうち朝明関係の継承を意図したと思われるのは二ヶ条にとどまるものであった。

仁祖10年正月からは前年の六部の設置、大凌河攻城戦を経て、ホンタイジ一人が南面し、その前にダイシャン、マングルタイが左右向かい合って座るようになり、ハンであるホンタイジへの権力集中がより一層、進められた時期に当たる。とはいえ、その後の後金使者の接待問題、バドゥリ定額の提示、開市をめぐる交渉などから明らかなように、朝鮮との関係を自国優位なものに改変したいというホンタイジの意向は容易に達成されないまま丙子の乱を迎えたのであった。

 以上のようにみてくると、後金(清)に対して仁祖と西人政権が取った対応を殊更に失当であったといわなければならない必然性は、どこにもないように思われる。文書行政さえ前提としない相手に対し礼物問題では妥協し、開市問題では拒否の姿勢を鮮明に打ち出し、侵略を可能な限り回避する努力がなされたといえる。明との冊封関係を前提とした後金との兄弟関係という名分も、朝鮮に対して明との講和の仲介が依頼された仁祖12年頃までは朝鮮に優位に働いたといえる。朝鮮にとって誤算があったとすれば、多くのモンゴルおよび漢人勢力が投降し、その体制も不安定にみえた後金が、諸矛盾を抱え込んだまま清というより大きなまとまりへと発展したことであった。清の成立は、江華盟約の反故を可能にして丙子の乱を引き起こす結果となり、朝清関係の成立へと至ったと考えられる。

 むしろ重要なのは丁卯・丙子の乱の戦間期に当たる激動の十年間のなかで、歳貢(歳幣)や開市といった後の朝清関係の基本的な制度がかたちづくられていったことにある。丙子の乱における定約条年貢諭に至って形式的には朝明関係の継承がうたわれるようにはなるが、清にとって冊封国の設定は必ずしも自明なことではなく、朝鮮との関係を構築するなかでそうした制度が形成されていったといえる。そうして成立した朝清関係は、壬辰の乱以降の朝明関係、朝鮮・後金関係、そして丙子の乱を経て清から新たに強制された関係という三つの要素が絡まりあって形成されていったと考えられるが、本論文ではこのうち特に朝鮮・後金関係の継承という要素について実態に即して提示するものとなったと考える。