農牧経済の展開と近代フェルガナ

植田 暁

本論文は,農牧接壌地域における経済活動という観点から中央アジア有数のオアシスであるフェルガナ地方の社会経済史を再検討し,多様な生業を営む諸集団の複合体としての地域像を提示したものである。

対象とする時期は,ロシア帝国による併合(1876年)からソ連期の農業集団化開始(1929年)までとする。旧ソ連地域の経済史研究において,史料状況の制約からロシア革命の前後の比較は困難であり,先行研究においても未解決の課題であった。本稿は,従来十分に利用されてこなかった統計資料を新たな手法で分析し,文献史料の情報と統合することで,ロシア革命前後のフェルガナ地方の通時的な経済史を提示することを試みた。多様な史料から得た情報を統合して分析するための手段として,地理情報システム(GIS: Geographic Information System)を利用した。

アフロユーラシア大陸の中央部には乾燥地域が東西に伸び,歴史的に遊牧が営まれていた。遊牧地域と農耕地域の接する農牧接壌地帯は,遊牧世界と農耕世界が相互作用を結ぶ場であり,歴史研究者の注目を集めてきた。本稿では遊牧農耕接壌地帯に歴史的に成立した複合的な経済構造を「農牧経済」と定義し,分析の中心的な対象とする。現在のウズベキスタンとキルギスの国境地帯にあたるフェルガナ地方は,ユーラシア大陸の東西に延びる農牧接壌地帯の中央部に位置する。フェルガナ地方では,18世紀,コーカンド・ハン国が成立し,露清間の中継貿易によって繁栄したが,1876年,ロシア帝国に併合された。コーカンド・ハン国とロシア帝国のもとでフェルガナ地方は,目覚しい経済発展を達成し,ロシア帝国最大の綿花生産地帯として広く知られた。植民地期以降の旧ソ連領中央アジアの農業経済史は,従来,綿花モノカルチャーの進展とほぼ同義に語られてきた。特に,フェルガナ地方は,綿花モノカルチャーが進展したオアシス農耕地帯の典型と捉えられてきた。

この研究動向の大きな問題は,中央アジアの農牧接壌地域としての特徴が捨象されている点である。中央アジアでは,草原遊牧地域からオアシス農耕地域への人口移動が歴史時代を通じて繰り返されてきた。その結果,形成された社会経済構造は,複合的かつ重層的であり,ロシア帝国統治期以来の民族誌学の業績によってその一端を窺い知ることができる。対象をフェルガナ地方に限定しても,フェルガナ盆地の周囲の山麓は歴史的に遊牧民の冬営地であり,フェルガナ地方全体としては,農牧接壌地帯の特徴を備えている。そのため,盆地地域と山麓地域との相互関係を理解することが,地域の経済構造を理解するために必須となる。

ペレストロイカとソ連崩壊以降,新たに多くの一次史料が利用可能となり,同時に西側研究者と現地研究者との交流が盛んになったことで,中央アジア近現代史研究は新たな段階に入った。社会経済史についても,欧米,中央アジア各国,日本などにおいて,食糧供給,ワクフ,灌漑事業の展開など,中央アジア経済史を新たなテーマから開拓する優れた業績が発表されている。本稿の各章において,内外の近代中央アジア史研究の進展を整理し,主として社会経済史の観点から先行研究を批判検討した。

 本稿の利用した主要な一次史料は,ロシア帝国植民地当局によって刊行された各種出版物,各国の公文書館に所蔵されているロシア帝国およびソヴィエト政権の行政文書類,新聞・雑誌等の定期刊行物,地誌などの同時代出版物,旅行記,回想録などである。史料の多くはロシア語で記述されており,請願書,定期刊行物等の一部に現地語史料を利用した。

 

 本博士論文は,序章と結論および本論5章からなり,章立ては時系列に沿っている。各章の主題は,第1章が帝政期のフェルガナ地方盆地部における住民と生業,第2章が同山麓部における住民と生業,第3章が第一次世界大戦以降の動乱とその影響,第4章が動乱期の人口と住民のエスニシティー,第5章がソヴィエト政権によるフェルガナ地方の経済的再編である。各章における議論の概要を以下に整理する。

 第1章「綿花モノカルチャーの成立とフェルガナ地方の諸集団」では,帝政期の中央アジアにおける綿花栽培の展開を概観した後,諸集団の空間分布と生業,移住史を検討した。標高条件が集団の生業を強く規定していたことを実証し,盆地部における綿花栽培と山麓部における牧畜・穀物栽培との間を結び付けていたバザール商業の機能を明らかにした。移住史については,ウズベク人を始めとする旧遊牧民集団の定住民サルト人への同化を復元し,定住民の住む灌漑農耕オアシスの外縁部に遊牧民が新たな灌漑水路を建設することで定住農耕化するという,遊牧民の定住農耕化の空間モデルを導き出した。

第2章「フェルガナ地方山麓部のクルグズ遊牧民とロシア人入植者」では,フェルガナ地方山麓部における生業の変化とその要因を,クルグズ遊牧民の農耕とロシア人農民の入植に注目して明らかにした。まず,フェルガナ地方ではクルグズ遊牧民が天水農耕を拡大し,遊牧の規模を縮小したことを示した。フェルガナ地方の遊牧民が不安定な天水農耕への依存を強めた背景には,フェルガナ盆地の定住民との結びつきが経済的な安全装置として機能していたことを立証した。天水農耕の拡大によって遊牧と農耕を両立させるという遊牧民農耕化に関する一つの類型を提示した。つぎに,フェルガナ地方山麓部におけるクルグズと並ぶ有力集団であったロシア人入植者の多くが当局の許可なしに建設された「不法移民」の村の住民であったことを示した。ロシア人入植者が周囲のクルグズ遊牧民と経済的な結びつきを有していた一方で,土地問題では軋轢を引き起こしていたこと,未許可入植の問題に関しては移民と現地植民地当局との間に緊張が存在していたことを明らかにした。

 第3章「1916年反乱と反乱後の現地民・ロシア人入植者関係」では,1920年代まで続くフェルガナ地方の政治的混乱の始まりとなった1916年反乱を,他地域との比較を通じて検討した。フェルガナ地方,および比較対象とした飢餓草原,タイルシャイフ草原はいずれもロシア人入植者を受け入れた地域であったが,セミレチエ地方とは異なり遊牧民とロシア人移民との衝突は発生しなかった。移民との衝突が回避された要因は地域毎の遊牧民,定住民,ロシア人入植者,ロシア帝国植民地当局の関係のありかたによって規定された。遊牧民と現地定住民との関係が密であったフェルガナ地方やタイルシャイフ草原では遊牧民の一部は定住民の抗議行動に合流し,一部は山地などへと逃散した。一方,帝政ロシア当局から例外的な優遇を享受してきた飢餓草原の遊牧民はロシア帝国当局に積極的に協力した。また,フェルガナ地方において現地民とロシア人入植者の間に決定的な対立が回避され,ロシア革命後に両者が連合政権を樹立するに至った要因を,不法移民を主体としたフェルガナ地方のロシア人入植者と植民地当局との間の緊張関係から解き明かした。

 第4章「1920年代前半におけるウズベク民族の創出」では,中央アジア近現代史における民族形成の画期であった1924年民族境界画定に注目し,ソヴィエト政権によってエスニシティーのありかたが再編成された過程を,基礎資料であるセンサスに基づいて再検討した。サルト人からウズベク人への移行という先行研究の共通認識を裏付けるとともに,ウズベク人以外の諸集団のウズベク人への同化を,集落の多数集団の変化という切り口から定量的に明らかにした。さらに,ソ連初期,ウイグル人が,帝政期のカシュガル人から移行したのではなく,ウイグル民族運動によってサルト人の一部がアイデンティティーを変化させることによって形成されたことを明らかにした。

 第5章「フェルガナ地方における綿花モノカルチャーの後退と復興」では,ロシア革命後の内戦による荒廃から全面的集団化前夜の1929年までの綿花栽培の復興とそれを可能にした要因を分析した。まず,飢餓と戦乱によって一旦途絶えたフェルガナ地方の綿花モノカルチャーが1923年以降急激に復興し,1929年までに革命前の水準を超えるモノカルチャー体制が再構築されたことを定量的に立証した。その要因として,公的な前貸し制度と土地・水利改革の重要性を論証した。ソヴィエト政権は1929年までに綿花生産量と綿花播種比率の復旧を成し遂げたが,食糧不足,灌漑用水不足,労働力不足という1922年頃の綿作壊滅期の3つの不足は十分に解消されなかった。速やかな綿作の復興は,資源の集中投入によるのみでなく,むしろ現地民農業経営への統制の結果により多くを負っていた。

 

 本稿の分析全体を通じて,近代フェルガナ地方の社会経済史の展開が,この地の農牧接壌地域としての特徴によって,強く規定されていたこと,すなわち冒頭で定義した農牧経済として理解することが必須であることを示した。帝政末期までに成立した標高に応じたエスニシティーと生業のすみわけは様々な変容を経験したが,対象とした期間を通じて盆地部と山麓部の差異は地域経済の展開の軸であった。アフロユーラシア大陸の農牧接壌地帯の一例として,近代フェルガナ地方の経済史を見たとき,遊牧民と定住民が隣接し,経済的にも極めて密接に結びついていたことが最大の特徴であったといえる。そのことは,遊牧民の農耕化や地域社会全体の食糧供給といった経済史上の重要な問題が,遊牧民と定住民の間の密接な経済関係によって規定されていたことからも明らかである。

1929年末から,ソ連全域における農業の全面的集団化が断行され,中央アジア農村の状況も一変した。本稿における帝政期以来のフェルガナ地方の経済史の検討は,以後の状況を分析する上でも有用な立脚点となるだろう。

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