本論文は、日本が国際連盟(以下、連盟)を脱退した1933年から、冷戦が本格化する1947年頃に至る日本外交史を、集団安全保障への対応という観点から考察したものである。よく知られているように、1920年に発足した連盟では、旧来の勢力均衡からの転換が図られ、集団安全保障が導入されることとなった。しかし、1920年代の日本は、連盟の常任理事国であったにもかかわらず、自国の対外政策を連盟の集団安全保障と関連付けることはほとんどなかった。日本外交にとって、連盟を中心とする集団安全保障体制への対応は優先順位の低い課題にとどまっていた。

こうした理解に基づけば、1931年の満洲事変の画期性についても新たな解釈を提示することができよう。周知の通り、満洲事変の解決方法をめぐり、日本は次第に連盟との対立を深め、33年3月27日には脱退を通告するに至った。しかし、日本外務省は脱退後においても連盟への関心を失ったわけではなかった。それどころか、日本外交は、脱退を契機として、連盟を中心とする集団安全保障体制への対応、すなわち「集団安全保障外交」の展開を余儀なくされた。再度日本が紛争当事国となった場合、連盟が対日制裁に踏み切るのではないかとの懸念が生じたからである。換言すれば、連盟脱退は、日本外交にとって、集団安全保障の矛先が自らに向かう時代の幕開けを意味した。

以上の前提を踏まえたうえで、本論文では、第一に連盟脱退後の日本外交が集団安全保障をいかに捉え、いかなる対応を試みていたのかを明らかにする。そして、第二に戦前・戦時・戦後にかけての「集団安全保障外交」の曲折を跡付けることで、連盟脱退後の外交経験が戦後安全保障政策を規定する一要因となっていたことを示したい。

これらの課題を達成するうえで、本論文では以下二つの視角を設定した。第一は、権力政治と法規範の相互作用に注目する視角である。すなわち、本論文では、集団安全保障の法的基盤たる連盟規約および国連憲章への外交的対応に焦点を当てて、それが国際政治においていかなる影響を及ぼしたのかについて考察した。そして、第二は、第一の視角と関連して、日本外務省内における法規範への対応者に注目する視角である。本論文では、対連盟政策の推進主体として、外務省の役割を重視する。外務省は戦間期を通して対連盟政策の主な担い手であり、軍部が消滅した戦後においても引き続き対外政策に関与することができたからである。したがって、本論文では外務省内の政策対立に注目しつつ、各政治主体の集団安全保障観を抽出することに力点を置いた。

本論文は序章と終章のほか、主に四つの章から構成されている。第一章「自由通商原則と国際連盟への期待」では、主として通商問題に焦点を当てて、日本外交が連盟の有用性を再発見するとともに、国際政治において連盟規約への対応が要請されてゆく過程を跡付けた。連盟脱退後の日本が最初に試みたのは、加盟中に認められてきた既得権の存続であった。とくに日本は、連盟規約第22条(アフリカ・中近東地域などの委任統治地域における連盟加盟国間での通商均等待遇を保障)に規定される対日通商均等待遇の廃止を危惧していた。実際、日本の脱退を受けたイギリス外務省は日本への輸入割当の実施を試みるが、連盟規約をはじめとする既存条約の検討を通して、通商均等待遇の廃止は不可能であるとの結論に至った。一方の日本外務省は、自由通商原則を規定する連盟規約第23条を根拠として、脱退国にも加盟国と同様に通商均等待遇が付与されて然るべきだと訴えた。このように、日英両国は、加盟国と非加盟国という非対称的な関係でありながらも、連盟規約を参照しつつ外交政策を立案していたのである。その結果、日本外務省は連盟規約を逆手に取って対日通商待遇の存続を訴えるという方針に活路を見出すこととなった。

しかし、対外危機が続発する1930年代の日本において、連盟の重みが増すのは通商よりも安全保障の領域であった。第二章「『連盟脱退国』としての二つの路線」では、ソ連の連盟加入からエチオピア戦争にかけて、日本外務省内において対連盟政策が分化してゆく過程を論じた。34年9月にソ連の連盟加入が実現すると、外務省内では日ソ戦勃発時にソ連が連盟を対日制裁へ誘導する可能性が指摘される。このことは、日本外交にとって、二つの点で対連盟関係の再考を促す契機となった。第一に、連盟体制への再適応が困難であるとの認識が芽生え始めた。連盟内における日ソの入れ替わりは、日本を被制裁国の地位へと転落させ、代わりにソ連を主要アクターへと昇格させることを意味した。連盟から「侵略国」と認定される可能性が高まった以上、安全保障の領域において連盟を支持することが困難となったのである。これと関連して、第二に、自国の安全保障政策を集団安全保障体制との関連で検討する必要を生じさせた。これ以後の日本外務省は、対日制裁の可能性を念頭に入れつつ、「集団安全保障外交」を本格的に始動させなければならなかった。

このように「集団安全保障外交」の必要性を痛感した日本外務省であったが、その方向性をめぐって、程なく省内において路線対立が顕在化する。35年10月にエチオピア戦争が勃発すると、連盟はイタリアに対して史上初の経済制裁を実施した。これを受けた日本外務省は、将来において制裁の矛先が自国に向かう可能性を考慮しつつ、対連盟政策を検討することとなるが、その結果、省内には二つの路線が浮上した。独自制裁の実施を含め連盟に対して積極的に協力することで連盟内における日本の地位強化を試みる連盟派外交官の路線(「連盟と並存可能な脱退国」路線)と、連盟の集団安全保障への関与を拒絶する条約局の路線(「連盟を排除した脱退国」路線)である。結局、本省は後者を採用し、これ以後の日本外交は集団安全保障を拒絶する方向へと舵を切ることとなった。また、脱退後の対連盟政策を法的側面から検討したのが、東京帝国大学国際法教授・立作太郎であった。立は、連盟の集団安全保障の影響を受けることを拒絶し、連盟体制に包摂されない「脱退国の法的地位」の確立を訴えていた。条約局は、このような立の議論を参考にしつつ、実際の対連盟政策につき検討を重ねていった。

もっとも、省内に伏在する路線対立は、「脱退国の法的地位」をいかにして国際的に定置するかという問題をめぐっても、異なるアプローチを生み出した。第三章「モントルー会議と連盟派外交官の奮闘」では、36年6月から7月にかけて開催されたモントルー会議という国際会議に焦点を当てて、省内の路線対立の位相を検討した。モントルー会議においても、条約局が「連盟を排除した脱退国」を目指すのに対して、連盟派外交官・佐藤尚武全権は「連盟と並存可能な脱退国」を追求した。しかも、省内主流派である有田八郎外相が前者の路線を採用したため、両路線の緊張関係がまたしても顕在化することとなった。有田は、脱退国が参加する国際会議において、連盟規約が援用されることを拒否した。有田からすれば、連盟規約や「連盟規約の補足協定」を容認することは連盟の集団安全保障を容認することと同義だったからである。一方、佐藤は連盟の集団安全保障を所与の前提としたうえで、加盟国と非加盟国が対等の関係となる法的地位の確立を試みた。このような意見対立に直面した佐藤は、有田ら本省を抑制しつつ、条約調印へと漕ぎ着けることに成功を収めた。

しかし、エチオピア戦争終結後の国際社会において、佐藤ら連盟派外交官が前提としてきた集団安全保障体制は動揺を見せ始めていた。第四章「日中戦争下の『集団安全保障外交』」では、37年7月に勃発した日中戦争に対する連盟加盟国の対応を確認したうえで、日本外務省の集団安全保障観が「連盟を排除した脱退国」路線のそれへと収斂してゆく過程を検討した。日中戦争は非加盟国を当事国とする紛争であったため、二つの点で困難が生じた。第一に連盟成立以前から存在する「中立制度」と集団安全保障の矛盾を顕在化させた。この時期の欧州各国は、エチオピア戦争の失敗を受け、安全保障の基盤を集団安全保障から中立制度へと回帰させつつあった。実際、連盟主要国であるイギリスさえも、日中戦争において中立と集団安全保障という二律背反的な安全保障概念の矛盾に直面し、集団安全保障の優位性を示せなくなっていた。非加盟国を紛争当事国とする日中戦争を前にして、連盟の集団安全保障は、政治的次元のみならず法的次元においても、その限界を露呈した。

 第二に連盟は紛争の処理を連盟の枠外にある九カ国条約国会議へ委ねざるを得なかった。このことは、日本外務省内において、連盟とワシントン体制を一体のものとして捉える重光葵ら省内主流派の集団安全保障観を裏付けると同時に、連盟派外交官らが主導する「連盟と並存可能な脱退国」路線の限界を示す結果をもたらした。したがって、連盟が対日制裁を実施すると、連盟派外交官さえも連盟との協力関係の構築を断念せざるを得なかった。

終章「『集団安全保障外交』の帰結」では、これまでの総括を行ったうえで、戦時・戦後における「集団安全保障外交」の変容を跡付けた。戦時期の外務省は、連合国側の戦後構想たる国際連合案への対応として、「大東亜諸国」間における集団安全保障の導入を検討していた。こうした問題関心を継承した敗戦直後の外務省が、戦前・戦時期の外交経験を踏まえつつ「地域的集団安全保障機構」の創設を検討していたこと、そして冷戦の本格化とともに日米安保条約の締結を目指す方針へと収斂してゆくことを展望した。