明治時代の知識人と足尾鉱毒事件 ―「近代性」問題への思想史的接近

商 兆琦

本論文は、二つの課題を提起する。その一つは、日本近代史の流動的・全体的場面から、田中正造の歴史像及び思想像を実証的に明らかにすることである。もう一つは、足尾鉱毒事件をめぐる明治知識人の意見の対立、衝突及び交錯という歴史のコンテクストを「再構築する」ことを通じて、彼らの思想世界に横たわる根本的な動機を比較分析し、それぞれの思想像を解剖して再構成することである。

その目的は、従来の田中正造論と鉱毒論の相対化を促す一方、さまざまな価値観が混在し、関連し、また相互に拮抗しつつある明治思想史の一断面を眺めることにある。それと同時に、明治知識人たちが鉱毒事件に直面して生じた「精神的な反応」を析出することにより、彼らが如何にして「近代」を受けとめ、またその「近代」に内在する様々な欠陥をどのように暴露して克服しようとしたのかを解明したい。(以上は序章)

この二つの課題を「田中正造研究」と「明治知識人研究」という二部にわけて検討する。

 第1部では、これまで検討されてこなかった明治時代における田中正造の人間像と思想像を、実証的に明らかにしようとする。

 第一章「「生き返らせる」田中正造研究」においては、これまでの田中正造論が、歴史の文脈への考慮なしに、あまりにも研究者たちが生きる時代風潮、言いかえれば現実的な観点から取り扱われてきたという問題を指摘する。そして、田中正造の思想構造=「内側」と正造が生きた社会の構造=「外側」を一つの全体として捉え、「内側」と「外側」との弁証的・連動的な関係を捉えることを通して、「神格化」されてきた正造像を見直す必要があることを指摘する。

 第二章「「正造研究」以前の正造像」においては、時代色の投影と研究者の「思想共鳴」による感情移入などの問題を念頭に、「正造研究」ブームが出現する前の田中正造像について、考察を行う。さらに、正造の自己自身の認識を検討し、より安定的な田中正造像を浮き彫りにする作業を試みる。その結果、田中正造は到底「利害計算・分配・調和」という現代的な概念をもつ理性の政治家ではなく、一種の「精神家」の存在であり、また「義人」、「志士」の志向が否定できない「古型」の人物であることを指摘する。

 第三章「田中正造と下野(しもつけ)」においては、田中正造の「下野の百姓」という自己表現を手掛かりにして、彼の財産、衣服、経済状況について検討を行う。また、田中正造の社会的なネットワークに対する検討を通して、正造にとっての「下野」の意味を解明する。正造の血縁、地縁と精神縁の共同体は、いずれも「下野」と深く関わり、下野から物心両面における大きな援助を受けていたと同時に、地元の名望家、「下野の代弁人」という性格を強くもっていたことを明らかにする。

 続く第四章「田中正造の「無学」をめぐる一考察―その思想像の一側面」においては、田中正造の勉強、学習環境、学問状態を通して、「無学」という言葉の意味を解明する。儒教思想が正造に与えた影響を初めに論じる。正造は社会体験と社会実践を重視し、知識を現実に生かす考えが強い「実学」の風格と「社会大学」に通って学ぶべきだという「行動主義」性を持っていることを解明する。儒教の義理と精神を重視し、訓詁などの学問方法を批判している点で、正造の学問は濃厚な陽明学的色彩を示している。正造は、儒学によって形成された文化的基礎を持ち、それは、民権思想やキリスト教などを受け入れた後も、思想の枠組みとして働いているように見える。

  第2部では、「明治思想界にとっての鉱毒事件」という問題意識の下、勝海舟、福沢諭吉、島田三郎、陸羯南、内村鑑三、幸徳秋水ら明治知識人を取り上げて、鉱毒事件をめぐる彼らの思想言説を解明すると共に、その間に生じた対立、そして対立の根本原因を明らかにしたい。

 第五章「「情」と「智」の相剋:勝海舟と福沢諭吉」では、まず、勝と福沢の人物像を考察し、「英雄」としての勝及び「明治文明の恩人」としての福沢を見出す。その後、鉱毒事件をめぐる勝と福沢の意見を比較分析し、その相違性を追究し、彼らの根本的な動機と思想構造を解剖する作業を試みる。政治家としての勝の問題意識が、「どのように民衆を治めるか」であって、その解決策を「情」の作用に求めることと異なり、学者としての福沢の問題意識は、「どのように新しい民心を作り出すか」ということであり、思考の中心には常に「智」が据えられた。それゆえ、勝においては、政治と道徳が常に密接し、「正心誠意」によって個人のエゴイズムを出来る限り解消することを通じて「人心の折り合い」を実現することが最優先の課題であった。一方、福沢は、「疑の世界に真理多し」を唱える立場から、「政治と道徳との分離」を支持し、個人のエゴイズムを解消するのではなく、むしろそれを積極的に転換することによって、社会秩序の成立と維持を求めようとした。

 第六章「「社会」と「国家」のはざまで:島田三郎と陸羯南」では、まず島田と陸の使命感と人物像を確認する。「平民社会」の成立に尽力し、その「立憲政治家」の使命を果たそうとする島田は、性格と能力の制限があるため、結局「小き聖人君子」に過ぎなかった。一方、「国民の独立」と「国民の自由」に奉仕するという使命感に突き動かされ陸は、民族精神の発揚と泰西文明の摂取との間に橋を架けようとした「独立的記者」であった。

 島田と陸は、「優勝劣敗」や「自由競争」などの原則の上に築かれている近代社会に積極的な反省を与え、それを乗り越えようとした。島田は、主として社会手段を利用し、鉱毒問題を解決することを強調した。陸は、政治手段を利用してこの問題の解決を唱えた。彼らはいずれも藩閥政府が主導した文明開化の皮相と欠陥を批判し、それは「上層社会」の文明化に過ぎないと論じ、「下層社会」の改革の必要性を盛んに唱えた。つまり、人民の勢力の発達がなければ、社会的な規模の文明化の達成は、決して望むべきことではない。ただし、陸において、人民は「国民」を意味するが、島田においては、人民は「平民」を意味した。二人とも、「有機社会」の立場に立って、「文明社会」における「人情」や「道徳」の意味を積極的に強調し、道徳が腐敗した社会においては、「本当の自由」がどうしても実現されないということを力説していた。しかし、島田は、「多数者の多福を計らんとす」という原理を一貫して提唱し、「社会改良」の路線及び「中正」の立場に固執した。陸は、福沢流の功利主義の限界を鋭く見つめ、「各人の能力の発達」、「国家の統一」および「社会の博愛」という文明政治を目指して「国家社会主義」を唱えていた。

 第七章「「近代」への反逆:内村鑑三と幸徳秋水」では、内村と幸徳の鉱毒論を概観すると同時に、二人の人物像と思想像の解明を試みる。幸徳は、社会主義による「外」向きな「制度の改造」を通じて近代日本の行き詰まりを打開することを唱えていた。これに対して、内村は、国民の精神を更新しないかぎり、真の文明がどうしても獲得されないということを念頭に置き、「内」向きな「人心の改造」の必要性を訴えていた。

 内村によれば、鉱毒問題の本質は「山から出る毒ではなくして、人の心にわき出づる毒」である。それゆえ、鉱毒問題を根底より治めるには、人心を改良しなければならない。内村によれば、道徳が国家のすべての成員を結合させる紐帯であり、一つの共同体を形成し維持するには普遍的な道徳意識が前提となる。ところが、明治維新は個人主義や拝金主義に走り、多くの「社会の敗徳」を生み出した。内村は、「政治の目的は善を為すに易くして悪を為すに難き社界を作るにあり」と考え、真の神への信仰の再建によって真の社会を建設することを提唱していた。

 一方、幸徳によれば、制度の規制(=外部規範)と比べて、道徳的規制(=内部規範)が常に無力であり、「悪事」を抑制して「善事」を促進する制度がなければ、一つの完全な社会はあり得ないのである。幸徳は明治憲法体制のみならず議会制民主主義自体に対する疑念を抱え、それを乗り越える方法を模索した。幸徳によれば、「社会問題」を根本的に解決するためには、生産手段の私有に基づく資本主義制度を根底から改め、社会主義のシステムへと移行させなければならない。ところが、この目標の実現に向けて、幸徳が打ち出した路線が、極めて独特なものである。幸徳は、国家の改革の志向を天皇に托し、「臣民の請願の権力」を提唱し、田中正造の天皇直訴に積極的に協力した。また、日本の官尊民卑の縦型の権力構造及び議会政治の腐敗と無能を打ち破るために、直接投票及び直接発議権などの参政権の導入を訴えた。さらに、社会改革を実現するには、「志士仁人」の奮起を訴えた。

 最後に終章「「近代性」問題と明治知識人」では、それぞれの知識人の思惟の諸体系を互いに関連(並立、連続、継続)させることによって明治日本における「近代性の運命」を明らかにしようとする。その結果、明治思想世界の中に反映されていった「近代性」の「生起と形成」、「継承と調整」、「挫折と挑戦」という運命、そして伝統思想と導入された西洋思想とが複雑に交錯する歴史場面をある程度解明できることを述べる。さらに、正造の思想には、先行研究で指摘されてきた「進み位相」とともに、「遅れ位相」も同時に存在することは否定できないと指摘する。このような二種類の正造の「位相」を同時に考慮することで、明治思想史における田中正造の位置づけを捉えることがはじめて可能になる。

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