本論文は、近世後期の絵入り小説を代表する柳(りゅう)亭(てい)種(たね)彦(ひこ)(以下、種彦と略す)の合巻の独自の創作態度を明らかにすることを目指したものである。そのため、彼が近世初期の風俗考証を行ったこと、浄瑠璃や歌舞伎など演劇に高い関心を持っていたことに着目し、彼の合巻を考察した。また種彦の代表作である『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』全三十八編(〈文政十二年~天保十三年刊行〉、三十九・四十編は初案稿本として伝わる、以下『田舎源氏』と略す)の『源氏物語』翻案態度にも注目した。各章の内容を簡略に記しておく。

第一章は、種彦が合巻を執筆する際、自ら考証した事柄を作中に取り入れる傾向があることに着目し、彼の考証随筆および雑記と合巻との関わりについて論じたものである。第一節では、京伝の『骨董集(こっとうしゅう)』を増補した種彦の『骨董集(こっとうしゅう)ほりかひ』の検討を通して、種彦が京伝の考証を再考証した際に見られた三つの特色、⑴新資料の利用により京伝とは異なる観点から考証を行ったこと、⑵一つの資料であっても刊年の異なる写本や版本を用いたこと、⑶京伝の考証の誤りを補訂する姿勢を保っていたことを明らかにした。また、『ほりかひ』「灯籠踊の古図」項の、灯籠躍の際に用いる置灯籠を被ると尾によって顔が見えなくなるという種彦の考証内容が、自身の合巻『灯(とう)籠(ろう)踊(おどり)秋(あき)之(の)花(はな)園(ぞの)』の発端に用いられていることを指摘した。第二節では、種彦が考証の資料として古俳諧をしばしば用いるという従来の指摘を、京伝、馬琴の考証との比較を通して、より明らかにした。また、俳諧における等類(先行の作品に作意や表現などが類似していること)や近世初期の俳人、神野(かんの)忠(ただ)知(とも)の俗称や彼の句に関する知識が、種彦の合巻『娘(むすめ)金(きん)平(ぴら)昔(むかし)絵(え)草(ぞう)紙(し)』の全体構造に用いられていることを論じた。第三節では、種彦の自筆稿本『諺(ことわざ)の通(つう)』の考察と、太田全斎編『俚言集覧(りげんしゅうらん)』に引用された種彦の諸説の検討を通して、近世初期の俗語と俗諺に関する種彦の精密な研究の具体像を明らかにした。また、種彦の合巻『傾城(けいせい)盛衰記(せいすいき)』には二十二の俗諺が取り入れられ、それらが筋の展開において重要な役割を果たしていることを指摘した。このように多数の俗諺を合巻の筋に絡ませることができたのは、種彦に近世初期の俗語・俗諺研究の蓄積があったからであると結論づけた。

第二章は、種彦の合巻における演劇趣味の表れ方について論じたものである。演劇趣味が強く表れている種彦の合巻には『正本製(しようほんじたて)』全十二編(文化十二年~天保二年刊行)があるが、それ以外の彼の合巻をも視野に入れて考察を行った。第一節では、近松の狂言本の古風を伝えるために創作された『曽我(そが)太夫(たゆう)染(ぞめ)』において、作中に施されている八つの注記が、古風を伝えつつ挿絵を当世風に描くことをも可能にする役割を果たしていることを指摘した。また、種彦が注記に示している、近松の狂言本に見える役者の役柄や扮装、鬘、近世初期の俗語・俗諺に関する説明から、本論文の第一章で述べた彼の考証趣味も見られた。第二節では、合巻の創作に大津絵の趣向を利用した作品である、種彦の『女(おんな)模(も)様(よう)稲(いな)妻(ずま)染(ぞめ)』、三馬の『吃(どもの)又(また)平(へい)名(めい)画(がの)助(すけ)刃(だち)』、京伝の『濡(ぬれ)燕(つばめ)子(ね)宿(ぐらの)傘(からかさ)』を比較し、三馬・京伝と異なる種彦合巻の演劇趣味の特徴について論じた。三馬と京伝は、大津絵から画題が抜け出る「大津絵絵抜け」を趣向として用いたのに対し、種彦は、敵討ちの場面に登場人物が大津絵の画題に扮して歌いながら踊るという、舞台における大津絵の所作事に擬えて描いたことを明らかにした。第三節では、『鯨(くじら)帯(おび)博(はか)多(た)合(と)三(み)国(くに)』において、題名と序文に記されている「鯨帯」の持つ意味を考察した。『鯨帯博多合三国』は、浄瑠璃『博(はか)多(た)小(こ)女(じょ)郎(ろう)波(なみ)枕(まくら)』の宗七と玄海灘右衛門が、歌舞伎『富(とみ)岡(がおか)恋(こひの)山(やま)開(びらき)』の玉屋新兵衛と出村屋新兵衛と同一人物であると設定していた。つまり、一人の登場人物が二つの顔を持つという構造になっていた。このようなそれぞれの登場人物の表の姿と、それと対する裏の姿を描く本作品の構造は、表と裏の生地が異なる「鯨帯」の特徴を活かしたものであると結論付けた。

第三章は、種彦が『田舎源氏』を創作する際、『源氏物語』の筋や年立、挿絵をどのように取り扱っているのかを論じたものである。第一節では、『湖月抄』薄雲巻から藤袴巻までの諸注を抜粋した種彦の自筆稿本『柳亭(りゅうてい)雑集(ざつしゅう)』の検討を通して、種彦が『源氏物語』を読む際、指示する対象が不明瞭な語、登場人物の人物関係、年齢などに注目していたことを指摘した。また、『柳亭雑集』には乙女巻と玉鬘巻における同時期の出来事に関する種彦の覚書があるが、それは『田舎源氏』において、両巻の出来事を時間順に並べ替えて翻案する際の基準として利用されていたことを論じた。第二節では、『田舎源氏』の光氏の年齢は、基本的に『源氏物語』の新年立を踏まえていることを明らかにした。また、『源氏物語』の巻順と物語の時間の流れが一致しない場合、種彦は巻の順序を入れ替えて、物語の出来事を時間順に並べていることを考察した。また、賢木巻の桐壺院崩御が、賢木巻の他の出来事より後の編で翻案されたのは、歴史的な出来事を作中に反映させるための種彦の工夫であったことを述べた。第三節では、山本春正(やまもとしゅんしょう)編『絵入源氏物語』(以下、『絵入源氏』と略す)の図様が『田舎源氏』の挿絵に大きく影響を与えているという従来の指摘を、新しい例を用いて補強した。そして、種彦は『絵入源氏』の図様を利用する際、それをそのまま『田舎源氏』の挿絵として用いず、元々なかった人物を描き加えたり、登場人物の感情がより伝わるように構図を変えたりする工夫を凝らしていたことを新たに指摘した。また、『田舎源氏』では、近世初期の絵入り版本の図様とは異なる挿絵も見られるが、このような新しい図様が作られたのは、⑴種彦が『湖月抄』の諸注や『源氏物語玉の小櫛』を参照して『源氏物語』の本文考証を行い、その結果を挿絵に反映させたこと、⑵話の舞台の再利用を避けるため、原作とは違う場面に描いたことによることを明らかにした。

以上の考察を通じて、考証趣味の見られる作品だけでなく、演劇との関わりが強い作品や『田舎源氏』も、種彦の精密な調査と研究に基づいていることが確認できた。戯作者でありながら、常に様々な資料に接し、関心を持った事柄を考証し続け、その結果を積極的に合巻に取り入れることが、種彦独自の創作態度であることを明らかにした。