本論文は、戦前期の日本における民間社会資本事業を対象とし、具体的には電鉄業について、兼営していた電気供給事業に着目して論じた。日本では大都市圏の電鉄業や、全国の電気供給業は戦時中の電力国家管理を除き、民間企業によって担われてきた。これは世界的に見ても日本の社会資本事業の特徴といえる。

戦前期の日本では、電力国家管理に至るまで、電鉄事業者が電気供給事業を兼営する事例が数多くみられた。しかしこれまでの電鉄業研究史では、電鉄の多角経営が注目されていたにも関わらず、兼営電気供給業については、不動産や百貨店、娯楽事業などの兼業と比べ、ほとんど研究が存在していない。さらに電鉄の多角経営の研究に於いても、多くの場合は阪神急行電鉄を典型とした単一のモデルに収斂する形で論じられていた。その「阪急モデル」を作り上げた小林一三についても、経営者でありながら宝塚歌劇に代表される文化的側面が主として注目されたために、経営史的な分析は乏しく、戦前最大の民間企業であった東京電灯の再建に携わったことは看過されてきた。

本論文はこの研究史上の空白を埋め、定型的な電鉄経営と小林理解の相対化を通じて、戦前期の日本の民間社会資本事業の特徴について新たな理解を得ることを目的とする。

 第1章では、まず戦前期における電鉄業と電気供給業が共通した時代区分で把握でき、戦前期の両者の発展が相似していたことを示した。次いで電鉄業と電気供給業を兼営する事業者は、それぞれの業界で重要な地位を占めていたことを確認した。特に1920年代には、両者の関係はきわめて密接であった。しかし1930年代に入り、交通においても電力においても恐慌を背景に事業の合理化と統制が唱えられるに従って、その関係は変化した。電気供給業では事業整理のため兼営する電鉄事業を分離する傾向が顕れたのに対し、電鉄業では電車事業が不振の中で兼営電気供給業への依存を強めていたのである。

 第2章では、もっとも電鉄兼営電気供給事業が発達していた関西地方を対象として、この地方の電気供給事業の中での電鉄兼営の特徴や位置づけについて検討した。関西の電力供給は、大阪・京都・神戸の大都市内を公営電力が担い、大阪府下から隣接府県に及ぶ郊外では、大阪市を中心とした放射状に阪神電気鉄道・阪急・京阪電気鉄道・大阪電気軌道・南海鉄道の五大電鉄が供給区域を有していた。この棲み分けが成立した結果、関西では東京電灯のような地方を独占する大規模事業者が生まれなかった。戦間期の関西の電力市場において、電鉄兼営電気供給業は電灯市場の2割、電力の15%、電熱の四分の一程度を占めた。電鉄兼営電気供給事業の業績は概して堅実であり、特に昭和恐慌期には電車事業よりも高い成長を示して電鉄全体の経営を底支えし、関西の有力電気供給事業者よりも優良な業績を示した。このような兼営事業の存在は、関西の郊外の発展にも寄与したと考えられる。電鉄会社にとって電気供給業の兼営は、交通の便が良くなった外部効果を取り入れる、合理的な経営手法であった。しかしそれは、大都市の周辺地域という重要な電力市場を細分化し、卸売事業者と小売事業者が複数並存する複雑な電力市場を固定化させたために、電力国家管理を招く一因ともなった。

 第3章では、阪神急行電鉄の兼営電気供給業について詳細に検討した。戦前の阪急において、電気供給業は1910年代半ばから1930年代初頭まで、巷間有名な不動産や娯楽事業をしのいで最大の収入をもたらす兼業であり続けた。1930年代でも兼業の中で百貨店に次ぐ存在感を持ち、電車事業より順調な成長を続けている。1920年代の阪急では、阪神電鉄の電気供給区域に重複供給を申請して、電車のみならず電気供給業でも阪神との全面対決を志向し、大規模な今津発電所を建設した。しかし政治的事情から重複供給が失敗すると、今津発電所を宇治川電気との共同経営に移行させた。この背景には、阪急経営者の小林一三の特徴と考えられる、資本の節約を強く志向する経営があった。インフラ事業は初期に多額の投資を固定化させ、回収に長期を要するものであるが、小林は需用に応じて段階的に投資を積み増す志向を有し、過剰に資本を固定化しないよう注意していたのである。また阪急の兼営電気供給業では家庭電化に力を入れ、さまざまな形で電化されたライフスタイルを中間層に売り込んだ。これによって不況期でも阪急の兼営電気供給業は着実な成長を遂げ、「阪神間モダニズム」を支えるインフラとなった。これは電化された現代の生活スタイルの、一つの祖形と考えられよう。このようなきめ細やかな商略を可能にしたのは、同社が多角経営に力を入れ、不動産事業や流通事業などとリンクすることで生活全体をサポートしていたためと考えられる。電鉄兼営供給業は、兼業の制約された戦後の九電力体制では見られなかった特徴のあるインフラ事業であった。

 第4章では、阪急から東京電灯の再建に迎えられた小林一三の経営活動について検討した。小林が東電入りした背景には、三井銀行の池田成彬の強い支持があった。池田の目的は東電への巨額の貸出の固定化を防ぐことにあり、そのためには資本を節約して借金を減らす小林の経営方針が適合的であった。東電のような巨大インフラ事業に対しては、たとえ三井であっても単独で資金需要に応えることは困難であり、東電との緊密な金融的関係が銀行経営にとって危険となる場合がありえたのである。小林は東電で、阪急で行われていたのと同様の手法を営業に取り入れ、職員の意識を改革し、大きな追加投資なくして経営の改善に成功した。また会社の整理も進め、時には大胆な営業区域の譲渡も行おうとしている。資本節約志向の強い小林は、電気供給業においても資本の圧縮によって原価を安くすべきと主張した。電力統制について小林はこの観点から種々の統制案を唱えており、そこには阪急での兼営電気供給業の経験の影響をうかがうことができる。しかし小林は、電力業界ではあくまで東電の立直しを自己の任務と心得、電力統制は後継社長に擬した東邦電力社長の松永安左エ門に期待していたと考えられる。

第5章では、電気供給業の監督について、京成電気軌道の東京電灯千葉営業区域譲受問題を題材として考察した。東電の整理の一環として、千葉県の営業区域を京成に譲渡する契約が1934年に結ばれたが、1936年に至り監督官庁の逓信省に却下された一件である。1920年代、競争による電力の普及を基調としていた逓信省の監督行政は、競争の弊害が明らかになるにつれ変化を求められ、1931年に電気事業法が改正された。逓信省でこの法改正を主導した官僚である平沢要は、私企業精神を重視し、企業性と公益性を両立させる監督をめざした。改正電気事業法は、条文上の権限をみだりに行使せず、事業者の自主的な対応を促すよう運用されるべきと平沢は考えていた。ところが革新派の台頭とともに、その影響を強く受けた大和田悌二らの勢力が平沢を排除して、電力行政の中枢を握った。大和田らは、私企業精神と公益性は対立するものと捉え、改正電気事業法にもとづき千葉区域の譲受を却下した。電気事業法改正時の、公益性と企業性を両立させるという理念は失われてしまい、電力国家管理への道が拓かれたのであった。これは同時に、改正電気事業法と電力国家管理の間の断絶を示している。京成が営業区域の譲受を狙ったのは、1930年代において電車事業が伸び悩む一方、電気供給業では成長が望めたためであった。しかしこの電鉄事業者の経営行動は、電力の公益性に反するとされてしまった。電鉄事業者の合理性と、電気供給事業者の統制とが対立しうることを、千葉区域譲受問題は明示したのである。

 補章では、京成電気軌道の経営者・後藤国彦の経営を分析し、それを手がかりに電鉄経営の分類を提示して、阪急中心の電鉄業観の相対化を試みた。後藤は川崎財閥の専門経営者から自立して京成を掌握し、阪急同様の多角経営を進めたとされる。しかし後藤は、自動車事業では沿線以外へ積極的に拡張し、電気供給業では沿線を離れた千葉県全域の営業区域を東京電灯から買収しようとするなど、インフラ事業には意欲的であったものの、不動産事業はたまたま入手した土地を販売した機会主義的な事業に過ぎず、駅ビルで百貨店を営むこともなかった。一方で大阪の車輌工場を買収して軍需生産に乗り出したり、革新官僚の財界進出の指南役となったり、翼賛選挙に出馬するなど、京成を中心にさまざまな方面へ活動を広げた。このような後藤の活動を手がかりに、Ⅰ:輸送専業型・Ⅱ:沿線開発型・Ⅲ:グループ拡大型という電鉄経営の分類を提案した。Ⅰは兼業をあまり行わなかった場合、Ⅱは阪急のように沿線地域でさまざまな事業を展開する場合、Ⅲは後藤の京成のように沿線にはあまりこだわらず、大きな資本を集積した鉄道事業をベースに、グループの拡張をめざすものである。一般的な電鉄経営モデルとされるのは阪急に代表されるⅡであるが、企業の拡張を広く図るⅢは資本の運動の論理としてはむしろオーソドックスといえる。しかし沿線を離れた野放図な拡張は、グループのめざす方向を見失って崩壊する危険性もあった。

 以上を総括すれば、民間による電鉄と電気供給の兼営事業は、企業性と公益性を両立させた経営を行い、「阪神間モダニズム」のような近代日本の都市形成を支える役割を果たした。しかし、地域ごとに交通と動力を兼営する民間社会資本事業の存在は、単一の業界ごとの全国的な統制と対立し、電力国家管理に至る原因の一つともなって、消滅を余儀なくされたのである。

 

以上