堀辰雄(1904~1953)は、西洋文学の影響を深く受け、翻訳・詩・小説を著したほか、プルーストやリルケについても当時の先進的な理解を示した文学者の一人であったとされる。しかし堀は、『かげろふの日記』(昭和十二年十二月「改造」掲載)などを著した昭和十年代ころより、日本の古典文学を、随筆や創作において積極的にとりいれていく。このような古典文学への接近は、戦時体制を色濃くしていく時流への敏感な反応、もしくは、自らの資質によりそった芸術的な関心として論じられていた。従来的な評価に即すならば堀文学における古典文学受容は、微温的、自己保身的なものとも受け取れる。それがために、本質的な意味で戦時下の現実や古典文学の神髄に対峙していないといった、批判や留保も指摘されてきた。   

  しかしながら、堀辰雄の残した作品やノート、手沢本などをあらためて検証すると、堀が同時代における古典回帰の状況や、典拠となる古典文学と真正面から対峙しながら、創作を続けていた痕跡がうかがわれる。本論は、その洞察や戦略性がどのような点で評価されるものなのかを、明らかにする試みである。

 文献学など国文学研究の方法論的見直しをめぐる同時代状況ともゆるやかな接点を持ちながら、堀辰雄は古典文学に取材し、作品化した。とりわけ堀の蔵書や創作などに見られる、当時の学問的な見地との接点や相関関係については、まだ解明の余地があり、国文学研究の歴史性・国際性を問い直す上でも重要かと思われる。

 堀辰雄が戦時下において日本の古典文学を少なからず参照し、悲劇や孤独、不条理や、死の観照さえ追究しながら、時局に追随する死の美化や表層的な復古主義に陥ることなく、倫理的・文学的な一貫性を保ち得たゆえんは何なのか。堀の創作活動にみられる西洋文学と日本古典文学からの取材の軌跡は、単なる作者の資質や時局的な要請としてではなく、戦時下の日本文学の果たし得た可能性の一つと見なすことができるだろう。そのことは、しばしば、現実から遊離したもの、国家主義イデオロギーに絡め取られかねないものと論じられてきた観のある「日本浪曼派」などがなぜ時代を席巻したのかを、問い直すことにも通じていくのではないか。

 以下に、本論における各章の内容を記す。

 

 第一部 堀文学における西洋的知性―〈芸術家小説〉の追求―

 第一章「『風立ちぬ』を生んだ文体と方法論」では、堀辰雄の代表作『風立ちぬ』が、生前の恋人節子との日々という二度と回帰できない時間を、その時の特殊で繊細な幸福感によりそいつつ、一方では「私」のエゴイズムを断罪し対象化するような、重層的な語りの視点をもって描いていることを指摘した。「私」に追い打ちをかける生と死の懸隔という酷薄さと、節子の死を乗り越える「私」の救済という、相対するテーマを両立させるにあたり、リルケの影響が深く介在していることを明らかにした。

 第二章「『美しい村』におけるゲーテとプルースト―〈芸術家小説〉の観点から」は、『風立ちぬ』に先立って執筆され、同じく軽井沢とおぼしき舞台や、小説を書く「私」が登場する『美しい村』を考察した。従来の研究では本作はプルーストの影響、ないしそれからの逸脱が現れたものとされてきたが、「芸術を創造する」ということそれ自体を題材化してみせる小説であることに着目し、本作がプルースト『失われた時を求めて』とゲーテ『若きウェルテルの悩み』を濃密につなぐ主題性をもっている点を指摘した。関連して、楽曲形式のフーガ(遁走曲)に学んだ作品構成や、その他の典拠、絵や音楽といった芸術的ジャンルとのつながりがみられることを明らかにした。

 第三章「『美しい村』から『風立ちぬ』へ―合わせ鏡としての両作品」では、『美しい村』と『風立ちぬ』は、堀自身が自序にも指摘したように相似性がみられることに着目した。両者には共通する典拠や特徴があると同時に、対照的なテーマや異なる語りの方法も指摘できる。両作品の比較から、不条理や悲しみの描出が堀作品において深化していく筋道を考察した。

 

   第二部 堀辰雄の文学―日本古典文学と西洋文学の結節点

第一章「『曠野』における達成―“古典回帰”との関連と「不条理」の追求― 」では、 昭和十六年十二月「改造」掲載の『曠野』において、日本の古典文学および西洋文学から着想が得られた痕跡を明らかにし、堀作品における新たな解釈の可能性を展開した。また、堀の蔵書調査から、従来典拠として自明視されてきた「今昔物語集」の他に「伊勢物語」の略本、アンドレ・ジイド『狭き門』などの典拠を指摘した。

 第二章「『姨捨』にみる東西文学の融合―「永遠の女性」について 」では、「更級日記」を典拠とした、昭和十五年七月「文藝春秋」掲載の『姨捨』を論じた。本作は、少女のころにいだいた夢が破られていく女の生涯を描きながら、非現実的な憧憬の肯定ともとれる結末で閉じられており、解釈についてはさまざまな見解が示されてきた。夢に破れた女性のかがやきという、一見両義的で難解なテーマは、従来リルケの作品に描かれた女性像に由来するものとされてきた。しかしそれのみに留まらず、「更級日記」における「源氏物語」の影響や、漢詩文の発想などにも通じる要素があることを、堀の手沢本や原稿から明らかにした。また、本作の女性表象が、戦時下を支える「良妻賢母」を推奨するような、当時の女性表象とは似て非なる点があることを考察した。

 第三章「『姨捨』『姨捨記』と更級日記―保田與重郎との関連― 」では、古典回帰といわれる昭和十年代の、小説・評論・学界における「更級日記」受容を分析した。戦時下の古典回帰の一端を牽引したとも指摘される「日本浪曼派」の代表格、保田與重郎の「更級日記」論に、堀が影響を受けたことは、これまで、堀の西洋文学受容と矛盾するものとされてきた。しかしそうではなく、堀が保田與重郎の見解の良質な側面に共感したとみられ、その点において西洋文学の本質とも矛盾しないことを指摘した。またそれは、当時の国文学研究の主流が、日記文学を、史実的要素や作者の告白、写実性に重きを置いて理解していたことに照らし合わせると、日記文学の虚構的な秩序をいち早く指摘している点で、堀と保田の共通点が注目すべきものであることを指摘した。

 

 第三部 「昭和十年代」と“古典回帰”試論 ―国文学研究と「日本浪曼派」

 第一章「堀辰雄と古典文学―実存と“他者”による救いの観照」では、堀文学の初期と古典文学受容以降のつながりを考察した。堀がかねてより、心理変化の不可知性や、他者との懸隔など、矛盾に富んだ人間存在の側面に関心を寄せていたことは、指摘されてきた。そのような不合理な人間存在への洞察が、堀文学における古典文学受容の必然性ともみられ、さらにはそのことが、古典文学を通じていかに深化していったのかを指摘した。      

 第二章「堀辰雄『魂を鎮める歌』――「万葉集」と「伊勢物語」の連関」では、 堀辰雄が「万葉集」と「伊勢物語」に言及した『魂を鎮める歌』を論じた。それは、きわめて独特な原典理解とみられるが、同時代に対する批評性のほか、折口信夫との影響関係、リルケの受容が指摘でき、それらがいかにして通底しているのかを考察した。

 第三章「反語的精神の萌芽―「日本浪曼派」始発期の可能性と亀井勝一郎『生けるユダ(シエストフ論)』」では、戦時下の古典受容において独特な位置を占めた「日本浪曼派」の、始発期にあった良質なエネルギーと、それが変容していく限界とを明らかにした。その一人、亀井勝一郎の文学的出発点では、政治的な理想を破られた者が「転向」し、文筆に自身の存在意義をかけていくことの苦渋と弁明が、晦渋な文体でもって生み出されている。それは、とりわけ戦時体制の色濃い昭和十年前後において、政治や時局的制約との厳しい相克に対峙した言説の問題を解き明かすことにもつながっていく。