南北朝時代、二条派歌壇を先導し、その正風を代表した人物といえば、誰もが頓阿の名を思い浮かべるだろう。頓阿は二階堂氏の末流という出自にもかかわらず、為世門の和歌四天王と称され、勅撰集の編纂まで担っている。一介の野僧に過ぎなかった頓阿にこれほどの成功をもたらした要因は、いかなるものであったろうか。本論文はこのような些細な疑問から始まった。

 中世からの頓阿に対する評価をふりかえると、今川了俊を筆頭とする冷泉家の激しい批判の声はさておいて、頓阿への肯定的な評価でさえも、その大半は頓阿の和歌が成し遂げた芸術的な達成よりは、二条派の正風を頑なに守りぬいたことにのみ向けられたものである。しかも頓阿に対する評価の基底には、彼の輝かしい成功の原因を、時代の変動を敏感に感知し、誰も敵に回さない頓阿の処世術に求めようとする意識がある。本論文の目的は、これまで誤って軽んじられてきた頓阿の和歌の本質を、処世術といった歌以外の要素にとらわれず、正しい評価の俎上に載せることにある。そのため、彼のどのような素質がこれほどの成功を可能にしたかを究明するものである。

 そしてその一環として、頓阿の歌人としての大成に繋がったと思われる、さまざまな事跡の中、まず彼が一生に亘って繰り返した旅と旅の歌に注目した。特に若き日の頓阿が歌人としての素養を培う機会になったと思われる頓阿の東国行脚を研究の糸口とし、それが彼の歌にいかなる影響を及ぼし、いかなる詠法を生み出させたのかを考察した。さらに彼の歌歴の総まとめというべき『草庵集』の構成や、彼が残した二つの百首歌にも注目した。

 第一章第一節では、頓阿の「田子の浦」を詠んだ歌のすべてが赤人の万葉歌を本歌にしている点に着目した。まず時代毎の田子の浦の認識の変遷を辿り、頓阿の想定した田子の浦がいかなるものだったかを確認した。そして彼の詠んだ田子の浦の歌が表現の上では定家と他阿の影響を受けており、題詠とはいえ、田子の浦を歩いた赤人の心と重なる面が多く、それは彼自身の旅の実体験に拠るところが大きいと考えた。こうした頓阿の詠歌態度は逢坂の関と粟津を詠んだ歌からも確認でき、宗尊親王や公朝など、旅の実体験を歌に詠み込もうとした当時の歌人たちの動向と無縁ではない。頓阿は、題詠とはいえ、自身の東国行脚から得た歌枕の現実に基づきつつ、古典の世界に感動を見いだしている。つまり、古典の美的空間に旅の現実を絶妙に融和させていると言える。

 第二節では、『草庵集』の羇旅部の歌とその構成について考察した。その検証のために羇旅部の富士見の歌群、白河の関に関わる歌群、難波河尻の塩湯浴みの歌群に焦点を当て、それぞれの配列にうかがえる頓阿の構成意識を究明した。まず、羇旅部の冒頭の富士見関係の歌群には、題詠にもかかわらず、東海道沿いの旅のリアリティーを意識した配列が認められる。次に白河の関に関わる歌群の配列には、古歌を媒介にして歌を付け合わせる、連歌にも通じる連続性が秘められていた。ここには西行思慕を契機にし、隣り合う歌どうしを互いに呼応させ、西行の詠んだ古歌の世界を再現しようとする構成意識が確認できる。そして二条家歌人との塩湯浴みが詠まれた歌群は、歌林苑会衆の難波塩湯浴み時の贈答歌を彷彿させる。頓阿は難波逍遙の現実詠を、虚構詠との言葉の連絡によって、数寄者の旅の一コマとして位置づけたのである。このように『草庵集』の羇旅部には、より現実感が浮かび上がるように配列したり、古歌に対する憧れを下敷きに虚構の旅日記を部分的に設けたり、虚構詠と現実詠が結びつくように工夫されたりしていたことを検証した。

 第三節では、『草庵集』の四季部の構成にはいかなる特性が認められるかを検証した。まず注目されるのは、短編化しやすい歌どうしを自然に繋げていくことに細心の工夫が施されていることである。互いに縁のある表現によって、隣り合う歌同士を関係付けている。同じ本歌を踏まえた歌を並べたり、あるいはそれぞれの主題に関わるつなぎの歌を設ける手法も認められる。総じて『草庵集』の四季部は、各々の歌をさまざまな媒介をもって結びつけ、互いに引き寄せる引力を生み出している。『草庵集』は勅撰集の構成を踏襲しただけではなく、歌どうしが織り成す作品として高い完成度をもっていることを明らかにした。

 第二章では頓阿の残した三種の百首歌のうち、本文が確定している頓阿の百首Aと百首Bに注釈をほどこした。校異、通釈、語釈、簡単な評をつけている。

 第三章では第二章の注釈作業を踏まえ、いくつかの疑問点を検証してみた。

 まず一節では、百首Aが『宝治百首』の題に則って詠まれたことに着目し、『宝治百首』及び『宝治百首』の題で詠まれた雅有の百首に詠まれた歌枕と、百首Aに詠まれた歌枕を比較検証した。百首Aには歌枕を詠み込んだ例が際だって多く、頓阿自身が触れた太神宮の様相を表すように太神宮と伊勢関係の歌が配置されている。西行への強い仰慕の念により、西行の詠んだ伊勢関係の歌枕を中心にして百首を構成しようとした頓阿の意志が強くうかがわれる。百首Aの構想の前提に、この意志があるため、百首全体に含まれる歌枕の総数が増えたものと判断される。

 第二節では、百首Bの成立にかかわる問題を考察した。百首Bはその成立年時に関する情報が皆無に等しく、頓阿の晩年の成立ではないかと推定されてきた。それは百首Bの歌に『草庵集』(正・続)と重なる表現が頻出するにもかかわらず、重複する例が一首も見当たらないことによる。そこで第二章の注釈作業に基づいて、頓阿の百首Bの歌とそれに類似した『草庵集』(正・続)の実例を検証し、各歌の成立の前後関係を考察した。百首Bと重複表現をもつ『草庵集』(正・続)の歌は年代が判明する限りでは、彼の四十代半ばから最晩年にわたっており、しかも百首Bの歌は『草庵集』(正・続)の歌とその表現に比べて全体的に素直で素朴な措辞が用いられていることが分かった。よって百首Bの成立を、頓阿晩年とするよりは、四十代半ばまでの成立で、試行錯誤の跡の見られる習作と考えることに蓋然性があると考えた。

 ここに至って古歌にのみすがった古臭い歌だという頓阿に対する批判は、再考を促されることになる。頓阿は青年期より、古典への憧憬を旅という具体的な行為を通して表している。彼の生涯に亘って繰り返された旅は、大自然に身を沈め、そこから見いだした旅の感動と歌枕の現実を古典の世界に重ねていく作業にほかならなかった。そして題詠という形式にもかかわらず、古典の世界に閉塞することなく、古典の世界と自分の旅という経験とを違和感なく融和させ、新たに独自の美的空間を構築してみせたのである。さらに頓阿の優れた所は、こうした工夫を一首の表現世界のみならず、歌の配列全体にも生かしているところにあった。特に『草庵集』の羇旅部と四季部には各々の歌を縁のある詞によって緊密に結びつける工夫が見られる。

 頓阿の歌は個別に見ても二条派を代表するにふさわしい水準に到達している。それとともに、個々の歌の表現する美的空間を結びつけ、より大きな時空と物語を形成する頓阿の技量についても認められるべきである。その技量は、「頓阿はかかり幽玄にすがたなだらかに、ことごとしくなくて・・・」(『近来風躰』)と評される彼の歌の性格と密接にかかわるものである。そして旅の経験は、その彼の素養を培う契機になったのではないかと考えられる。