本稿は、琉球と薩摩・日本との外交および文化交流の諸相を明らかにするものである。

第一部「琉球・薩摩海域の諸相」では、琉球・薩摩及び両地域の間に広がる海域で展開された外交や交流について考察した。

第一章「中世後期の種子島・薩摩・琉球」では、中世後期の種子島氏の琉球・薩摩海域における位置づけを試みた。種子島氏は、島津氏の合戦に参加することで南島への支配を確立していったが、そのことは種子島氏に唐船などとの接触や琉球貿易の機会をもたらした。さらに、十五世紀後半の法華宗改宗後には畿内と種子島とを往来するヒトの流れが増加した。そのような状況下、種子島氏は入手した唐物を京都の公家や武将に贈り、畿内とのつながりを強めていった。なお、畿内から来島した人物を積極的に家臣として登用していたことも注目される。このようにして形成された種子島と京都とのつながりは、島津氏にとっても利用価値のあるものだった。すなわち、本宗家の家督を奪取した相州家が天文二十一年(一五五二)の島津貴久の修理大夫任官を実現した際には、この種子島氏と京都とのつながりが利用されたと考えられるのである。種子島氏は、京都とのつながりの深さや鉄砲に関する知識・技術の保有を背景に、島津氏との交流を維持したが、島津氏が絶対的な存在というわけではなく、他の領主とも積極的に交流を持っていた。

 一方、十六世紀の琉球王国では、尚真王の治世下、自国を周辺の島々より上位と見なす意識が生まれていた。琉球王国が懐いていた、琉球を中心とする秩序の中に、貿易のために使者を派遣していた種子島氏も位置づけられることになる。種子島氏は琉球の秩序に包摂されることで貿易を続けていたと言える。なお、種子島忠時の琉球貿易の背景には、日明貿易を展開する細川高国との提携により、細川氏が明へもたらす商品を琉球から入手する狙いがあったと考えられる。大内義隆による天文十一年(一五四二)の種子島船への妨害工作も、細川晴元の遣明船派遣を妨害しようとしたという観点から見直されるべきであろう。

種子島氏は、海外貿易を行う勢力にとって重要な地点を支配しており、その特質を背景に、周辺の勢力と幅広い交渉を持っていたのである。島津氏の合戦への参加を島津氏から「忠節」と位置付けられ、琉球への貿易船派遣を琉球から「忠節」と見なされていた。この二つの「忠節」により、種子島氏の南島知行は維持され、日本の諸勢力の対琉球貿易の上でも大きな役割を担うことができたのである。

しかし、そのような種子島氏も、島津氏の支配下に入り、薩摩藩の家老として近世を迎えることとなる。その近世の種子島氏と琉球の交流を第二章「近世琉球と種子島の交流」でとりあげた。十七世紀後半から十八世紀前半にかけての当主である種子島久時と種子島久基の時代に種子島と琉球との交流が盛んに行われていた。久時が薩摩藩の家老として江戸上りに随行する役割を担っており、久基もまた「監琉球」の役(琉球方)を担っていたということが種子島と琉球の交流の背景にあるだろう。それに加え、漂着民の送還による礼物の贈答も両者の間にはまま見られた。また、種子島の家臣が記した「新古見聞記」には、十八世紀末~十九世紀初頭の種子島家家臣と鹿児島滞在中の琉球人の交流や、種子島家家臣が琉球人から得た海外情報が記されていた。種子島・琉球間で活動した船頭の様子も垣間見ることができる。

 さらに、第三章「種子島への琉球船・唐船の漂着・破船」では、種子島に漂着、あるいは破船した琉球船と唐船への対応を見た。琉球船への対応は、唐船へのそれと類似した点も確認されたが、琉球人は唐人ほど厳しく島民から隔離されていたとは考えられず、この対応の違いに「異国」としての琉球の性格が表れているように思われる。近世の種子島に対し、鹿児島側には抜荷への警戒心があった。琉球・薩摩海域の重要な寄港地であるという特徴、種子島の船頭が琉球・薩摩間を往来していたこと、破船しない限り鹿児島役人が種子島に来ることはなかったという漂着船への対応のありかた、などが種子島で抜荷が盛んに行われた背景として考えられる。

以上のような第一部の論考により、琉球・薩摩海域の人々の活動の一端が明らかになったと考える。しかしながら、今回は「新古見聞記」などこれまで注目されてこなかった史料を紹介するに留まり、深い考察にまでは至ることができなかった。種子島以外の地域、島津氏家臣のもとに残る史料も博捜することに加え、収集した史料の考察を深めることが今後の課題である。

 第二部「琉球・日本の文化交流」では、日本の文化や価値観を琉球人がどのように受容し、内在化していったのかを考察した。

 第一章「琉球辞令書の様式変化に関する考察」では、従来、古琉球辞令書、過渡期辞令書、近世琉球辞令書の三つに分類されていた辞令書を、古琉球辞令書、過渡期Ⅰ型辞令書、過渡期Ⅱ型辞令書、近世琉球辞令書の四つに分類し、それぞれの変化の背景を考察した。古琉球辞令書から過渡期Ⅰ型辞令書への変化の時期には、島津家に対して出される琉球の文書も様式が変化し、全体的に、琉球の文書様式が「日本化」したものと考えられる。その背景には、菊隠という日本の事情に詳しい僧が外交文書作成を主導したこととの関連性が想起される。そして菊隠の隠居に合わせるかのように、過渡期Ⅱ型辞令書が登場する。過渡期Ⅱ型はⅠ型と比べると古琉球辞令書に近く、古琉球への揺り戻しと捉えられる。

また、辞令書を含む琉球の文書を作成していた役職についても考察した。十七世紀前半の琉球には「手判書」「御手判書」「状書」「御状書」といった職名が見られる。これらは十七世紀後半に「評定所筆者」と「御右筆」に再編されるが、そこに至る過程で、琉球人による書札礼の習得が進んでいた。すなわち、評定所筆者や御右筆といった職の整備は、日本の書札礼を習得した琉球人の独力での文書作成のスタートであった。そして辞令書の作成業務は納殿から御右筆へ移される。書札礼を習得した御右筆によって作成されることで、辞令書は日本同様、完全な漢字表記の公文書へと変化を遂げたものと考えられる。

 このように、島津侵攻後の琉球では、「日本化」が進み、漢字による文書作成が一般的になっていった。そのような状況に対応するため、禅僧や日本から渡来してきた人達に頼るのではなく、琉球人自らによる「日本的」な文書作成が必要となり、書札礼の習得や文書作成職の整備が促されたのだと考えられる。

 第二章「琉球人と和歌」では、琉球の和歌受容の歴史と琉球人の和歌表現を研究対象とした。古琉球期の状況については不明な点が多いが、琉球人が畿内の文化人に添削を依頼していたであろうこと、琉球人が対日外交の場で和歌に触れていたこと、上級官人や日本から渡来してきた人々などの一部の間で和歌は詠まれていたであろうこと、を推論した。

 一方、島津氏の侵攻後、和歌が幅広く受容されていく中で、十七世紀後半以降は琉球人の中に他の琉球人の和歌の師となる人物も登場したことを確認した。しかし、琉球人が琉球人を師とする形は安定したものではなく、近世の史料からは、師とするべき人物が琉球国内にいないといった状況が読み取れる。そのため、琉球人が和歌を学ぶにあたっては薩摩藩士との子弟関係が不可欠だったのである。また、表現面では、琉球国内で詠まれた和歌には、琉球語や琉球の地名が詠み込まれることがあったことを指摘した。意外にも琉球人は独自の表現を模索していたのである。

 加えて、もともと鬱陵島を指す語であった「うるま」がどのような経緯で琉球の別名となったのかを推論した。「うるま」は、言葉が通じないというニュアンスを持つ語句だが、琉球人は和歌を巧みに詠むことで、そのような「うるま」のイメージを裏切っていった。しかし、それは同時に、日本側の「化服」の表れというふうに捉えられることにもつながった。

 以上の考察により、琉球人の和歌習得の在り方が明らかになると共に、琉球人の自己認識、日本側の琉球認識の一端を垣間見ることができる。すなわち、琉球人は江戸立の際に和歌を巧みに詠むことで、「うるま」としての矜持を持ち、一方の日本はそのような琉球を見て、異国を従える国としての自負を高めていったと考えられるのである。

第三章「近世琉球の日本文化受容」では、日本由来の文芸・芸能を琉球人がどのように受容していったのかを見た。古琉球の時代、琉球王国は日本から渡来した人物を積極的に登用しており、堺出身の喜安蕃元の例にも見られるように、茶道のような日本の文化についてはその傾向が強かったと思われる。島津氏の侵攻後、日本から琉球への自由な渡海が制限される一方、薩摩藩士との交流の頻度が増えたことで、日本の文化は琉球士族の重要な嗜みになっていった。

十八世紀の琉球は「中国化」が進んだ時期として知られるが、一方では、多くの和文が記され、立花や茶道がさかんになった時期であった。その背景には、首里王府による日本文化の奨励があった。「中国化」が強調されがちな近世琉球ではあるが、同時に日本文化の受容が進み、それらが士族たちの間に広がっていたことも見過ごしてはならない。

 第二部で見てきたように、近世の琉球士族は日本から伝わってきた文化を積極的に受容しており、そのことを誇るような意識も見られた。琉球士族の意識の中で日本文化の存在感が増してきているともとれる。しかしながら、本稿では、あくまで日本・薩摩から習得した文化に限って検討したに過ぎない。中国文化の受容の様相も検討した上で、日本文化受容の意義を「中国化」の時代の中にきちんと位置付けることが今後の課題である。